「着いたよ」
アンに続いて車を降りたリューは口をぽかんと開けていた。このそびえたつ建物は一体何階建てだろうか
――十階を超えたところで無駄だと悟り、数えるのをやめた。各階ごとに通路があって、全く同じ形状のドアが等間隔に並んでいる。ドアのすぐ横には表札らしきプレートとインターホン。少なくともオフィスビルではないだろう。
「何してるの。こっち」
呆れた声が届いてリューは思考を中断させる。少し離れた場所からアンがこちらを見ていた。慌てて小走りに駆け寄れば彼女は大きな鞄を持ち直し、頑丈そうな扉のロックを慣れた手つきで解除した。
くぐり抜けた先は中庭になっていた。小道の両側には春らしく色とりどりの花が植えられ目を楽しませてくれている。ここにウィルがいたらきっと「ぼく、この花知ってるよ!」なんて目を輝かせながら教えてくれるんだろうな。いや、今は花を愛でている場合ではなくて。
「ちょ、ちょっと待ってアン。あの、ここは一体
……」
ようやくアンを捕まえられたのはエレベーターの前だった。扉の横にモニターがついていて、エレベーター内部が映し出されているようだ。あ、親子連れが乗ってきた。
「言ってなかったっけ。引越ししたのよ」
「そうなんだ。言ってくれたら手伝ったのに」
「あんた入院してたでしょ」
「あ、そっか」
エレベータードアが開き、中から親子連れが出てきた。目が合った途端に会釈され、リューも慌てて頭を下げた。モニターで見ていたとはいえそのまま本当に降りてくるとなんとなく不思議な気分になる。ボールを持っているところを見るとこれから公園でも行くのかもしれない。
「そういうわけだから、まだ散らかってるけどリューは気にせずゆっくりしてて。とりあえず寝られるだけのスペースは確保してあるから」
アンは行き先階ボタンの列を指で辿り、「3」を押した。
――三階か。高いんだろうな
……。
そう思ったが声には出さない。リューが高所恐怖症なことはアンもちゃんと知っているし、三階ならぎりぎり耐えられる高さではある。外をあまり見ないようにすれば大丈夫なはずだ、多分。
だが着いた先でリューはまたも口をぽかんと開けて固まっていた。
ここは
アンの新しい家。彼女が言うには3LDK。玄関からまっすぐ伸びる廊下を抜ければそこはリビングで、真正面に見える大きな掃き出し窓からは燦々と太陽の光が降り注いでいる。部屋の隅には確かに段ボール箱が積み上がっているものの足の踏み場がないほどではない。
リューの目を釘付けにしたのは荷物の山ではなかった。部屋のど真ん中を占領している
あるもの。それにとても見覚えがある気がする
――。
「ちょ、ちょっと待ってアン。これ、もしかしなくても
俺のコタツじゃ
……」
「うん。まだしばらくは朝晩冷えそうだし、いるでしょ?」
「そりゃいるけど
……。いや、だからなんでこれがここにあるのかなぁって」
小首を傾げ、リューはへらと笑みを浮かべる。思案げに人差し指を自身の頬にとんとんと当てていたアンは、「順を追って説明しようか」と口にした。
* *
「事の発端はあんたからの電話」
件のコタツに入るとアンがすぐお茶を淹れてくれた。この味はいつものインスタントミルクティー。愛用しているマグカップで出てきたがそれについても今は言及を避けておく。
「深夜に死にそうな声で『俺はもうだめだ』だの『今までありがとう』だの言われたらね、誰だって一体何事ってびっくりするでしょ」
「だって本当に死ぬかもって思ったんだよ。意識も朦朧としてたし」
「ただの胃腸炎で死ぬやつなんかいない」
ピシャリと言ってのけたアンにリューが押し黙る。彼女の言い分はごもっともなので何も言い返すことができない。
「あんたね、ちょっとはあたしの身にもなってみなさいよ。駆けつけたら真っ暗な部屋の中にあんたが倒れてるのよ。どんなに心配したか
……あんな思いは二度としたくない」
「うん、ごめん
……他に頼れる人がいなかったから」
電話をした十数分後にはアンが血相を変えて飛んできた。救急車が手配され、そのまま数日の入院生活が決まった。それどころかリューが病院嫌いであることをよく知るアンは、せっかくだからといろんな検査をひと通り受けさせたのだった。そんなことがまかり通るのかと抗議したものの本当に通ってしまうともう抵抗することもできなかった。
結果、脱水症状の他には全くの異常なし。それでリューは「病院にはもう来ない。二度と世話にならない」と宣言したのだが。
アンの返答は「あんたをひとりにしとくとロクなことがない。しばらく身の回りのことをしてあげるから早く元気になりなさい」だった。
退院手続きが終わるとリューはアンの運転する車に乗りこんだ。てっきりアンの実家に連れていかれるのだと思っていた。
気難しいアンの兄にはどういうふうに話が通っているのだろう。
そして兄以上に厳格だというアンの母にはなんと挨拶したものか。
戦々恐々としていたリューだったが、着いてみたらこのマンションだったというわけだ。
「とにかく、大事なくてよかったわ」
「うん
……今回は本当に助かったよ。いや今回だけじゃなくてね、こんな俺にもいつもよくしてくれて、アンにはすごく感謝してるんだ。いい機会だからあらためて言わせて。アン、いつもありがとう」
「
……まあ、重要なのはここからなんだけどね」
言葉を切ったアンはそこで自分のマグカップを口に運んだ。む、と眉間に力を込めたこの顔は照れているのを誤魔化したいときだ。
内心にやにや湧いてくる笑みを全力で堪え、口許に感情が出ないようリューも自身のマグを口にする。いつものようにコタツに入って、いつもの飲み物をいつものカップで飲みながら話す。そこだけを見れば本当にいつもの日常だ。目を閉じればまるで自分の部屋にいるみたいな。
アンはマグカップを静かに置いた。
「入院の二日目にあたし、着替えを取りにいったでしょ。そしたら大家が来たの。
更新の件で」
たっぷり三秒おいたあと、リューは大きく瞬いた。
更新。直近で思い浮かぶ更新といえば借りている部屋のことしかない。大家が来たのならなおさらに。
新年度を前に、いっそ新しい部屋を借りてはどうかとアンに打診されていたことを思い出した。とはいえ駅近なのに閑静で、且つ家賃もお手頃な我が城が自分ではなかなか気に入っているのだが。
壁時計の秒針が立てる規則正しい音がやけに大きく響いていた。あれは初めて見るものだ。その下の薄型テレビにも馴染みはないし、白いキャビネットだって見覚えがない。
けれど上にちょこんと置かれた小さなサボテンはアンが以前「あんたの部屋は殺風景だから緑が欲しい」と持ってきたものではないだろうか。そして隣に並んで座っているテディベアは先日チョコレートのお返しに贈ったものとそっくり。
再びアンを見やればにっこりと笑顔が返ってきた。彼女特有のいつもの笑みだ。信念に沿って動いたときに見せる、大輪の花が咲いたような
――。
やがてリューは息を呑んだ。そんな、まさか、もしかして。
ゆるゆると事態を把握しつつある青年にアンは最後通牒を突きつけた。
「郵便の転送届だけ済ませといたから、後の手続きは自分でやりなさいよ。家賃のこととか家事の分担なんかはまた追い追いね」
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