「月が、綺麗ですね」
夜風に紛れるような、小さな小さな囁き。けれども鈴を転がしたようなその耳触りの良い声をセイルが聞き逃すはずはなかった。
知らず、息を呑んでいた。思わず出かかった言葉も無理矢理飲みこんだ。その代わりに目で訴える。
おまえ、
その意味知ってて言ってんのか――と。
* * *
今日は楽しい一日だった。
久しぶりに親友と語らい有意義なひとときを過ごしたセイルは、その余韻に浸る間もなく叔母に呼び出された。
「あの子を探しておいで」
「はぁ? なんでオレが」
「暗くなってるのにまだ戻ってこないんだよ。多分、庭園にいると思うから」
叔母の言いつけはいつだって唐突だ。こちらの都合などお構いなしに、問答無用に命令が飛んでくる。とは言え文句などはとても口にできそうにないセイルである。逆らうとあとが怖いことは身をもって学んでいる。
ウィンザール邸には庭園がふたつある。
ひとつは表門からも見える場所の、四季折々の花が植えられた庭園である。日々手入れをされ、昼夜関係なく来客の目を楽しませる造りになっている、らしい。
なぜ〝らしい〟かというと、詳しく聞いたことも、また聞こうと思ったこともないからだ。セイル自身、遠目に色が派手だなと思う程度で花にはなんの興味もない。むしろ親友の方がやれ花の種がどうの、庭園の造りがどうのと詳しく、何やらいろいろ講釈を垂れていた気もする。
――そういや急に花に興味が出てきたみたいだったなアイツ。
ふと親友の浮わついた顔が思い浮かんだが、さっさと思考の外に閉め出した。まあ、あまり関わりのないことだ。
庭園の役割にしてもどうせ見栄だとか道楽だとか、大体そんなところだろう。
もうひとつの庭園は母が私的に愛でているものである。
敷地の奥まった場所に造られたこちらは表の庭園に比べればこぢんまりとしていて、いかにも母の好みらしい。
先ほど叔母が指した庭園もここのことだ。中央に
東屋があり、休んだり腰を落ち着けて花を愛でることができるのである。尋ね人になっているカレンは誰の邪魔も入らない静かなこの場所がいたく気に入り、ウィンザール邸に来た折には決まって足を運んでいるようだった。
件のガゼボに予想した通りの姿を認めたセイルは、安堵とも呆れともいえない溜息をついた。やや俯いて微動だにしないところを見ると、うたた寝でもしているのか。
「
――探した」
特に探しもしていないが多少の嫌味をこめ、ぞんざいに呼びかけた。ハッと顔を上げた少女の白く流れる髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。反応の速さからして別に寝ていたわけではないようだ。
だが、寝ていたわけでないのなら。
「こんなところで何してんだよ。暗いだろ」
「
……暗い?」
相変わらずおっとりとした高い声が返ってくる。今になって辺りを見渡しているということは日暮れにさえ気づいていなかったのか。
どこまでぼんやりしているんだ、この女は。
ようやくガゼボから出てきたカレンにセイルはやれやれと手を伸ばした。
「アンが、おまえ呼んでこいって。
……ほら」
手のひらを上向けて待つ。カレンはのろのろと右手を持ち上げた。その指先がセイルの手に触れるか触れないか
――そんな微妙な位置でぴたりと止まった。
宙に浮いたまま一向に重ならない手。痺れを切らして掴もうとした次の瞬間「あ、」と小さな声が
耳朶を打った。
「なんだよ」
「
……月が」
「つき?」
天を見上げるカレンの視線に釣られ、セイルも夜空に目をやった。
満月が浮かんでいた。親友を見送った時より明るく輝く白っぽい光が、梢よりほんの少し高い位置に。
そうしてセイルは耳を疑うことになる。
「月が、綺麗ですね」
夜風に紛れるような、小さな小さな囁き。けれども鈴を転がしたようなその耳触りの良い声をセイルが聞き逃すはずはなかった。
何よりも、その言葉は聞き逃せなかった。
――愛している、という意味が籠められているんですよ。
密やかな声が耳に蘇る。先ほど親友アッシュを見送るためエントランスを出たときのことだ。
ふたりの前には今まさに昇り始めたばかりの黄色い月が待っていた。月を目に入れたアッシュは「そういえば」と振り返った。
「
……という本を知っていますか、セイル?」
「なんだって?」
「巷で流行っている恋愛小説ですよ。悲恋もので、一度は想いを通じ合わせたふたりが運命に弄ばれ引き離されていくという
――」
「なんだそれ、馬鹿馬鹿しい」
けっ、と毒づく。鬱陶しそうな内容だなと思った。聞いただけで胸がむかむかしてくる。
「おまえそんなの読むのか」と不審の目を向ければ、アッシュは姉に半強制的に読まされたと言う。そんな話の一体どこが面白いのかセイルには全く理解できないが、多くの女性の間で大流行しているのだとか。
セイルの反応は想定内だったらしいアッシュはまあまあと彼を宥めた。問題はそこではなくてと前置きし、すっと声を潜めた。
「しばらく、〝月が綺麗〟という言葉には気をつけてくださいね。
……まあ、あなたが言うとも思えませんが」
「はぁ? 月?」
鼻に皺を寄せ、思いっ切り顰めっ面をみせるセイル。アッシュはコホンと咳払いをし、内緒話でもするように顔を近づけた。
「〝あなたを愛している〟という意味が籠められているんですよ。飽くまで物語の中でですけど。ラストの告白シーンでは、人目があって遠回しにしか想いを告げられないふたりが
――ああそんなこの世の終わりみたいな顔しないでください。あなたに合わない話なのは知ってます。とにかく今〝月が綺麗〟だと言うと言葉通りの意味ではなく、別の意味に受け取られますよ、ということです。もっとも
――」
あとに続いた言葉に、セイルはいよいよ開いた口が塞がらなかった。
ともかく、理解したのは「月が綺麗」と言えば「愛している」の意味に取られるということ。
まさか言われる側になるとは思ってもいなかったセイルである。
知らず、息を呑んでいた。その意味は知ってて言っているのかと、思わず出かかった言葉さえ無理矢理飲みこんだ。代わりに目で訴えてみたが、目前の少女はうっとりと天を見上げたまま。
――わざと別の意味で囁くのもありかと思いますけど。
セイルは、むうと唇を引き結んだ。親友のやけににやけた顔が浮かんで腹が立った。あれは何かを企んでいる顔だ。おそらく自分が告白でもするつもりか、もしくは既に言ったあとか。
そこまで考えてセイルはすうっと半眼を閉じた。どーでもいい。これこそが馬鹿馬鹿しい。
しばしの沈黙のあと、セイルは有無を言わせずそのほっそりした手を取った。そうして足早に邸へと続く
小径をふたり歩き出す。
――知ってるわけねえじゃん。
少し考えればわかることだ。いくら流行りの小説だろうと、生活に支障が出るほど目の悪かったカレンが好んで読むわけがない。だからさっきの〝月が綺麗〟はそのまま言葉通りに月が綺麗だという意味に決まっている。
今はカレンを叔母の元へ連れていくことだけを考えればいいのだ。月とか小説とか、関係ない話は全て忘れよう。
セイルが決意を新たにしたそのとき、不意に腕を強く引っ張られた。小さく悲鳴が上がりバランスを崩した彼女を、セイルは難なく受け止め支えた。いい加減慣れてしまったがこの女は本当によく転ぶ。
「すみません。ちゃんと下を見て歩きます」
俯き、消え入りそうな声でカレンは謝罪の言葉を口にした。これも耳にたこができるようだ。
――けど、ここで聞くのは初めてか。
考えてみるとこうして庭園をふたりで歩くのは顔合わせ以来のような気がする。
厳密に言えばあのとき歩いたのは表の庭園だった。手を繋がず、隣に並んで歩くこともなく、セイルの方から二言三言一方的に言葉を投げつけただけの、散歩とも呼べないようなもの。
あの頃とは取り巻く状況も、相手に対する想いも何もかも、本当にいろんなことが変わってしまった。
「
……なあ」
無意識に声をけていた。
「はい」と面を上げた彼女にセイルの視線は釘づけになった。癖のない白金色の滑らかな髪が夜風に流れて煌めいている。同色の睫毛に縁取られた瞳はまるで稀有な宝石のようだ。
そしてそこに映りこんでいたのは。
「
……つき」
月だ。丸い、蜂蜜色の月がそこにあった。白藍の瞳にその艶やかな光が溶けこんで不思議な色合いに輝いている。
柔らかな風がふたりの間を吹き抜けた。肩口にかかっていた絹糸のような髪がさらさらなびいて背に落ちる。
「え?」
小首を傾げる少女の声が耳に響いて、セイルはハッと我に返った。繋いだ手に思わず力が籠もる。
今、何を言った?
オレは今、
何を口走った?
――月と。確かに発音したことを認めて血の気が引いていく。月の話題は何やら面倒そうだし口にするまいと思っていたのに。
「
……いや、だから」
なんと、言い訳したものか。言い訳をするべきか。
おそらく知らないだろうと楽観視したい一方でもしかすると誰かから耳に入れられている可能性も否めず、迂闊に言葉を継ぐことができない。カレンの発言の意が曖昧なせいで。
「だからおまえがさっき、つ、月の
……、月が
……」
「月って、あの月ですか?」
セイルの肩向こうをカレンが指差した。セイルはぐっと詰まった。
つい〝月〟と口にしてしまったことに対する弁明をしようとしただけである。月があの月を指すのかというのはむしろこっちが聞きたいわけだし、何より今流行っているらしい話をおまえは知っているのか、さっきの台詞は隠喩なのか、そういったことを自然に手際よく聞き出したいのだ。
カレンの不思議そうな視線が刺さる。言葉が出てこない。沈黙が、気まずい。
次の瞬間セイルは閃いた。
「だからそう思うってことだよ、オレも!」
「何がですか?」
「き、きれいってやつが
……」
――同調しておけばいい。
言葉通りの意味でも、そうでなくても、とりあえず同調して共感したふうに見せておけば誰だって悪く思うことはないだろう。
「
……きれい?」
と思ったがダメだ。やっぱりダメだ。いまいちピンときていない少女を真正面に、セイルは心の中で首を振る。もしもカレンが先ほどの語を隠喩の意味で言ったのだとしたら、それに同調することは絶対にできない。
だって好きなんかじゃねーし!
カレンのことは好きではない。
特に嫌いというわけでもない。少し、
気になるだけである。気になるというか、気にかけなければいけないというか
――そばにいないとよく転ぶから、それで見ているだけだ。
だから〝愛している〟とは全く別の感情だし、そんな歯の浮くような言葉は絶対に言うわけにはいかない。違う違う違う。
「
……つ、つつ月がな、月だからなっ」
夜空を指差し念を押した。
ぱちくりと目を丸くするカレンを
一瞥して、セイルはさっさと視線を逸らした。
「行くぞ」
手を引き、再び歩き出す。斜め下から向けられる視線を感じながらただ前だけを見据える。
やがてセイルの耳に柔らかな声が届いた。
「ありがとうございます、セイルさん」
眉を顰め振り返れば少女と視線が絡んだ。花の綻ぶようなその嬉しそうな顔と言ったら
――。
念押しまでしたのに何故感謝されたのか、話をちゃんと聞いていたなら他の意味などないとわかったはずなのに。
ますますわけがわからない。
頭の中に山ほど疑問符を浮かべ、セイルは光清かな道を往く。
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後半に続く。
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