焦燥

ブツメツフツマ / 烏谷ノエル
Event:大変!よくできま死た



(イベントアフター)


 美しくありたかった。
 俺は美しくあると信じていた。

 足元から崩された自信の向こうに眠っていたのは、底知れぬ穴だった。

 目を開ける。絶え間なくかちかちと鳴る秒針がいよいよ耳に障り始めた頃だった。
 カーテン越しに柔く入り込む日差しが、明かりのない部屋を照らしている。二限、いや、三限あたりだろうか。あの騒動の直後だ、真っ当に授業をしているのかすら定かではないが。
 寝返りを打つことすら億劫で、ただぼんやりと、ブランケットの中で緩慢に腕を動かした。左頬に触れる。たった一線の切り傷だというのに、残った傷痕はまだ生々しく、絆創膏の下で疼いている。
 それを認識するたびに、爪を立ててこの傷跡を滅茶苦茶にしてやりたいと思えてしまって、小さく唇を噛んだ。
 自分がおかしくなっている自覚はあった。どうしようもない穴の中で蹲る自分と、それを見下ろす自分がいて、けれどもいつになっても助けの手を差し伸べることはない。不思議な感覚だった。

 堂々巡りの思考を繰り返したとて意味はない。

 早くベッドから起き上がって、スキンケアをして、食事をして、自慢の服に袖を通した方がいくらかマシだ。
 そうわかっているのに動けない。
 空腹を訴える胃の声すら小さく、ただ空っぽゆえの痛みだけが微かに体を蝕むだけだ。
 頭の中で響いているのは、あの判子を受けてからずっと鳴り止まない、美しさへの切望だ。
 あの時よりもいくらかクリアになった思考は、それゆえに残酷なまでに鮮明に、その命題を浮かび上がらせる。
(美しくなりたい)
(美しさとはなんだ?)
――俺は、どうなりたいんだ?)
 今までは、母の背を追いかけていたのだと思う。
 七億不思議なんてものになってしまった母。俺が祓ってやるしかなかった母。誰よりも美しかった母。知らず知らずのうち、俺にとっての美的基準が母になっていたとしてもおかしくはない。
 だからといって、母のようになりたいわけではない。お前は母さんに似てきたな、と父が物悲しそうに笑うたび、口には出さなかったが、腹の底で煮えるような怒りを覚えていた。
 俺を誰かと比べるな。もういない人間の影など重ねるな。
 燻っていたそんな怒りが、そのまま自分に突き刺さることを知る。
(それなら。俺はどうなりたかったんだ?)
 足元が揺らぐ。今まで間違いなく立てていた地面が崩れていく。
 今の今まで見ないふりをしてきた問い。初めのうちは、確かに答えがあったのだろうか、今はもう定かではない。

 縋りつくようにシーツを握りしめる。指先が白むほどに。赤い爪が食い込むほどに。それでも足りず、ブランケットの中で体を縮こませた。
 なにがそんなに恐ろしいのか、俺にさえもわからない。
 ただの後遺症だ、耐えていればそのうちに過ぎ去るだろう嵐だ。理性の部分はそう叫ぼうとしていて、けれども、確かに、それで済むことではないとも、わかっている。
 この恐怖はいつしか去るだろう。身を焼くほどの焦燥も、底知れぬ穴に落ちゆく浮遊感も、いつしか過ぎ去って忘れていくだろう。
 だが、一度眼前に差し出された問い掛けはどこまでも事実で、目を逸らしてしまえば、なにもかもからも逃げてしまう気がした。
……それは、それは……美しくないことだ)
 答えは出なくとも、向き合わねばならない。
 美しさとは何か。
 古来より人類の追いかけてきたであろう解を、俺は、俺だけの答えを、見つけねばならない。
 その途方のなさを思い、果てに待つ暗闇を思い、また恐ろしくなってかたく目を閉じた。目が覚めれば、今度は夕陽でも射し込んでいるだろうか。