焦燥

ブツメツフツマ / 烏谷ノエル
Event:大変!よくできま死た


 足りない。
 漠然と、そして焦がれるように、そう思った。

 校内は混乱を極め、どこもかしこも人で溢れかえっていた。一人一人の動向に気を配っている余裕などなく、ゆえに暴動は止まらない。廊下には人いきれのために熱気が籠っていてもおかしくはないのだが、いつの間にやら誰かに割られた窓から吹き込む風のせいで、暑さは感じなかった。
 まっすぐに歩く。視界を遮るように額から血が流れてきて、舌打ちをした。乱雑に手の甲で拭う。
 その時、視界に悪趣味な判子の火傷が写って、また神経を逆撫でしていった。
 この傷のせいなのだということは理解している。手に刻まれたこの押印のせいで、こんなにも胸が焦がれているのだと、理性の部分ではわかっているのだ。精神に作用する七億不思議自体は珍しくも何ともない。見習いであっても祓い師である以上、多少の抵抗力は有しているつもりだった。
……失策だったな。俺一人での沈静は厳しかったか……
 自身の血の匂いを覚えながら歩いていく。額を切ってしまったらしい。頬にもじくじくとした痛みを感じる。手の火傷痕も、未だに熱を孕んでやみはしない。
 失策というのは、先刻のひと悶着のことであった。
 暴走状態にあった教師(判子を視認できていなかったので一般人だろう)を沈静化しようとしたところ、逆上されてしまい、取り押さえるどころか取り押さえられてしまった。
 他の特待生の助力もあってその場は収まったが、床に強かに頭を打ち付け、教師の持っていた刃物が頬のすぐ横を掠めていった。
 そんな風に身動きの取れない状態だったから、判子型の七億不思議が視界に写っても、うまく対処ができなかった。左手に焼き付いた時の痛みが、そして精神の根底に触れるような気味悪さが、まだこの身に残っているようだった。
 
 美しくない。こんなものは俺らしくない。
 そう内心で吐き捨てるたび、恐ろしいほど、心臓が落ち着かず早鐘を打つ。それは恐怖にも似ていた。
 焦燥。駆り立てられるように、思わず走り出す。人混みを無理やり掻き分ける。力が足りない。人にも重荷にも押し潰されそうになりながら、まっすぐな廊下を、覚束ない足取りで走り抜けようとする。
 それ以外にこの焦燥の打ち消し方を知らなかった。それ以外にこの恐怖から逃げる方法を知らなかった。
 履き慣れたはずのヒールですら今は牙を剥き、鳴り響く足音がまるで俺を追い立てているようにも聞こえた。
 どこまで行こうか。どこでもいい。ここではないどこか。美しくない俺を誰も見ない場所。
 咄嗟に見えた扉に飛び込む。男子トイレには人気がなく、背後で扉が閉まれば、騒乱は少しばかり遠ざかった、
 平時であれば綺麗に片付けられている掃除用具がロッカーに収まりきらず、乱雑に床に投げ出されている。誰かがここで暴れた後なのだろう。暴動の跡が随所に残っていた。視界に移る範囲に限っても、いくらかこの場所にはそぐわない――例えば金属バット、例えば筆記用具、例えばペンライト――が散らばっている。
 導かれるようにして、洗面所の前に立った。蛇口の閉まりきっていない水道からは一定間隔で水滴が流れ落ち、遠くの喧騒と裏腹の静けさを写し出す。同時に、その音が自分の鼓動よりもずっと遅いこと、そして自分の鼓動がずっと速いことを、痛いほど身に知らせてくれた。
 胃の中のものでも吐き出せば、楽になるだろうか。
 排水溝を見つめながらそんなことを思う。ろくに内容物がないから、どうせ胃液を吐くばかりになるだろう。不毛だ。そんなことでは、この焦りは消せない。
 足りない。
 何が足りないのかはわかっている。
……、どうすれば、もっと美しくなれる」
 久方ぶりに聞いた自分の声は、思っていたよりもずっと低く、掠れて、醜かった。
「美しさが足りないんだ、俺は美しくない、だから祓いきれなかった、俺がもっと美しければよかった、美しくならなければいけない、俺は、もっと、もっと美しくなければ……
 言葉にしてみれば止めどなく、それこそ溢れ出ては絶え間ない。己に向けた呪詛だ。こんなものは七億不思議が見せる幻だ。そんなことはとうにわかっているのに、心が全くわかってくれない。
 顔を上げた。
 ひどい顔をした自分と目が合った。
 額からは血が流れ、下手に拭ったせいで前髪にまでべったりと貼り付いている。頬についた切り傷も、不格好に固まった血が傷口を塞ごうとしている。いずれもすぐに酸化して黒ずんでいくのだろう。
 昼夜問わない騒ぎによる寝不足が、頭の中に鳴り響いて巡り続ける呪詛が、ありありと目元に浮かび上がっている。いつの間にか切ったらしい唇の傷はルージュと見分けがつかなかった。
 何より美しくないのは、それを目の当たりにして愚かにも焦燥し続ける自分が映った瞳だった。
 美しくあらねばならない。どうすればいい。
 血を拭う。傷が開く。構うことはない。
 もっと強く。もっと美しく。あの日に俺の元から離れていった母親よりも美しく。
 いつの間にか止めていたらしい息を吐き、洗面台に手をついては縁を握り締め、鏡を睨み付ける。余裕のない自分の姿と直面する。その向こうに母が見える。母を喪わせた口紅は、果たして今の俺に相応しいのだろうか、こんなにも醜い俺に?
……ッ、相応しいわけがないだろう、こんな、こんな無様な姿で、こんな惨めな姿で!!」
 甲高く、ヒールの音。
 弾かれたように飛び退いた。その拍子にたたらを踏み、8cmのヒールではうまく体重を支えきれず、そのままぐしゃりと床に座り込む。タイルの冷たさが皮膚を刺す。
 呼吸が荒い。上手く息が吸えない。指先が震えている、赤いネイルなのか血の色なのかわからない、もう鏡を見たくない、もう自分の姿を認めることはできなかった。
「俺は、俺はこんな姿じゃない、俺は――!!」
 咄嗟に手を伸ばして何かを掴む。持ってみて初めてそれが金属バットであることに気づいたが、それを知っていても知らなくても、やることは同じだった。立ち上がる。鏡が目の前にある。それを、その奥を認識してしまう前に。
 思いきり振りかぶる。

 がしゃん、と割れる音がして、目の前に広がっていたのは、ひびのはいった鏡と、散らばった破片だった。その向こうには歪んだ鏡面に映る歪んだ俺がいる。
――は、…………二度と、俺の前に現れるな、」
 肩で息をして、意味のない言葉を吐き捨てた。
 外の暴動がようやく耳に届いた。バットを投げ捨てて扉を出る。振り返ることはない。
 美しさを証明するには、ひとつしかやるべきことはないのだ。
 足りないと急く焦燥が、いつまでも胸の奥に燻っている。