黒竹
2022-05-30 21:57:47
17779文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#5 花食み

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】


 この時期には珍しく雨が強く降っていた。冷え込みが強くなり、寮内も心なしかやや肌寒い。石動双葉は肩にブランケットをかけていて、窓の外を覗きながらクリスマスにはせめて雪になってほしいとささやかに願った。通っている学校やこの寮では特に話題になることもないが、やはり世間一般では大きなイベントだ。自分とは遠い事柄であっても、誰かの思い出になるといい。
 夕飯までの時間を使って宿題を片付けていると、「はー、ええお湯やった」ほこほこしたぬくもりをまとった香子が部屋に戻ってきた。双葉はそちらに目を向けず、机に向かったまま「おかえり」と声をかけた。
 宿題はとある演目に関するレポートで、純那からアドバイスをもらって参考になりそうな本を図書館から借りてきたが、なかなか進みが遅い。科目によっては暗記でどうにかなるが、こういうタイプの勉強は本当に苦手だ。テストは毎回、赤点をなんとか免れるレベルの低空飛行なので、せめて授業の評価だけはそれなりに守りたい。
 集中してレポートをまとめ、きりの良いところまで来たタイミングで、あれ、と不思議に思った。
 いつもならかかるはずの声がかからない。やれマッサージをしろだの髪の手入れをしろだの言ってきて、少しでも双葉の対応が遅れると暴れだすのに。
 あやしみながら振り返ると、香子はなぜかベッドの上で正座していた。
……なにやってんだ?」
 椅子が軋む。双葉が背中をのけぞらせたせいだ。彼女が何を考えているのか分からない。そんな稀有な事態に直面し、双葉はそこはかとなく不安を覚える。
 だいたい、ろくなことを考えていないのだ、こういう時は。
 香子が手のひらでポンポンと自身の前方を叩く。
「双葉はん、ちょっとこっちい」
「お、おう。どうしたんだよ」
 まるで説教でも始めるかのような香子の態度だが、双葉としては彼女が拗ねたりむくれたりする心当たりはいくつかあっても説教される筋合いは一筋たりともない。それでも素直に彼女の手前で膝を揃える石動双葉だ。
 香子はさすが家元の孫だけあって、背に芯の入った美しい正座姿である。眼の前にいるのが花柳香子だと分かってはいても、その姿に圧倒されて双葉は居住まいを正した。
「なんだよ。なんか怒ってんのか?」
「怒っとらん」
「じゃ、なんでそんな難しい顔してんだよ」
 香子は唇を真一文字に引き結んで、据わった視線を双葉に向けている。それを受ける双葉はかすかな違和感を覚えた。怒っているように見えたが、そうではなかった。わりあい、顔に出やすい彼女だ。表情そのものは読みやすい。そして石動双葉はずっと花柳香子のことばかり見てきたので、彼女の浮かべている表情がなんであるか、すぐに分かってしまった。
 分かったが、なぜ彼女がそんな表情をするのか、その理由が分からない。
「香子、なんで緊張してんだ?」
「き、緊張なんてしてへんし」
 ジョークのようにつっかえつつ香子が言い返してくる。不思議だった。幼い頃から舞台に立ち続けたことで舞台度胸は大したものだし、蝶よ花よと育てられた末に身に着けた不遜さは人並みならぬものがある。反面、人見知りが激しくて知らない人の前だと極度に引っ込み思案な態度を取るが、今この状況はそれに当てはまらない。突然記憶を失って石動双葉のことを全く覚えていないとかならともかく。
 説教をするつもりではないようなので、とりあえず足を崩して壁にもたれかかる双葉。経験則で知っているが、こういう時はつつくと余計意固地になって本題に入らないので、黙って待っている方が良い。
……双葉はん」
「ん?」
「あんたは、うちのやろ?」
 砂に埋めた小さな宝物を、手を入れて指先で確かめるような口調での、頼りない問いかけだった。埋めたのは自分で、そこにあると分かっているのに、触れてみないとどこか不安であるような、そういう問いだった。
「そうだな」
 ためらいなく、双葉はその問いを肯定する。生きる意味を自分以外の誰かに挺すると選んだのはもうずいぶん前のことだ。二人だけの王国は消えてしまったけれど、だからといって守るべきものまで失ったわけじゃない。
 窓を叩く雨脚が強い。バチバチと電流のように打ち付ける雨。そのせいで彼女の声以外、よく聞こえない。
「うちは?」
「え?」
「うちは……双葉はんのもんなん?」
 虚をつかれて思わず香子の顔を覗き込んだ。いつもの自信に満ちた勝ち気な瞳はなく、どこか揺らいだ、波打つ眼差しがそこにあった。
 答えあぐねて、双葉は小さく口を開けたまま、息を吸い込んで、吐いた。音は出なかった。
 そんなこと、考えたこともなかった。
 隠し続けていた想いを暴かれて、それを受け入れられて、それでも変わらなくて。
 それだけで充分だったから、それ以上を、望まなかった。
 そのはずだ。
 ──それは。
 嘘だ。嘘だ。
 そうじゃない。望まなかったんじゃない。望みたくなかったのだ。何も変わらなかったから。
 沈黙が答えになって、香子がかすかな苦笑を浮かべた。
「うち、いっつも気づくのが遅すぎるんやなあ」
 その笑みが自嘲であると、数秒遅れて理解する。
 香子がにじり寄ってきて、少しだけ、二人の距離が近づいた。
「双葉はんは、うちがほしいん?」
 決定的な一言を受けて、双葉の全身から力が抜けた。ずるずると壁を滑り落ちて、首だけで引っかかっているような体勢で、両手で顔を覆う。
……馬鹿。そうじゃねえだろ」
「え?」
 顔を覆ったまま、右手と左手の隙間から、ふぅーと深く息を吐く。
 本当に、本当に彼女は、分かっていない。
 首が痛いので身体を起こし、壁にもたれ直した。香子は不可解そうな顔で座っている。横目で彼女を見やり、左手だけを外す。
「昔から……本当に子どもの頃から、あたしはお前と一緒にてっぺん目指すつもりでいたんだ。それだってお前がそう言ったからだ。一番近くで見てろって、お前が言ったから。この学校だってお前がついてこいって言うから必死に特訓して入っただろ」
「そ、そんなん知っとります。それがなんやの」
「だから」
 外はひどく荒れていて風が強い。窓枠がガタガタと揺れている。それとは正反対な優しさで石動双葉の左手が花柳香子の髪を撫でる。
「いつだってお前が始まりなんだ。お前が望んだら、あたしはなんだってするのに」
 双葉に自覚はなかったけれど、刃物でズタズタに切り裂かれたような声だった。雨風にさらされてバラバラに千切れたような声だった。
 花柳香子はその声をいとしいと思った。
 持つものギフテッドと、持たざるものアンギフテッド
 欲しがるものギフテッドと、欲しがらないものアンギフテッド
 与えられるものギフテッドと、与えるものアンギフテッド
 そうだろうか? そうだろうか?
 そんな区分けが、本当に必要だろうか?
 花柳香子と石動双葉。
 それ以上の形容が、必要か?
 あらゆる形容を削ぎ落としてまっさらになった時、最後に残るのは。
「うちは」
 形容を削ぎ落として矜持を削ぎ落として外聞を削ぎ落として理屈を削ぎ落として価値観を削ぎ落として希望を削ぎ落として絶望を削ぎ落として過去を削ぎ落として未来を削ぎ落として。
 ただひとつの花柳香子は。
「あんたが好きや」
 双葉がふと、口元をほころばせた。砂漠の真ん中で一杯の水を飲み干したような表情を浮かべる。
「ああ、ようやく言ってくれた」
「分かるやろ、普通」
「言葉にしてほしいものだってあるんだよ」
「欲張りやなぁ」
「お前に言われたくねーよ」
 就学前から人ひとりの人生を奪い取っておいて、ずいぶんな口のきき方だ。
 香子の双眸には自信に満ち溢れた輝きが戻っていて、それは双葉の一番好きなものだった。
 とん、と香子が壁に手をつく。その所作すら優雅である。
「双葉はん」
 ねだるように、香子が呼ばわる。
「なんだよ」
 焦らすように、双葉が答える。
「双葉」
 命じるように、香子が呼ばわる。
……しかたねえなあ」
 融けるように、双葉が応える。
 香子の手のひらが双葉の頬を包んだ。慈愛のようであり、束縛のようでもある触れ方だった。照れ隠しにクスクスと笑い合って、額を押しつける。一度離れて、目が合うと羞恥心からどちらともなく目を伏せた。結果的にそれが合図となる。
 十年以上そばにいても、知らないこともある。
 お互いの唇の柔らかさ、とか。
 触れる。
 触れる。
 触れる。
 存外、自分の身体が思い通りにならなくて、求められるままに唇を重ねながら、石動双葉はやっとの思いで花柳香子の左手を握った。いつか己が残した、安っぽい舞台に似たしるしはまだあるのだろうか。
 雨音は静まる気配を見せない。ガタンと一度窓が大きく鳴った。何か小石か木の枝でも飛んできたのだろうか。音は聞こえていたけれどそちらを目を向けることを香子が許さない。きつく抱きしめてくる腕を双葉は拒むことができない。首筋に潜らせた手で彼女の身体をたどる。ただひとつの花柳香子がそこにいる。かりそめの桜は香らない。
 吐息が絡む。息苦しくてめまいがする。酩酊にも似たそれが昂揚のためだとは二人ともまだ知らない。
 は、と熱のこもった息を吐いて、香子が顔を上げた。
「初めてのちゅーって、なんべんくらいするもんなんやろ」
……知らねーし、何回したかもう分かんねえよ」
 いちいち数えている余裕なんてなかった。「やっぱり天堂はんに聞いといた方が良かったんとちゃう?」「ばーか」
 部屋じゅうに青が広がる。無情なほどの青。何よりも眩しい青だった。
 青が溶ける空気で肺を満たして、香子の頬を指の背で撫でた。
「お前がしたいようにすればいいんだよ」
……ん」
 言わせたい言葉を言わせた満足感で口の端を引き上げた香子が、そのままの形を保った唇で双葉に触れる。
 双葉は完全降伏にも似た姿勢でそれを受けた。
 青の中に時間が吸い込まれていく。肌寒かったはずなのにつま先まで余さず熱が巡っている。
 自分以外の誰かに人生の意味を預けるなんて愚かだと思う。
 けれどこの熱を内側に巡らせることができるなら、あの日の幼い決断は間違いではなかったと胸を張って言える。
 何度目かの口づけで、彼女の寂しさが転がり落ちてきて、石動双葉はそれをためらいなく飲み下した。
 ずっとどこにあるか分からなかった寂しさは、双葉の中で溶けて消えて、青にまぎれて青と化して、誰にも見えなくなった。
 雨音の隙間をついて、誰かの声が聞こえる。これは誰の声だったか。確かに聞き覚えはあるのだけれど。耳を澄まそうとするが彼女の呼び声が邪魔をする。こんなにも甘やかに名前を呼ばれるのも初めてだった。ゆるゆると脳の真ん中がしびれる。重ねていただけの手が、いつの間にか指を絡めて互いに逃すまいとしている。
 深くも激しくもならない、ただ唇を触れ合わせるだけの児戯に似たキス。それだけを繰り返して、合間にお互いの存在を確かめるように名を呼び合う。結実の結末は誰にも見えない。それでも不安はなかった。
 首筋や背中が汗ばんで、愛情が持つ熱量の高さを思い知る。
 雨音が低く響いて、外の世界を遮断していた。目を閉じてしまえば触れている部分にしか確かさはなかった。それは危うい足元に似ていた。それでも不安はなかった。
 石動双葉の目の前には世界の支配者が君臨していた。
 聞こえるのは雨音と、
 ドアを叩く音。
「双葉ちゃん、香子ちゃん。晩ごはんができてますよー」
 熱が一瞬で引いた。
 先ほどの声、あれは思い返せば大場ななのものだ。今なら当たり前にそう思えるのに、どうしてさっきは分からなかったのだろう。
「か、香子、ちょっと待て」
「待たん」
「馬鹿っ」
 ななの声とノックなどお構いなしに双葉を離そうとしない香子。溺れそうになる双葉はなんとか藁の一本を掴んでいる。
 花柳香子にとって道理は無秩序である。
「自主練がんばってたし、疲れて寝ちゃったのかな?」
 ドアの向こうから独り言が微かに聞こえてきて、あとは雨音のほかはまったくの無音になった。呼びに来ていたななはリビングへ戻ったらしい。
 奇妙な後ろめたさを感じながら、双葉は香子を押しのけていた手の力をゆるめた。すぐに抱きすくめられて、耳元で「むうぅっ」と拗ねた声が低く轟く。なだめるように背中を優しく叩くが、腕の力は弱まることはない。
 なにせ、石動双葉が勝手に離れようとしたら、花柳香子は怒る権利を有しているので。
 この駄々っ子め、と胸の内だけで悪態をつき、軽く起こしていた背を壁に戻した。
 三度、彼女の好きにさせてから、「香子」両手を頬に添えて動きを止める。
「ちょっと目ぇつぶれ」
「いやや」
「馬鹿。空気読めよ」
 無秩序な彼女は気まぐれに空気を読まない。天の邪鬼なのだ。その証拠にほら、双葉が何をしようとしているか気づいてもう機嫌が直っている。
 「双葉はんのわがままにも困ったもんやわ」ゆるんだ頬を隠しもせずにそんなことを言い、香子が両目のまぶたをおろした。双葉は苦笑ひとつでそれをあしらって、ふっと小さく息を吐いた。
 そっと、捧げるように唇を重ねる。なんら混じりけのないキスだった。
「ほら、あたしからしたぞ。これは約束だろ?・・・・・・・・・・・・・・・・・
 正確には、それは儀式だった。誓いの儀式。
 ずっとそばにいる。
 香子が喜びを隠しきれないせいか双葉の肩口に顔をうずめてきた。無力な石動双葉の無責任な儀式は二人の世界では効果てきめんで、支配者の無秩序すら無効化できるのだった。
「行こうぜ。みんな待ってる」
「せやねえ。せっかくばななはんが作ってくれはったんやし、ごちそうになりましょか」
 ベッドを下りて香子に手を差し出すと、彼女は当たり前のようにその手を取った。
 部屋を出た二人は手をつながないけれど、花柳香子はそのことについて怒りはしない。
 共用スペースには食事のためにみんなが揃っていて、その中のひとりであった神楽ひかりは花柳香子とすれ違う拍子に「おおきに」と耳打ちされたが、意味が分からず首をかしげた。