黒竹
2022-05-30 21:57:47
17779文字
Public 少女☆歌劇レヴュースタァライト
 

#5 花食み

【少女☆歌劇レヴュースタァライト】【ふたかお】【春に咲き匂う】

 大きな変化があったのは十二月。冬もやや深さを増して吐く息が白くなる頃だった。八人が九人となり、いや、正しくは八人が九人に戻ったというべきである。口々に寄せられた「おかえり」にただ一度だけ「ただいま」と返した彼女は、生まれ変わったかのようなあたたかな面持ちで、隣にいる運命の相手と手をつないでいた。
……運命いうんは、大したもんやなぁ」
「あん?」
 花柳香子がぽつりと洩らした独り言を聞き止めて、石動双葉が訝しげに眉を上げた。
 香子は双葉の視線にはかまわず、じっと運命の二人を見つめている。
 運命とか宿命とか、赤い糸とか。
「そんなんがあったら、迷わずにいられるんやろか」
「なに言ってんだ? 香子」
……なんもない」
 頬を膨らませる香子に、双葉はなぜ彼女が機嫌を損ねているのか分からなくて軽く目を泳がせた。なんだろう、みんなの注目が神楽ひかりに集まっているのが気に入らないのだろうか。
「ちゃうわ、双葉はんの阿呆」
 呆れたように言ったが、そもそも香子の不機嫌の理由は何か契機があったわけではなく、ここ一ヶ月ほどの間に蓄積されていったものなので、双葉が分からなくても無理はない。
 一ヶ月。石動双葉が花柳香子の恋人となってからの期間とほぼ一致する。
 神楽ひかりの帰還という大きな変化を迎えた外の世界とは対照的に、二人だけの世界はなんら変化が起きていなかった。いくらなんでも変わらなすぎである。
 ないやろ、と花柳香子はここしばらくずっと思っている。



 上生菓子の化粧箱をたずさえて天堂真矢の私室をノックする。どうぞと声が中からかかったので、「お邪魔しますえ」あえて軽々とした態度でドアを開けた。
 次の『スタァライト』に向けてか、脚本片手に読みの練習をしていた真矢が、入ってきた香子を見やって軽く眉を上げる。
「あら珍しい。花柳さんお一人ですか?」
「うちだけやったらご不満どすか?」
「まさか。どうぞこちらへ」
 室内へ招く真矢。その視線は一点に集中している。しかしその中に垣間見えるわずかな警戒。以前彼女にしかけたちょっとした悪戯はまだトラウマとして残っているらしかった。
……今日のはちゃんとしとります」
 証拠とばかりに箱を開けて見せる。ねりきりと羊羹がしずしずと鎮座しているのを見て、真矢が目を輝かせた。
「ど、どうしたのですか、突然?」
 食いつきすぎてやや声を詰まらせる真矢に、香子は少しばかり腰が引ける。
「まあ、積もる話もありますさかい、お茶請けに思いまして。あ、お茶いれとくれます?」
「ああ、そうですね。少々お待ちを」
 キッチンからお茶と取り分け用の小皿を持って戻ってきた真矢は、さっそく自分の更に羊羹を取りつつ、「で」と香子に水を向けた。「今日はどんなご用件で?」
 香子がテーブルに肘をつき、両手を組んで真矢をひたと見据える。
「天堂はん、クロはんとちゅーしますやろ?」
 一瞬で天堂真矢が硬直した。先ほどまでどんな順番でお菓子を食べようかとウキウキ眺めていたのに、今は瞳に表情はなく、口元に浮かんだ笑みもどことなくごまかしの見えるものになっている。
 すうっと、真矢の視線が斜め上の天井に逃げた。
「しますやろ? 付き合うとったら。ちゅーくらい」
 手本のような倒置法で強調しつつ香子が詰め寄る。真矢はさらに逃げた。上生菓子は開封したらすぐに食べないと乾いて風味が落ちてしまうのに、なかなか手をつけられない。
 香子の視線からひたすら逃げていたら、彼女はテーブルを回り込んで眼の前までやってきた。ぐいぐいと迫ってくるクラスメイトの圧に必死で耐える。
「なーなーなーなー天堂はぁん」
 強い。目を閉じていても二センチ先にいることが分かる。
……その」
「うん?」
 舞台上ではどれだけの視線にさらされていても冷静でいられる天堂真矢が額に汗をかいていた。
…………たまに、は」
「せやろ!?」
 我が意を得たりとばかりに甲高い声を上げる香子。圧に打ち負かされた真矢は自己嫌悪に襲われていた。首席としての矜持がゆらぎそうである。
 香子が元の位置に戻って、「ああ良かった」とお茶をすすった。
「それを天堂はんに聞きたかったんよ。付き合うてからどれくらいでしたん? 今までなんべんくらいしとる? する時は天堂はんから? それともクロは」
「お邪魔します!!」
 返答を待たずに飛び込んできた影が香子を羽交い締めにする。「んああぁ!?」「やっぱ天堂にも行ってたか! いい加減にしろ!」無理やり口を塞がれ、身動きも封じられた。全力で抵抗するがびくともしない。こちらより小さいくせにこの膂力がどこから出てくるのか。
「悪いな天堂。こいつが言ってたことは気にせずできるだけ早く忘れてくれ」
 その方があたしも助かる。石動双葉は耳まで赤くしながら告げた。香子を取り押さえているせいではない。
 あっけにとられながら、ズルズルと引きずり出されていく香子を見送り、二人が見えなくなってようやく肩の力を抜く。
 と、閉まりかけたドアを押さえる手が現れた。双葉が戻ってきたかと思ったが、それにしては位置が高い。
……ご愁傷様」
 ドアの隙間から顔を覗かせた恋人が、先ほどの双葉に負けず劣らずの紅潮を見せている。それで察した、そういえば双葉も「天堂にも」と言っていた。つまり自分の前に香子の襲撃を受けた人物がいるはずで、その対象になるのはなるほど彼女しかいない。
「先にあなたの方へ行っていたのですね」
「根掘り葉掘り聞かれたわ……
 ぐったりとテーブルに突っ伏すクロディーヌ。「……まさか、答えたんですか?」平たい視線を送ってくる真矢に、クロディーヌは軽く手を振って、
「答えたわよ。フランス語で」
 トラップがはびこるサバンナを駆け抜けた野生動物に似た、疲れた顔で言った。
 もちろん花柳香子はフランス語を解さないが、それでも正直に答えるのは気が引けたので、ずっとおばあちゃんの知恵袋を話していたら諦めて出ていってくれた。
 それから双葉を捕まえて事情を説明し、先の大捕物につながったというわけだ。
 落ち着きを取り戻したのか、真矢が羊羹に手を伸ばす。一口で頬張り、うんうん頷きながら味わった。
「ショッピングモールに入っている支店でしか買えない有名店のものですね。こんなものまで用意するほど必死だったということでしょうか、花柳さん」
「しかも私と真矢の二人分ね」
 ねりきりを楊枝で割りつつため息をつく。二人だけの世界を飛び出した彼女は、奮っていた猛威を周囲にまで拡散させ始めた。まさかこんなことになるとは、さすがにクロディーヌも予想していなかった。
「あら、おいしい」
「待ってください。これは私にと花柳さんが持ってきてくれたものですよ?」
「ケチくさいこと言うんじゃないわよ」
「初めてキスをしたのはいつでしたっけ?」
…………
 動揺でクロディーヌが止まった隙を突いて、真矢の楊枝が残っていたねりきりを拾い上げた。ひょいと口に入れてすました顔でもぐもぐする。
……やな女」
「油断大敵ですよ、西條クロディーヌ」
「で、いつだったかしら?」
「数え切れないほどしているので忘れてしまいました。よければ教えていただけますか?」
……ほんっと、やな女」


 なすすべもなく自室に引き入れられ、そこでようやく手足が自由になった。「なんで邪魔するん!?」両手を振り上げて抗議するも、双葉は眉間のしわを深くするばかりで態度を和らげる気配はない。
「ああいうことを、人に聞くんじゃない」
「せやって、双葉はんがしてくれへんのが悪いんやろ!」
 双葉が苦虫を噛み潰したような顔になった。それを吐き出しも飲み下しもできずに口の中で持て余す。
 香子は双葉が口を開けないのをいいことに、ここぞとばかりに詰め寄った。
「もう一ヶ月やで!? 一ヶ月もあったら普通ちゅーくらいするやろ! 天堂はんかてする言うてたもん!」
……っ、よそはよそ、うちはうち!」
「オカンか!!」
 鋭いツッコミに双葉がたじろぐ。ぐぬぬ、と喉の奥でうなり、腕組みをしてそっぽを向いた。完全なる防御態勢だ。
 石動双葉は花柳香子が願えば必ず叶えるはずなのに、どういうわけかこればかりはそうならない。
 香子はそれが気に入らない。
 竹やぶに潜む虎もかくや、という態勢の双葉。鉄壁を思わせるがそらされた視線が彼女の弱気を表している。その隙を見逃す花柳香子ではない。
……双葉はん、寒い」
「そうかよ」
「さーむーいーっ」
 その場で地団駄を踏む。双葉が深々とため息をついた。両腕がのばされて、右手の指先が髪に潜り込んでくる。逆の手で腰をつかまえた彼女にそっと引き寄せられて二人の距離がゼロになった。
 優しく梳いてくる手櫛を受けながら、彼女の耳の裏側で香る桜を吸い込む。
 それは確かにそこにあった。
……何年あったと思ってるんだ」
「なにがや」
「お前と幼馴染でいた時間だよ。そんなすぐに切り替えらんねえの」
 ごまかしたけれど、本当は、押し殺し続けていた恋心だ。隠すことに慣れすぎて、いざ表出するとなるとやりかたが分からない。細長く息を吐く。手を伸ばせば届く位置にいるのは以前から変わらない。けれど、触れる、その行為の意味が変わってしまった。だからためらう。
 それは崩壊した王国への未練だ。
 けれど香子にそんなことは分からない。
 呼べば来るし望めば叶えるし口に出さなくても通じる。それが石動双葉のはずで、そうでなければいけないのに。
 あるのにない。
「双葉はんの裏切りもん」
「そこまで言うかぁ?」
 重みのない笑声が香子の耳をくすぐった。それでも指先は髪を撫でるばかりで、そこから先を導こうとはしない。
「これでもけっこう頑張ってんだけどな」
「なにがやの。なんも変わっとらんわ。双葉はん、ほんまにうちのこと好きなん?」
 あ、と思った。
 もちろん本心から出た言葉ではなかったけれど。
 疑ってはいけないものを、疑った。
 だからといって焦りはしない。知っているからだ。おそらくはあのレヴューで確立された確信である。
 彼女は。
「ばーか。好きだよ。ずっと前からな」
 許すのだ。
 いつだって「しかたないな」と受け入れて、手の届く距離にいてくれる。
 わずかなゆらぎは自分自身の変化に気づいたからだった。
……そんならええわ」
 ふんと息をついて双葉の両腕から逃れる。顔を上げたことで見えた彼女の表情はやはり「やれやれ」と言っていて、いつもなら怒るところだけれど好きと言われたから香子はなかなか上機嫌だった。
 好きだと言われるのは嬉しい。わけもなく心がはずむ。ゆるむ口元をぐっと抑えて大上段に構えると、くしゃりと髪を撫でられた。
 そう、この時の顔。身長差のせいでやや上目遣いに見つめてくる薄色の瞳が、なんとも胸の内をざわめかせる。いつか感じていたざわざわする感覚と似て非なるものだ。これは、どこか遠くて、それなのに心地良い。こうなるとなんだか他のことがらがひどく些末に思えて、つい口の中で「まあええわ」とつぶやいてしまう。
 こうして今日も花柳香子はチャンスを逃す。




 小さじだとか大さじだとか、何カップだとかは聞いたことがある。しかしそれが具体的にどれほどの量であるのか、石動双葉は今まで知らなかった。
 根本で五本まとめられている計量スプーンを見せられた時、どこか外国の楽器のようだと見当はずれな感想をいだいた。
 大場なながひとつずつ指し示しながら説明してくれる。
「量る時はすりきりね。これが大さじでこっちが小さじ。他のは二分の一を量るのに使うのよ」
「へえー。こういう専用のがあるんだな。普通のスプーンでやってるのかと思ってた」
「お菓子作りではちゃんと量るけど、お料理の時はけっこう適当でもなんとかなるから、普通のを使うこともあるわね」
 ふんふんとうなずいてななの手元を覗き込む。神楽ひかりを迎えるためにみんなで料理をした時、双葉も手伝っていたのだが、すぐに飽きてサボろうとする香子を諌めたり代わりに材料を切ってやったり、なにかと忙しくて味つけの様子を見ることができなかった。そのリベンジというわけでもないが、先日からちょこちょこと、ななの手伝いを申し出ている双葉だった。
「今日はなににするんだ?」
「そうね、応用が効く肉じゃがにしましょうか。お出汁の取り方とか味つけとか、和食の基本が詰まってるから、覚えておくと便利よ」
 「というわけで、お願いします」じゃがいもの入った袋を手渡される。他の寮生の分もあるのでかなりの量だった。しかし石動双葉はそんなことではひるまない。働き者なのだ。ずしりと来る袋を受け取り、ななの隣でひとつひとつ洗い始めた。
 ななは先ほどの言葉通りかつおだしを用意する。
「え、そんなに入れるのか?」
「削り節だとたくさんに見えるけど、ほら、お湯にくぐらせるとこんなに縮んじゃう」
「おー、ほんとだ。面白いな」
 まだ刃物を出していないのでよそ見しても問題ない。湯の中で踊る鰹節を眺めて無邪気に笑う。
「覚えたらそのうち自分で作ってみるから試食してくれよ」
「もちろん。楽しみにしてるね。でも、どうして急に? 前にもおやつ作るの手伝ってくれたよね? わたしとしてはすごく助かってるけど」
 てきぱきと調理を進めていたななが首をかしげた。以前は香子や華恋と並んで食べる専門だったのに、少し前から機会があればこうして手習いを受けているのが不思議なようだった。
 じゃがいもを洗い終えて、ペティナイフで皮むきに入る。芽もきちんと取る。それくらいは知っている。
 ややぎこちない手つきでナイフを操りながら、顔を上げずに双葉が答える。
「そりゃ、四月には三年生になるし、そこから一年で卒業だろ。いつまでもばななに作ってもらうわけにもいかないしな」
「うーん、確かに、さすがにわたしもみんなのおうちまでご飯を作りには行けないもんね。双葉ちゃんと香子ちゃんは京都だから余計遠いし」
「本気で検討すんなよ」
 やや苦笑気味に双葉が言う。
「あ、そういえば、卒業したら二人は地元に戻るの?」
「どうだろうな。香子次第って感じかな。あいつが千華流を継ぐときには当然戻るけど、お師匠さんもまだまだ元気だしなあ」
 なにせ彼女の目的はあらゆる踊りで頂点に立つことなので、いつどこでなにをするのかまったく予想がつかない。気まぐれひとつで日本を飛び出す可能性すらあるのだ。
 可能性が多すぎて、いちいち考えていられない。
「ふぅん」
 ななが感情の読み取れない調子で相槌を打った。
 ひとつめのじゃがいもを剥き終えて、一口大に切ったものを水にさらす。こうすると変色しないのだという。どこで覚えるのだろう、と双葉はいつも不思議に思う。
 数をこなしていくうちにコツを掴んできて、次第に手際も良くなってきた。手慣れた様子で、とまではいかないが、危なげなくこなしていく。
 隣で豚肉を切っているななが不意に口を開いた。
「双葉ちゃんは、ほんとに香子ちゃんのことが大切なのね」
「ん? そりゃあ……まあ」
 改めて他人の口から言われると、なんだか妙に気恥ずかしくて、思わず語尾を濁した。己の献身ぶりは寮にいる全員の知るところだし、別に、それに照れる初々しさもとうに失くしているのだが。
「大事に守ってあげるのはいいけど、そのことだけに躍起にならないようにね。本当に大切なキラメキを見失ってしまうかもしれないから」
……あん?」
 思わず手を止めてななを見上げる。その深刻な口ぶりは、単に双葉を(あるいは香子を)心配しているだけというわけではなさそうだった。
 どこか後悔のようなものをにじませて、大場ななは笑っている。「ばなな?」戸惑いを混じらせた声で呼ばわると、彼女はごまかすように笑みを深くした。
「それに、ケンカもほどほどにね。真矢ちゃんとクロちゃん、困ってたよ?」
 んが、と妙な呻きが双葉の舌で跳ねた。手が止まっていたのは僥倖だった。作業中だったら手元が狂って指をすっぱりやっていたかもしれない。あの二人、ななに喋ったのか。いや内容が内容だ、そうとも考えにくい。あの騒ぎの時に寮内にいたのだろうか。ななの顔は見かけてないが、どこか声の届く場所にいたのか。
 瞬時に熱を持った耳を意識しながら目をそらす。そんなことでごまかせるとは思わないが、真正面から彼女の目を見る精神力は双葉になかった。
 止めていた手を再開させる。視線を落として刃の根本でじゃがいもの芽をそぎ取りながら、浅く長いため息をついた。
「双葉ちゃん、ちょっと怒ってる?」
「怒ってはいない。ただ、ただちょっと……
 うまい言葉が見つからない。少し考えて、すぐには見つからなそうだったから諦めた。
「香子はさ、昔っから形から入るタイプなんだ」
「うん」
「小さい頃も、ろくに裾捌きも覚えてないうちから衣装のきれいな着物を着たがったりしててさ。あたしはちゃんと練習して覚えてからにしろって言うんだけど、あいつぜんぜん聞かなくて。『せやかてこれ、うちに似合うんやもん』なんて言って結局わがまま押し通すんだよなあ」
「香子ちゃんの真似、似てるね」
「そこはどうでもいい」
「はい。それで?」
「だから……そういうことだよ」
 最後のじゃがいもを手に取り、やや凝ってきた手に鞭打ってナイフを滑らせる。
 目線は手元に落ちたままだ。
「子どもなんだ。あいつは、ほんとは何も分かってない。いや──変わってない、んだろうな」
「そっか」
 やっぱり怒ってるよね、と大場ななは思ったけれど、おいしい肉じゃがを作りたかったので言わなかった。
 沈んだ気持ちでは、どんな料理も味気ないものだから。
 それでもこれくらいはと、なんでもないような口調でつぶやく。
「ずっと一緒にいると、少しの変化は見逃しちゃうかもしれない」
 いつまでも続けていたかった再演。何度でも同じ公演をしているはずだったのに、どんどん失われていって、それを防ぐために変えざるを得なくて、それでも同じなのだと自分に言い聞かせていた。
 本当は、彼女がやってくる前から変わっていたのに。
 ひっそりとした懐古は双葉につたわるはずもない。
「わたしは、双葉ちゃんも香子ちゃんも、変わったと思うな」
 ずっと二人だけの世界にいた彼女たちは、世界の端を少しだけ拡大して、その中にはななやクロディーヌ、クラスメイトたちが入り始めた。
 双葉がクロディーヌを気にかけたりするのも、回り巡っていたあの頃では見られなかったことがらだ。
 たぶん、香子を守るために双葉が構築していた殻が、いつの日にか破られた。
 それは愛城華恋が神楽ひかりと再会した日かもしれないし、己が再演を守ると決意した日かもしれないし、もっとぜんぜん別の、ただの日常に紛れた一瞬であったのかもしれない。
 ななには分からないけれど、その時は、確実にあった。
 狭い殻の中でずっとくっついていなければならなかった二人は、そこから出たことで、それぞれが自分の行きたい方向へ足を踏み出せるようになっている。
 さて、そこから動けないのは、果たしてどちらなのか。
「だといいけどな」
 最後のじゃがいもをボウルに放って双葉が苦笑いした。



 学内は聖翔祭の気配が近づいていてにわかに浮足立っている。ほぼ決まりかけていたキャスティングも脚本も、神楽ひかりの帰還により事態が変わっていた。B組の脚本担当が再度オーディションを行うと言い出し、スケジュールがずれにずれてB組は一丸となって巻き返しに奔走していた。
 隣のクラスがそんな様子なものだから、A組も無事では済まない。新たなオーディンションに向けて練習を重ねたり、手が足りなければ隣に手伝いに行ったり、こちらもてんやわんやだ。
 花柳香子は以前の定例発表会で培った教訓をもとに、それらからできる限り逃げていたが、それでも数回に一度は捕まってしまう。今回も逃げ切れず、神楽ひかりと一緒に衣装部屋からアクセサリーを探してくるよう言いつけられてしまった。なぜこんなことをしなければならないのか、まったくもって不可解な花柳香子である。実家では衣装の準備なんて新入りのお弟子さんがやることだったし、こんなふうに香子を働かせようとする存在などなかった。雑用とは、花柳香子にとってこの世で一番縁遠い言葉である。
「神楽はん、衣装部屋の場所は分かりますやろ? そない大きなもんとちゃうし、一人でええんちゃう?」
……どこになにがあるか、分からない」
「まあ、せやろね……
 失踪前、ひかりがここの生徒でいたのはせいぜい二週間、休日を除けば学校に来ていた期間など十日にも満たない。彼女が席を空けている間にも舞台は新しく作られ、演じられてきたのだから、当然ながら物も増えている。ただでさえ雑多な衣装部屋で小さなアクセサリーを探せというのも酷な話だ。砂漠で星を積むよりはマシではあろうけれど。
 無表情だが困っているのがありありと分かる様子で立ち尽くすひかりに、香子は小さくため息をついて立ち上がった。
……しゃあないなあ。うちも付き合うさかい、ちゃっちゃと終わらせましょか」
 衣装部屋とは言うものの、小さな窓のついた物置と大差ない。明かりをつける前には布地から発生した大量の埃が太陽光に照らされて煌めいていたが、別に舞台少女が放つものとは関係ないしただただ喉に悪そうだった。
 目当てのものは引き出しのどこかにある、となんともアバウトな指示を受けていたが、部屋に来てみればタンスやらチェストやら引き出しのついた家具がそこかしこにあるし、その半分ほどは積み上げられた衣装に埋まっている。「ちょ……いくらなんでも散らかりすぎとちゃう?」深い森に迷い込んでしまったような気分になりつつ、香子が口元を引きつらせた。
「実は……さっき一人で探しにきた」
「もう手遅れやないの」
 せめてと扇子で口元を覆って埃からガードする。同じ星光館に暮らすもの同士、それなりにプライベートな顔も知っている。たとえば彼女がよく露崎まひるに怒られていることとか。
「どないしたら一人でここまで散らかせるんやろ……
 独り言のつもりだったけれど、特に声を落としたりはしていなかったので、ひかりにも普通に聞こえていたし彼女の肩がしゅんと落ちたのも見えた。その様子を見て、落ち込むくらいやったら散らかさんかったらええのに、と思うのが花柳香子だ。
 散らかして、めちゃくちゃにして、それでもなお反省しないのが花柳香子である。
 散らかしてめちゃくちゃになったものを片付けるのは己の役目ではない。それをするために生きている少女が、一人いる。
「あかんわ、うちらだけじゃどうにもできひん。双葉はん呼んでやってもら……
 言いさした香子の制服をひかりの指先がつかむ。ゆっくりと首を振り、ひたりと見据えてくる双眸を、香子が怪訝な面持ちで見返した。
「私たちが頼まれたんだから、自分でやらなきゃだめ」
「はい? せやって、神楽はんができんかったさかい、こうなっとるんやろ?」
「う……。で、でも、二人ならできるかもしれない。一人では無理でも一緒に、二人で力を合わせれば……!」
「たかがイヤリングひとつ見つけるのに、なんでそない必死なん……
 ぐいぐい迫られ、香子はやや呆れがちに言う。ひかりが我に返ったように一度小さく震え、そっと制服を掴んでいた手を離した。
「わ……私も……みんなを助けたい。できることは少ないかもしれないけど……
……ふぅん」
 もう懐かしささえ感じる光景を思い出した。湯気の立つ鍋の向こうで、泣きそうな笑顔を見せていた彼女。苦手だと聞いていた豆腐もちゃんと残さず食べていた。
 いつか必ず取り戻すと言っていた彼女の、運命の相手。二人が並んでいるところを見て、なるほどこれが運命かと感じ入ったものだ。
「まったくぅ。ほんならさっさとやるで。まずはそこの衣装、全部クローゼットに戻しまひょ」
「う、うん!」
 パッと顔を輝かせたひかりが、いそいそと作業を始めた。衣装を一着ずつハンガーにかけてクローゼットに収納していく。「ん、ええんちゃう? 神楽はん、手際よろしおすなあ。次はそっちのスカーフ、たたんでそこのチェストにしまってや」「わかった」ひかりは香子の指示通りに動く。するとどうだろう、あれだけ乱雑で手のつけようがないと思われた衣装部屋が見る見る片付いていく。
 花柳香子は人を使うことに慣れている。そういう家に生まれたし、そういう育成をされている。うまく人を動かさなければ指導者たりえないし、『家』を守れない。当人が望むと望まざるとにかかわらず、現状そうなっているし、そのことに不満もなかった。
 実際、今まさに役立っていることだし。
 途中で見つけたパイプ椅子に座って指示を出すことしばし、なんと衣装の山が半分くらいなくなった。「ミラクル……!」ひかりが感慨深げにつぶやいた。信仰に目覚めたかもしれない。花柳香子としてはいくらでも崇めていただいて構わない。
 道筋ができたことでやや退屈になり、香子はけだるげに扇子をいじりながらひかりに声をかけた。
「そういえば、華恋はんはどないしたん? 教室におらんかったみたいやけど」
「華恋ならまひるとダンスの練習してる」
「で、神楽はんはひとりぼっちでB組のお手伝い?」
「そう」
……怒らんの?」
 きょとんとしながら問いかける香子に、同じようにきょとんとした顔でひかりが振り向いた。
……怒るって、なにに?」
「え、せやから、せっかく帰ってきた神楽はんをおいて、華恋はんとまひるはんは二人っきりでおるんやろ? いややないん?」
「別に。スタァライトを二人で演じるのが私たちの夢だし、そのための練習だから当たり前。むしろ、私がいま練習できてないのが申し訳ない」
……はぁ」
 なるほど、分からない。運命というのはそういうものなのだろうか。
 無意識なのか、ひかりの手が髪飾りに伸びた。彼女の名を表すような、煌めく光をモチーフにしたそれ。華恋と一緒に買ったものだということは、以前なにかの拍子に聞いていた。
「それ、ずっと持ってはるん?」
「え? まあ……一応」
 無表情で抑揚がないのが、照れ隠しなのか素でそうなのか、付き合いの浅い香子には判断がつかない。一応で十二年も手元においておけるだろうかと思ったが、尋ねるのも野暮なので相づちだけで済ませる。
「ま、『運命の相手』なんて恥ずかしげもなく言うくらいや、思い出の品くらい大切にしますやろ」
「はず……
「華恋はん、よく言うとりますえ。『わたしとひかりちゃんは運命だから』って」
 言われて自分たちを客観視したのか、ひかりがやや俯き、こほんと小さく咳払いをした。
「それは、私が小さい頃に覚えたての言葉を使って、華恋が気に入っちゃっただけで」
「けど、神楽はんも信じとるやろ?」
 閉じた扇子の先で彼女の胸を指し示す。神楽ひかりは答えなかったが、無表情ではなかった。
 信じていなかったら、戻ってくるはずもない。
「華恋はん、どないしてあんたを連れ戻したん?」
「え?」
「いくら華恋はんが迎えに行ったいうても、そない簡単に帰ろうと思うお人やないやろ、神楽はんは。どないしたんかなと思いまして」
 どうやって、彼女たちはそれを選んだのだろう。
 愛城華恋は、どうやって、神楽ひかりにそれを選ばせたんだろう。
 その質問は興味本位であり、意欲的な熱意であり、縋るような羨望だった。
「華恋はんは神楽はんになんて言うたん?」
 神楽ひかりは少しの間だけ黙考し、視線をそらして、何度かまばたきをしてから、口を開いた。
……全部」
「うん?」
……全部を、わたしにちょうだい、って」
「華恋はんが?」
「そう」
 その返答に花柳香子はひどくがっかりした。運命とか、ずいぶんと大層なことを言うから、そこに絶対の正解みたいなものがあるのかもしれないと期待していたのに。
 全部。
 そんなもの、もうとうに手に入れている。
 それでも足りないから訊いたのに。
 ひかりの眼差しは、いつも熱くも冷たくもない。常温のなまぬるい視線が、速くも遅くもない速度で届く。
「あなたは?」
 衣装の下から発見したチェスト。その引き出しから探していたイヤリングの入ったケースを取り上げて、手のひらに乗せた神楽ひかりは問いかける。
「あなたは双葉になにをあげたの?」
「双葉はんに?」
 花柳香子と石動双葉は与えられるものギフテッドと、与えるものアンギフテッドであって、それ以外のなにかではなかった。だから、ひかりに言われたことは青天の霹靂で、本当に、今まで考えたこともないものだった。
 そういうものだったのだろうか。
 持つものギフテッドと、持たざるものアンギフテッドなら。
 与えることも、できるのか。
「ありがとう。手伝ってくれたおかげで見つけられた」
 ひかりが柔い笑みを浮かべた。
 もしかしたら同じ言葉を彼女に告げることになるかもしれない。そんな予感がする。