わからん
2022-06-17 12:11:40
5533文字
Public 五夏
 

【五夏】「彼岸の数式」後書き兼裏話まとめ

五夏の長編「彼岸の数式」後書き&裏話をまとめました。本編のネタバレを含みます。




■雪森覚の一人称

 彼は前世と今世を割り切っていますが、前世の親友である傑を前にすると、どうしてもその前提が崩れてしまいます。(傑の存在自体が主な原因ですが、五条悟の数式がそうあれと脳内で暴れ回っているせいでもあります)

 雪森覚の一人称は「僕」ですが、一度だけ「俺」になっている場面があります。
 第1章で覚が傑に対して連絡先の交換をせがみ、「私を拉致したサイコ野郎とつるみたくない」と拒否されたシーンです。

「俺だって出会い頭にグーパンされたわ。なんならこっちのほうが重傷だからな。拒否されたら和解の件を取り消して、オマエを刑務所送りにする」

 彼は傑に殴られたことを強く根に持っていますが、それを棚に上げてサイコ野郎呼ばわりされました。(その仕返しで傑を拉致したことはさておき)表面上は平静を装いますが当の心境は彼の発言でマジギレ、理性を失い殴りかかる寸前です。
 普段の一人称は「僕」ですが、傑と話していて気が抜けたor理性を失うor前世と現世を割り切れなくなった瞬間に一人称が「俺」に戻る、という設定があった……のですが、書いているうちに忘れていました。ここだけ一人称が「俺」なのはその名残です。他の会話文と比べてもかなり乱暴な口調かつ傑を脅している場面なので、このままでいいかなと思いあえて修正していません。


■雪森覚の名前の由来

 雪森覚は「五条悟の記憶を持った一般人」です。記憶を持っているとはいえ別人のため、今世では別の名前で生きています。(それは傑も同様です)

 五条悟の生まれ変わりについて、当初は下の名前を「サトル」にする予定でした。理由は簡単で、彼は五条悟の記憶を持つ人物であり、読む側にもそうだと分かりやすくするためです。また、あまりにもかけ離れた名前をつけると、独立したキャラクターになってしまい、いわゆるオリキャラものになってしまうのではと懸念しました。

 ひとまず名前は「サトル」にすることにして、漢字は別のものにしようと調べていたところ、「覚」には「サトル」「スグル」二通りの読みがあると知りました。そこで、悟と傑で転生先の名前を入れ替えたら面白いのでは? と思いつきました。そうすることで、転生前(前世)及び転生後の彼らの密接な関係を示唆できるのではと考えたためです。
 結果、「スグル」読みを採用して、彼の名前は「覚(スグル)」になりました。傑の本名は結局出しませんでしたが……

 苗字の「雪森」は適当にネットで調べた中から選びました。
 「雪」→「白」→悟の髪の色、と連想したからでしょうか。(本当に理由は無いです)
 あえて言うなら、「ユキモリ」という言葉の響きがどことなく静かで、落ち着いたイメージが浮かび、彼にぴったりだと考えたからだと思います。また、下の名前「覚(スグル)」を先に決めていたので、語呂が良かったということもあります。他の候補を出すことはなく一発で決まりました。


■傑の転生先の名前

 傑の本名は雪森覚と同時期に決めていましたが、作中であえて一度も出しませんでした。
 当初は出す予定でしたが、彼は雪森覚と違い前世の出来事を割り切っておらず、また読者の混乱を招かないようにするため、最後まで「傑」で通しました。

 雪森覚の名前の由来について既に述べたように、傑の転生後の名前も「悟と傑で転生先の名前を入れ替えたら面白いのでは」と考えて名付けました。

 傑は作中で一度だけ「五条悟」と名乗っています。「自分の息子(覚)をサトルと呼んでいるのか」という雪森夫妻の問いに対して咄嗟に出た言い訳ですが、上記の経緯を踏まえると(苗字は別として)彼はきちんと本名を名乗っていることになります。


■悟と傑の生まれ変わりは前世の名前を入れ替えている

 以上の設定から察している方もいらっしゃるかもしれませんが、本作品は「君の名前で僕を呼んで」及びその続編「Find Me」に影響を受けています。名前を入れ替える、という発想はこの二作品からと言っても過言ではありません。

 名前とは相手をその人たらしめるもの、存在の証明そのものです。
 雪森覚と傑はそれぞれ、大事な人の名前を貰って生を受けました。ゆえに偶然なのか必然なのか、彼らは再び巡り合うことができました。


■夏油傑の生まれ変わり(「彼岸の数式」の主人公)について

 本編で描写されている通り、前世の記憶関係無しにサイコパスです。
 傑を殴るためだけに遠方へ連れ出したり、殴ったあとの看病を行うためにホテルを取るなど、雪森覚のほうが性格的にヤバイという描写を序盤にしましたが、真に危険な性格をしているのは傑のほうです。

 潜在的に他者を嫌悪しており、頭の中で彼らを壊す=殺す想像をして楽しんでいます。そのことを自覚しており、本性を隠すために極めて社会的に振る舞っています。そのため、社交的で人当たりが良いと周りからは評価されています。
 対して雪森覚は、単に他人に興味が無いだけで、それを隠さないでいるために周りからはサイコパスのように見えているだけです。五条悟の数式に脳の何割かが使われているため、共感能力が著しく欠如しており、倫理観のネジが何本かぶっ飛んでいますが、序盤の行動は傑に対してブチギレたゆえの暴走です。普段は加減できています。(どちらもヤバイ性格であることに変わりはありませんが)

 殺人衝動を自覚している傑はそれを楽しむ一方、いつか本当に実行へ移すかもしれないという恐れも抱いており、衝動を抑え込むお守りとして「簪」を挿して持ち歩いています。
 通販で偶然見つけたものです。購入してから、簪を挿すために髪を伸ばし始めました。
 簪を肌身離さず身につけることで、「いざとなれば自分はいつでも簪を使って目の前の人を殺せる」→(簪で刺す瞬間を想像する)→「非現実的でばかげた妄想だ(殺意の否定)」、というサイクルを確立させて殺人衝動を解消しています。

 雪森覚が影に襲われた事件以降、簪を捨てて二度と使わないことを誓っています。そのため、最近は髪を短く切ろうと考えていたりいなかったりします。

 この簪の設定には元ネタがあり、執筆当時に地元の映画館で公開されていた「TITANE チタン」に影響を受けました。主人公は簪を髪に挿して持ち歩き、殺人を実行する際に凶器として使用しています。傑が持ち歩いている簪のデザインは彼女と同じものをイメージしています。
 余談ですがこの映画を見たノリで「彼岸の数式」を書いたため、暴力描写が当初より五割増しで残虐な表現になりました。「チタン」はかなりえぐい・グロい面もありますが、今年見た中でも上位に食い込むレベルで愛おしい映画だったので、興味のある方は今後レンタルや配信等あればぜひご覧ください。
(映画「チタン」予告:



■「諦める」という選択

 傑は自身が抱える殺意について、「考えることを諦める」選択を取りました。
 それは思考停止に他なりません。今は割り切れていても、何かのきっかけ(特に作中でもあった、大事な人=雪森覚が傷付くような出来事など)で殺人衝動が溢れ出すことも充分にあり得ます。

 そのリスクを承知した上で、傑は諦めることにしました。
 悟、ひいては雪森覚が本性を知った上で、傑を受け入れてくれたからです。彼は雪森覚に寄り添い、または寄り添われながら、今まで否定し続けてきた自分をどう愛すべきか、現在も模索し続けています。


■「影」の正体

 「影」の正体はあえて決めず、想像の余地を残しています。
 最後は呪霊操術で見慣れた黒い球へ姿を変えますが、それは「傑が生み出したもの」と示唆するための演出です。少なくとも呪霊ではありません。


■「純度百パーセントの悟」について

 「純度百パーセントの悟」はそう自称しており、傑も悟本人だと認識していますが、厳密に言うと五条悟本人ではありません。なぜなら、彼は数式そのものであり、「五条悟の思考回路」だからです。あえて言うなら「五条悟のAI」が一番近い表現かもしれません。

 本作の登場人物は「前世の記憶を持つ一般人」であるため、「彼岸の数式」において前世の記憶とは情報の一種、脳が処理する膨大なデータの一つに過ぎません。
 AIと表現する際、自我や魂の在処といった問題が生じますが、「五条悟」はあくまでも「雪森覚」が所有する情報の一つです。雪森覚は雪森覚以外の何者でもありません。


■「純度百パーセントの傑」?

 「純度百パーセントの傑」は傑の中に存在しません。
 前世の記憶に対する捉え方が、雪森覚と傑の間で異なっているためです。

 雪森覚は前世の記憶を疎ましく思い、自分の思考回路とは切り離しました。結果、「五条悟の思考回路」は独立した存在として、彼の脳内で自律的な活動を始めます。

 一方で傑は前世の記憶を、自身が抱える殺人衝動の原因と断定します。
 つまり、自分の思考回路とは切り離さず、自らを構成する一部として受け入れました。前世の記憶及び自我は既に現世の自我と混ざり合っているため、前世の思考回路が独立して「純度百パーセントの傑」として現れることはありません。

※マシュマロで前世の受け入れ方の相違について、「雪森覚が以前(前世の記憶)を切り分けるのは拒絶する無下限呪術、傑が切り分けないのは受容する呪霊操術が所以」という考察をいただきました。最高の考察だと思います。ありがとうございます。


■「純度百パーセントの悟」はなぜ傑にキスしたのか

 大好きな傑への愛情表現としてキスしたくなったからです。


■エピローグについて(以前マシュマロで回答した内容に加筆したものです)

 今なら入れてよかったと言えますが、エピローグを入れるべきかどうかは、当時アップする直前まで相当悩みました。

 エピローグでは覚と悟、傑の三人が自分の考えや過去に折り合いをつける(=精神的な成長)と同時に、そのための別れ=喪失を経験します。

 自分たちが成長する・前に進むためには何かを手放す必要も出てくるわけで、「何を手に入れるか?」「そのためには何を捨てるか?」の問いを重ね、選び、時には自分自身の選択に傷付きながらも最良の結果を模索する。

 エピローグで再登場した純度百パーセントの悟にとっての最良は、2人の「すぐる」の幸福でした。そのためには自分が覚の邪魔をしない、つまり活動を止めて眠る必要があった。
 悟は己自身を「捨てる」選択をしたとも言えます。

 傑は悟の考えを尊重しました。
 しかしそれは、傑にとって悟を失うことに等しい選択だったのです。
 長い長い眠りにつく彼を見送ったあと、覚に指摘されるまで自分が泣いていることに気が付かなかった傑は、覚の言葉で、たったいま大切な存在の「喪失」を経験したのだと自覚しました。

 ハッピーエンドと銘打っているくせに、エピローグは傑が悟を失うという話になっており、これは本当にハピエンなのか不安になってしまい、このお話は入れるべきではないのではないかととても悩みました。

 覚と傑の二人だけの物語なら、病院併設のカフェを後にする第3章で終わっても良かったと思います。

 でも、それなら悟は? 彼の物語はどうなってしまうのだろう。2人の「すぐる」は前世(過去)の記憶と折り合いをつけて生きていくことを決めました。彼らの背中を押した悟の物語が、このまま中途半端に掘り下げられたままで終わらせていい筈がない、ということで、最終的にエピローグは消さずに載せることにしました。
 結果的に消さなくて良かったと思っています、このお話で一番伝えたかった部分を最もよく表しているのはやはりエピローグだなと読み返して感じました。

 「覚えてなくても泣くぐらいだから、余程悲しかったんだね」。覚のこの言葉は、大きな喪失を経験した傑に最大限寄り添ってくれている、一種の救い的な意味合いが大きいです。個人的に作中で一番好きな台詞です。


■タイトル「彼岸の数式」について

 最後の場面で鍵となるのがモールス信号のため、「数式」よりは「暗号」あるいは「信号」か? と思いましたが、それではあまりにも語呂が悪く、結果「数式」が一番悟らしい単語だと結論付けました。

 「彼岸」にはこちら側に対してあちら側、向こう岸、あの世、という意味を込めました。
 よって「彼岸の数式」は過ぎ去った過去、あの世から訪れる、または聞こえる、あるべき境界を超えてやってくるもの、です。

 いつか長い眠りから目覚めた時、彼はどんな数式を紡ぐのか。彼を見送った傑、そして雪森覚も、その瞬間が訪れる時を静かに待っています。





■その他何かあれば、マシュマロまでお気軽にどうぞ。
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