木綿子
2021-12-16 21:18:26
4821文字
Public 👹(こい紅)(義炭)
 

#13

バイク便配達員の義勇さんと、パン屋さんの炭治郎のお話です。 義炭です。
#12 https://privatter.me/page/65937b3a1b230
#14 https://privatter.me/page/65937b3a2878d

 熊を貸した。
 炭治郎に。
 己の手から離れたのは初めてである。
 常に義勇の傍らにいたチャコールグレーの熊は、両親を亡くした直後に義兄から与えられたものだった。当時、義兄は姉と交際を始めたばかりの人だったが、冨岡家を襲った不幸に酷く心を痛めてくれたようで、聞くところによると色々とできる限りの手助けをしてくれたのだそうだ。残念なことに、義勇はあまり覚えていないが。熊を貰ったことも、後で姉から聞いて初めて知った。
 記憶はいつも断片的だ。砕けた氷の欠片のように、脆く散らばりいつの間にか溶けて消えている。脳のどこかには保存されているのかもしれないが、どんなに努力しても辿り着くことができない。両親が健在だった頃のことは僅かに覚えているが、五歳より後、小学校低学年の二年分くらいは常に霞がかかっている。
 熊はその霞の中で、唯一くっきりと輪郭を持っていた。いつどんな風に誰から与えられたのかはまるで覚えていなくても、それが義勇のためだけに用意されたものだとはぼんやりとわかってはいたようだ。大きな柔らかい綿の腕と腹に抱えられていると、不思議にとても落ち着いた。そこに人格を見出したりまではせず、ただのぬいぐるみである認識は確かにあったが、炭治郎に言った通り義勇の一部であることは間違いない。もし自分が死んだら必ず棺桶に鮭ごと押し込めてほしい、と遺書に書くと決めている。
 その熊が、今夜は炭治郎の元にある。お陰でベッドがとても広い。クマ分の空間がぽっかりと空いてしまっている。
 寂しい、わけではない。
…………うらやましい)
 貸すと言ったのは自分自身である。炭治郎が「あったかそうでいいな」と言ったから。それなのに何故か後悔めいた気分に陥っている。
 季節は三月。今日は花冷えで寒く、暖を取るには丁度いい。だから「連れて行くか」と聞いてみたら、夕焼け色が丸く見開かれて瞬きし、ふわんと小さな花が綻ぶように微笑んだ。
……いいんですか?」
「ああ。今日は寒いし、試すには丁度いいだろう」
 家の廊下は冷えていた。炭治郎も冬用の寝間着姿だった。淡い緑色の生地はふわふわしていて、炭治郎までぬいぐるみめいていた。去年妹達とお揃いで買ったというそれは、恐ろしくかわいらしい。炭治郎がかわいいのはわかりきっていたことではあるが、まさかこんな外側の生地一枚で奥歯を噛みしめなければならないほどになるとは思わず、部屋に招き入れるには余りに危険物すぎて、ドアの前で引き渡しを行った。
 小脇に抱えていた熊を炭治郎に持たせると、対比のせいでより大きく見える。完全に大きな子供を抱くような格好になって、小柄な上半身がほぼほぼクマで埋まった。
…………ふわぁ」
 両手いっぱいに熊を抱きとめた炭治郎が、綿の向こうで小さく溜息にも似た声を上げた。変な匂いでもしたのかと心配になったが、チャコールグレーの塊をしっかりと抱き直した炭治郎は頬を薄く染めて、どこかうっとりした顔つきで熊毛に頬を当てていて、こちらを見上げる茜の瞳はうっすら潤んでもいた。余程気に入る要素があったのか、ぎゅっと抱き締めてあちこち撫で回し、しきりに手触りも確認していた。その手つきは優しく、優しすぎて色めいて艶めかしいほどで、直接触られているわけでもないのに熊が撫でられているのと同じ個所を押さえてしまう。手のひらの下で、じりじりと炙られるような熱が肌を這う錯覚がして、内心焦った。
 クマとこんな同期をしたことなどない。当たり前だ、今まで自分以外の誰かが撫でることもなかった。姉ですら、クマにはほとんど触ったことがないくらいだ。確かに己の一部ではあるが、まさかこんな感覚になるなんて想像もしなかった。
 炭治郎の手が、クマの後頭部を撫でている。同じ場所がざわりと騒ぐ。血流が巡り、肩が竦みそうになるほどくすぐったい。
 クマをアバターにしたバーチャルリアリティか何かか。そんな時代の最先端に到達した覚えはない。だいたい、目の前でそんなに優しく撫で回すのはやめてほしい。実際に撫でられていないことが物凄く不満になってきてしまう。
……ほんとに、お借りしていいんですか?」
 そんな義勇の内心を知ってか知らずか、炭治郎は実に嬉しそうに熊を抱いて、とろけるように笑んでもいた。「うん」と応えながら、どうして己よりも先に熊が抱き締められているのだろうと、理不尽な苛立ちまで湧きそうになって参った。
 よくない方向に思考が流れている自覚はあり、修正することもまだできる。一応自分を客観視できているうちは大丈夫、のはずだ。そうでありたい。
「ありがとうございます。今日だけ一緒に寝させてもらいますね」
 そんな言葉を残し、炭治郎は自室へと戻って行った。一緒に扉の向こうへ消えたクマを見送ってから自分も部屋に戻り、今義勇はベッドの上で一人、脱力している。
 うらやましすぎる。クマが。
 視界に入っていなければ、妙な同期は起こらないようだ。ただし、今度は想像力の方が逞しくなってくる。灯りを消して布団に包まりながら、義勇は深く、それはもう深く溜息を吐いた。
(本当に、どうしてくれよう)
 今頃クマはどんな風に炭治郎に抱かれているのだろう。手渡した時の様子では、絶対に足元に置いたりなどしていない。確信がある。両腕に抱いて、布団の中に引き込んで、さっきのように熊毛を撫でて擦り寄ったりしているのだろうか。想像するだけで、何やら腹が立ってくる。焦燥にも似た感情が首元にまで迫ってくる。できることなら「今すぐその場を代われ」とクマを取り上げ、炭治郎の温かい手の中に己の身体を滑り込ませたい。明日クマが帰ってきたら、お前だけずるいと詰ってしまいそうだ。
 そこまで不機嫌に考えて、不意に理解した。
 どうやらこれは恐らく、嫉妬心だ。
 なるほど嫉妬とはこういうものか、と納得すると同時に、どうしてクマにと不甲斐なさに襲われる。クマは義勇の言わば戦友でもあるのに。おまけに義勇が自分から貸し出ししたのだから、クマにしてみれば理不尽極まりないだろう。
……すまん。だが腹は立つ)
 正直な気持ちである。
 炭治郎は実に無防備だ。実際のところ、もし義勇が「一緒に寝るか」と問えば、無邪気に「はい」と答えてくれそうな気配があった。常識の範囲内でではあるが、どこに触っても嫌がらないし、髪を撫でているときなど「もっと撫でてください」と言わんばかりに擦り寄る仕草すら見せてくる。とてもかわいくて、嬉しくて、どこまで許されるものか常に測り続けていて、まるで綱渡り状態だ。高く高く、恐ろしく高揚していても、一歩間違えれば瞬く間に地に沈む。溢れかかっている感情とどうにかこうにか折り合いをつけ、炭治郎をじっと見つめ、そこに嫌悪や拒絶がありはしないか探るのが習慣になりつつあった。
 幸いにも、今まで嫌がられたことはない、はずだ。空気を読むのが下手くそすぎるので、自分に都合のいい憶測でしかないが。
 炭治郎が家に越してきて一週間。毎日顔を合わせながら、どうやったら炭治郎に選んでもらえるのか、そればかりを考えている。
「あの、今更ですけど、一応確認しておきたいんですが……義勇さん、お、お付き合いされている方とかは、いない、んですよね……?」
 引っ越し初日にそう確認されて、「いない」と答えつつも、義勇は愕然とした。
 炭治郎が既に誰かを選んでいるかもしれない、という可能性にこの時初めて気付いた。これまで全然考慮していなかったのだ。なにしろ、つい数か月前までは中学生だと思っていたし、今でもまだその感覚が抜けきらず、今後の己の努力次第で選択肢に入れてもらえるかもしれない、としか考えていなかった。まったく愚かなことに。
…………お前は?」
 焦りのあまり震えそうな声になりながらもなんとか訊き返せば、炭治郎はどこかホッとしたような顔つきで「おれもいません」と言ってへにゃりと笑った。
「よかったぁ……おれ、もしかしたらお邪魔になってしまうかもって、思ってたので」
「邪魔になんてならない」
「はい。ありがとうございます。でもおれが住まわせてもらってることで何か不具合があったら、すぐ教えてくださいね」
 そんなことはあり得ない。不具合なんて起こらない。なんなら一生ここにいてほしい。
 言葉は頭の中でぐるぐるするのに、結局音になったのは「うん」のみで、その後自室で一人頭を抱えたのだった。
 世の中に無数に存在する一般的な夫婦は、一体全体どうやって結婚にまで到達したのだろうか。事細かに手順を教えてほしい。一番身近な夫婦と言えば姉夫婦ではあるが、彼らは全く当てにならない。何しろ「気が付いたら結婚していた」系列なのだ。以前何かの会話の流れで一度聞いたことがある。「なんとなく付き合うことになって、そのままお付き合いが続いて、もう入籍しとこっかってなった」という情報しかないのだ。参考にすらならない。だいたい、「なんとなく付き合う」とはなんなのだ。なんとなくで炭治郎と付き合えたら苦労はしない。初手から躓いて立ち上がれない状態である。その間に炭治郎が他の誰かを選んでしまったらと想像するだけで、息絶えそうな気分になる。
『男ならグダグダ悩んでないで玉砕でもなんでもしに行け』
『情操教育が足りないんじゃないかなぁ? 泣ける漫画でも読んでおきなよ』
 人はなぜ赤の他人を深く愛するようになるのだろうか。思い悩んだ末の、箸にも棒にもかからない哲学者のような陳腐な問いを投げかけても許してくれそうな人物は二人しか存在せず、送ったグループメッセージの返答はこれである。同じ質問を義勇が受けたのなら「そんなもの知らない」としか言いようがないのに、彼らは突き放すことなく答えをくれる。有用性は別として。
 一応、真菰にお勧めされた漫画は読んだ。が、所詮はフィクションである。全く参考にはならない。現実的に物語の中にあるような劇的な出来事が起こるとも思えないし、世界の命運を握ったり同じ学校に通っていたり余命宣告されたりもしていない。第一、主たる登場人物は皆見目が良くて性質もいい。炭治郎に限って言えば見目も良くて性質も良いが、自分には当てはまりようがないから参考になりようもない。確かに泣けはしたが。特に、片思いのまま相手と死に別れてしまった悲しい結末の物語には。
『情緒ちゃんと育ってるじゃない。大丈夫大丈夫。死ぬ気で頑張れ』
 「泣けた?」と聞かれたから「泣いた」と答えたら、真菰からの簡単な応援メッセージを最後にこの話題は終わらせられた。二人ともとても優しいが、終わり方がとても雑だった。
 大丈夫なものか。クマに嫉妬しているような人間が。
 炭治郎はもう寝ただろうか。熊毛を抱いて、寝ているのだろうか。
 先ほどの、クマを撫でる手つきを思い出し、義勇は自分の身体を抱き締めるように抑えつけた。毛皮の上を滑り、優しくほわほわと撫ぜ、時折感触を確かめるように柔らかく指先で揉む仕草は、ゆったりとした愛撫のようだった。そんなことはあり得ないのに、「好きです」と甘い声の幻聴が聞こえてきそうで、いよいよ末期かもしれないと思い知る。
 両手を寝間着の中に突っ込みかけて、布地を引っ掻くようにして、止めた。己に禁欲を課しているわけではないが、今は駄目だ。確実に脳内で炭治郎をどうにかしてしまう。一度それをしてしまったら、必ず後悔するに決まっている。箍が緩んでしまっても、同居している以上冷却期間は望めない。一時の欲望に流された翌日に、どうやって顔を合わせればいいのだ。それこそ罪悪感で死んでしまう。

 ぐらぐらと沸き立つ。密度が増す。滴り落ちる。絡みつく。
 熱を持て余して綿の隙間に吐く息は、焦げ付く蜜の匂いがした。