青果
2023-04-21 21:46:59
16935文字
Public
 

【サンプル】秋夜回帰抄

『秋夜回帰抄』九龍妖魔學園紀:皆守と葉佩 / 文庫 / 全年齢 / 212ページ /1,000円
2023/5/3 SUPER COMIC CITY30 東2 ニ77b 『彷徨書房』にて頒布予定の前半サンプルです。
左右を決する描写・示唆する表現はありませんが、感情値が非常に高いです。

通頒:https://pictspace.net/prim_caca
(イベント後に作品ページ公開となります)

・原作の「二周目」をする皆守(成人済)
・堂々と葉佩をかばってやれない身分に戻って悩んだり、感情を拾い集めたりする本

・サンプルは読みやすいように改行がありますが、本では詰まっています
・葉佩とは最終的に愛情値優位、Aスキル・Pスキルマックスを想定

原作シナリオから台詞、展開などが変更されていますが、
これは「原作を二度目に経験する皆守」の行動によって変化が起きた、二次創作として見ていただけると幸いです。



蒲生邸事件


   1

 意識が途切れていたようだった。こめかみのあたりが、鐘を打つように疼く。皆守は疼きを訴えるこめかみを片手で押さえながら、顔を上げた。薄曇りの空が見えた。空気はじっとりと湿り気を帯びている。さて、いつから寝ていたんだったかな、とまるで他人事のように考えたが、すぐに皆守は今までの事情を思い出して勢いよく立ち上がった。

 頭が痛いのを忘れていた。立ち上がると眩暈と疼きがいっぺんに皆守にがなりたて、彼は忌々しく頭を抱えた。

 そうだ、遺跡調査に入った。葉佩と一緒だった。そこで何か……異常があったのだ。そこで自分は視覚も聴覚も触覚も失おうとしていた。

 だが、と皆守は辺りを再び空を見上げる。

 どうやら、不調は回復したらしい。これは喜ばしいことだ。きちんと空が見えているし、空気の動きも肌で感じ取れる。風が吹いて木々が揺れる音も聞こえて、立ち上がることもできた。頭痛がすること以外に不便はなかった。葉佩が皆守を背負って、遺跡から出てきたのだろうか。そうだとするなら、ずいぶん迷惑をかけた。

 皆守は葉佩を探して辺りを見渡す。どうやら、建物の最上階、屋上に放り出されているらしい。確かに風通しがよく、蒸し暑いことを除けば遺跡の底よりずっと清々しい。だが、皆守の立つ地面はモルタルを流し込んで平たく固めた味気ないものだったし、屋上の際には金網が張ってある。おおよそ、人間を放っておくような場所ではなかった。

 そもそも、なぜこんなに蒸し暑いのだろう。肌がじっとりと汗ばんで、額に前髪が張り付いていた。皆守の記憶が正しければ、季節は晩冬であるはずだった。冬至を過ぎて約一ヶ月、日が沈むまでにわずかずつ時間が増しているころではなかっただろうか。だから、葉佩ともしばしば時計を確認して、日が落ちきる前には遺跡を出るようにしようと話さなかっただろうか。

 目に見える景色に、晩冬らしい色はない。

 ロゼッタ協会の医療班がセスナにでも担ぎ込んで、そのまま適当なところに放り出されているんじゃあるまいな、と思った。あり得ない話ではない。葉佩と共に仕事をしてきて、連中がどこまで荒唐無稽な集団なのかは身に染みて知っている。もっとも、社会ってやつはみんなそうなのかもしれない。ロゼッタ協会はそれを隠そうともしないぶん、正直であるとも言えた。

 ともかく、無事で済んだのはありがたい。葉佩には心配をかけているだろうから一報を入れなければと、皆守は携帯電話を探そうとした。

 そこで、ようやく自分の身体に気づいた。頭痛をこらえるのに精一杯で、ほかの部位について何も意識していなかったのだ。立ち上がることができたから、それで満足してしまっていた。
 皆守は、葉佩のバディであると自負している。葉佩はその立場を皆守に与えるにあたって、渓谷に子供を突き落とす獅子のような振る舞いを山ほどしたが、皆守はすべての崖を上った。上ったからこそ、葉佩と同じ仕事先に出向くことができている。だが、今になって葉佩は自分を疑ったのだろうか、と思った。また皆守にテストを与えたくなったのだろうか。

 いや、そんなはずはない。あいつは一度これと決めたものを、自分の感情ひとつで左右させたりしないし、もし皆守の働きに不安がもたげたとして、皆守に何も言わずに試練に投げ込んだりしない。

 しかし、皆守にそれだけの疑念をもたせるほど、今の彼の服装は異様だった。

 今の皆守は、黒い学生服を着ている。手足によく馴染み、やわらかい。袖口のところは糸がほつれてさえいた。誂えてすぐのものではない。ずっとこの身体が着ていたように思えた。
 自分の四肢もいやに軽い。両腕と両足を順番に動かしてみたが、重石を外したかのようで心許ない。細く、いかにも頼りなげだ。

 それに、身動きすると普段の生活ではなかなか感じないような香りが、自分の学生服から立ちのぼる。埃や汗のにおいではない。
 これはラベンダーだ。香りと知識を照合するよりも早く、皆守は理解した。今の彼の生活では、この香りはさほど身近とはいえない。

 高校生のころみたいだ。すべてがそうだ。

 その考えが頭に浮かぶと、皆守ははっとして周囲を見渡した。
 ここは、屋上のような場所だ。金網の向こうに目をこらす。そして、自分の知っている森の影と屋根をいくつか見て取った。

「落ち着け」

 口に出して、自分に言い聞かせた。
 皆守は視覚の処理能力には長けているが、シンプルな処理許容量はさほど多くない。焦りやすいし、意識が狭い範囲に過集中しすぎるところがある。
 というこれは葉佩の言だが、皆守自身の感覚でも同じだった。予想外のことが発生したとき、皆守はその対応策をいっぺんに複数考え、そこからベストなものを選び取るということが苦手だ。だからまず、自分を落ち着かせなくてはならない。

 これは別段、特殊な状況ではない。だから、いつもと同じだけの視野を保て。

 虚勢だろうがなんだろうが、そう意識して深呼吸した。速く浅くなっていた呼吸をゆっくりとしたものに戻し、身体から正常に戻そうとする。
 だが、鼓動がコントロールできない。早鐘を打つ心臓が、皆守の全身に響いていた。心音の速さに焦り、コントロールできないことにまた焦る。悪循環だ。

「これは、夢だ」

 また口に出して、確認する。頭で思うだけで一人で完結させようとするから、どん詰まりになるのだ。
 言ってみたはいいものの、目の前に広がる木々の葉の重なりや風のささやき、薄い雲を通して差し込む日の光などは、決して夢と捨て置けないほど繊細だった。

 木陰は風が吹くごとにかすかに動いていて、その風は決して一定ではない。生暖かいそよ風も、はっとするほど鋭い風も、不定期に吹き寄せた。これは夢なんかじゃない。

 また心臓が速くなった。

 学生服のポケットがずしりと重く感じた。片手を突っ込んで、どきりとする。指先に触れただけで、その重いものが何であるか分かった。指でつまんで、ポケットから取り出す。
 銀色のアロマパイプ。白いカートリッジが挿してある状態で、まだ火はつけられた形跡がない。
 高校生のときの幼い感情と、つたない自己弁護、保身、それらが一挙に皆守に襲いかかって、思わずパイプを再びポケットに押し込んだ。

 現実だ。

 皆守が足を動かすと、靴の下で砂利のこすれる音がした。

「遺跡の……あの仕掛けのせいかもしれない」

 今の事態の原因として、もっともありえそうなのはそれだった。原因として夢よりも遺跡の『神秘』のほうが現実的であるというのもおかしな話だが、皆守にはずっと容易に飲み込めた。高校生には分からない、道理だけでは定まらないものが、この世にはある。
 皆守が認知している限り、あれはただの光だった。ただ、その発生源のことを思うと、憂いがある。
 視覚も聴覚も触覚も嗅覚も、突き詰めるとすべて、人間は直接感じとることができない。どんな形にせよ、神経を経由する。あの光が神経を阻害する何かであった場合、人間の知覚は簡単に影響を受けうる。

「さて、どうするかな」

 小さい声で、自分に確認していく。

 どうするかなも何もないが、というのが皆守の中にいる自分からの返答だった。今のこの状態で、解決策があるだろうか。

 遺跡の罠だとして、何がどうもない。いまの状態の皆守が原因を特定できようはずがないし、できたとして、この状態から脱出する術が分からない。それなりに経験は積んできたが、いきなり高校生に戻るなんてことは体験したことがない。夢だとして、自分をつねったら目が醒めるのか。
 馬鹿だと思いながら自分の腕をつねりあげたが、当たり前のように感触はあったし、目も醒めなかった。

 太陽は薄い雲に遮られている。蒸し暑いのだが、冷たい水を浴びたいというほどではない。吹き抜ける風は乾いてきている。

 思い立って、皆守は制服のポケット、パイプが入っていない側に手を突っ込んだ。もう今の皆守にとってはおもちゃのように見える、二つ折りの携帯電話があった。手は操作方法を覚えている。慣れた手つきで待ち受け画面を表示すると、思わず笑ってしまうほど粗い画質で、今日の日付が表示されていた。

 九月二十一日。もう秋風ということだ。

 どうしようもない状況を前に、ずっと立ち尽くしているのも疲れた。
 皆守はため息をついて、その場に腰を落とす。掃除なんてろくにされていない屋上のモルタルはざらついて、制服が汚れると思ったがどうだってよかった。皆守は、当時もしょっちゅうここに寝転んでいたのだ。両方の足をだらんと伸ばして、後ろに手を突いた。モルタルは太陽にさらされて、触れているとじわじわと熱い。温度を手のひらに感じていると、だんだん落ち着いてきた。

 焦っているときは視界が狭まるものだ。いまは、柵の向こうにある森が広く見渡せた。夢だろうが、幻だろうが、まあいい。天香學園という場所は、皆守にとってそう悪いものでもない土地だった。改めて目の前に風呂敷を広げられたところで何も痛くない。かといって、ずっとここに留まって現実を忘れたいような理想郷でもなかった。皆守は今でも、後ろ髪を引かれることなく、この學園の門をくぐり抜けることができるだろう。

 だから、足留めの罠としては失敗だ、残念だったな。いや、目的なんて分からないが。

 しばらくそうしていると、物音が聞こえた。音というよりも、響きとして皆守はそれをとらえる。足音だ、とすぐに理解した。こちらに近づいてきている。びっちり念入りに押し固められた階段を、一段一段、上ってきている音だった。プルハブ小屋の階段なら、もっと軽い音がする。皆守は頭を持ち上げ、すぐに立ち上がれるように膝を立てた。

 この夢か幻のような天香學園にいる人間は、皆守だけではないらしい。
 今までも話し声や笑い声らしいものは聞こえていたのだが、それはあくまで環境音だと思い込んでいた。はっきりとして登場人物として皆守にコンタクトをとってくるとは予想していなかった。
 足音が近づいてきて、話し声も届くようになる。足音が二重だと気づいた。内容は聞き取れないが、誰かと話している気配がある。つまり、向こうは一人ではないのだ。足音から考えると二人いる。うち一人の声は高く、明快だ。女の声だ、と皆守は思った。

 階下に続くドアノブが開く。

「それで、ここが屋上だよ! まだ暑いねェ……ほら、すっごく見晴らしがいいし、私は屋上好きなんだッ」

 ドアが開くなり飛び込んできた声とその姿に、皆守はとっさに声が出なかった。

 八千穂という少女の名前を、皆守は忘れていなかった。彼女からはまだ、年明けにメールが届く。
 皆守は、レリーフから浮き上がってきたかのような光景に、息を忘れた。ビデオでも見せられているかのようだった。ビデオと違うのは、この景色は皆守の周囲に途切れなく続いているということだ。
 少女が笑顔で屋上を駆け、皆守の向かいにある柵に手を掛けて森を指さす。

「見える? 葉佩クン、あっちのドーム型してる建物が温室なの」

 はっとして、皆守は開け放しのドアを見た。彼女の声に呼ばれたように、一人の少年が出てくる。制服はこぎれいで糊がきいているのに、新入生のようなあどけなさはなかった。だが、若い。
 皆守が、遺跡でかばった男だった。間違いなくそうなのに、目の前の少年の目元や頬が幼い気配を大事に抱え込んでいるのが分かる。背筋はまっすぐに伸びて、肌が日に焼けていた。こめかみには、水ぶくれのような小さな傷があった。その傷のことを、皆守はまったく知らない。

「おいッ」ととっさに声が出たのは、皆守が混乱しきっていたからだ。

 その声に彼は反応した。皆守のことを見て、会釈した。初対面の人間がする動きだった。

「あッ、皆守クン。朝からずっとここでサボってたの?」
「いや……あァ、まあな」

 皆守がどうにかそう答えると、怪しむこともなく八千穂はすぐさま反応をかえした。

「えぇッ、じゃあ葉佩クンのこと知らないよね、転校生の葉佩九龍クンだよ。今まで外国で暮らしてたんだって。男子寮のことは、あたしはよく分かんないし、皆守クンがいろいろ教えてあげてね!」

 指先が冷たい。気が遠くなって、翻って客観的になれた。

 そうか、二〇〇〇四年九月二十一日。

 おまえが天香學園に転校してきた日だ。

 今の皆守にとって、彼はまったく初対面ではなかった。八千穂にていねいに教えてもらわなくたって、名前も職業も知っている。その仕事ぶりも、好きな食べ物も、口癖も、悲しみをどう表すかも、悔しさをどう押し殺すかも知っている。だが彼女の中の皆守は、そのすべてを知らないことになっている。すべて俺は知ってると言ったところで、何も伝わらない。

 二〇〇四年九月二十一日の皆守甲太郎は、そんなこと知っているはずがない。

 全身から力が抜ける。安心によってではなく、事態への失望に近かった。『そういう』ことか。これは確かに、ダメージが大きい。いま皆守の立つ地が高校だと察したときには、こんな無力感はなかった。この遺跡の罠は『そういう』ことなのか。

 皆守の前に立つ葉佩はまっさらな顔で「よろしく」と言った。その表情は通りすがりの猫を見るよりも味気ない。自分とのつながりが何もない葉佩の顔なのだ、と突きつけられた思いがした。葉佩は何も冷淡にしているわけではないのだが、皆守にとっては隔たりがありすぎた。

「葉佩クン、こちら、同じC組の皆守甲太郎クン。いつも……あ、皆守クン、今は吸ってないんだね」
……何の話だ?」

 今の皆守の感覚にゆだねると、この八千穂は高校生で、まだ子どもだった。だが、この八千穂にとっては皆守はクラスメイトである。子ども扱いはふさわしくないし、かといって必要以上に冷たくすることもできない。どう話せばいいのか思い出しながら、皆守は答えた。

 八千穂はぴょんぴょん飛び跳ねるようにして話した。

「ほらいつもくわえてる! 煙草!」
「煙草じゃない。その、……転校生、言っておくがな、俺は煙草なんてしないからな。アロマだよ」
「アロマ? へえ」

 葉佩はおもしろそうな顔をした。それから携帯端末を開いて、何か調べている。
 皆守は、その端末がなんという名前なのかも知っていた。

 遺跡で葉佩と並んでいるとき、彼はいつも皆守にも画面を見せてくれた。依頼のメール、情報収集、敵のアーカイブ。だが、いまはそれができない。

 目の前で起きることのひとつひとつに、また皆守は疎外感を煽られた。
 皆守の様子には気づかずに、八千穂がまたぴょんと跳ねる。

「そういえば、いつもラベンダーの香りがしてるかも!」
「かもじゃない。してるんだ」

 あはは、と八千穂が笑う。葉佩は調べ物を済ませて、端末を閉じた。皆守に向き合い、笑顔をうかべた。彼はひと当たりがいい。皆守はその顔に撃たれたような気になった。

「葉佩です。こんな時期からだけど、よろしく」
……あァ」
「じゃあ学校の案内に戻ろっか! 葉佩クン、あっちが温室で、あそこが寮だよ。その隣、ちょっと住宅街みたいになってるでしょ? 先生たちの家なんだ。……それで、あの暗~いのが森。さっき話した墓地がちょっとだけ見えてるけど、葉佩クンからも見えてる?」

 うん、と気楽そうに葉佩が答えている。

 皆守は、彼らの後ろに立っていた。墓地か。そうだ、墓地。そのために葉佩はここに来ているのだ。そして、墓守たちが斃されていく。当時の皆守は墓に潜る葉佩について行った。墓地の土の中に潜り込んで、若い《宝探し屋》に同行していた。もっとも、ほとんどの時間、同行しているだけだった。彼にあからさまな手助けをすることが正しいことなのか、彼を見殺しにするべきなのか、それともここで皆守が彼を止めるべきなのか、いつも分からなかった。分からなくて、ずっと結論を先延ばしにしていた。

 その末にも結論らしい結論を出したと胸を張ることはできない。墓守としての義務だという言い訳に流されていたにすぎないのではないか、と自分で振り返っている。墓の下で、自分は葉佩に何もできなかった。
 だが、今の皆守は彼をかばえる。ただの同行者に留まらず、彼を支援してやれた。あのときの自分と違うのは、決定的に葉佩を信頼しているということに尽きる。天香學園の墓地はただの遺跡ではない。呪いと恨みが長い年月をかけて澱となり、入り込む者の足を取って土くれに骨を埋めさせる牢獄である。

 今の皆守は、葉佩がそれを打ち崩せることを知っていた。葉佩はこれから墓守を斃していく。だが、そもそも墓守たちは葉佩を斃そうとしなくたっていいのだ。

 今の正解は何だ。

「じゃ、俺は行くぜ」

 皆守はそう言い残して、葉佩と八千穂に背を向けた。

「あッ、皆守クン。午後はちゃんと授業に出るんだぞッ」
「分かってる」

 適当にいなした。
 屋上を出て、後ろ手にドアを閉めた。

 皆守の中に、光明と暗黒が差している。光明は、かつての皆守にできなかったことを今の皆守はできるということだった。

 高校三年の秋と冬、わずかな三ヶ月のあいだ、皆守は葉佩に何もしてやれなかった。アロマの香りで場をにごして、どうしてもというときに彼を押しのけたり、死角からくる攻撃を教えてやったりしただけだ。今からなら、そんな過去を払拭できる。葉佩が遺跡に全力で挑むのと同じ熱量で、皆守は彼の隣に立てる。

 一方の暗黒は、光明より深い。結局、この場が何によってもたらされているのか分からないということがまず一つある。これについては、すぐに解決できる問題ではない。もう一つは、皆守の助力が葉佩のためになるかは分からないということだ。皆守が知る、二〇〇四年九月二十一日天香學園にやってきた葉佩はまだまだ新米だった。そんな彼が玄室から生還できたのは、新米だった葉佩が遺跡の各区画、墓守たちを突破していくことで成長したからだ。

 いまここで、皆守が葉佩を手助けできるだけ手助けしたとき、玄室の勝利が彼のものになるのか、まったくの不透明だった。

 そして、懸念はもう一つある。《生徒会》だ。かつての皆守は、前もって阿門から話を通されていたので葉佩のことを知っていた。この學園の《生徒会》も同様だろう。《生徒会》全体で、転校生の葉佩を警戒しているに違いない。墓守を、葉佩にけしかけるつもりだろうか。それに皆守が刃向かうことはできるか、それが問題だった。遺跡のことを知っていると言って、皆守が阿門の前で自分の知識をつまびらかにしたとして、どうなるか想像した。

 阿門は皆守の言うことを信じて葉佩を信頼するより先に、教えてもいないことを知っている皆守を疑うだろう。未来を知っていると阿門に訴えたとして、どうなる。阿門はそんな不確定な証言を信頼して、見ず知らずの墓荒らしに全てを賭けたりしない。

 結局、皆守はまたなにもできないのではないか。

 いましがたの葉佩の顔がまっさらだったことを思い出して、皆守は追い打ちをかけられたような気がした。


   2

 八千穂に返した通りに、皆守は午後の授業に出席した。高校三年生の授業ってこんなものだっただろうか、と思いながら教員の話を聞いた。大学等の講義に慣れてしまって、五十分の授業がとても短く感じる。皆守も授業や発表をする側に何度も立たされて苦労しているので、自分勝手な高校生何十人を相手に五十分で授業の起承転結をつけられる教員が有能にみえた。現役高校生のときにはなかった視点だ。

 黒板から視線をずらすと、葉佩が見える。転校初日の彼は緊張していながらも、周囲と溶け込もうとしているようだった。
 次亜塩素酸ナトリウム溶液の解説を無感動な口調で並べる教員の声を遮るようにチャイムが鳴った。

「では、今日の授業はここまで」

 教師のその声を皮切りに、生徒たちはわっと立ち上がる。葉佩の隣に座っていた男子生徒は、葉佩にちょっとだけ手を振って、大股で離れていった。高校三年生の二学期だ。人間関係は固まっていて、突然入ってきた転校生が優先されようはずもない。
 それでも、皆守は葉佩に近づいた。かつての皆守もそうしたことを、彼は覚えていた。

「おい、……葉佩」

 彼にどう呼びかけたらいいか、声を掛けてから分からなくなって、名字で呼んだ。『葉佩』という名字はもちろん覚えていたが、口にして呼ぶのは久しぶりだった。人前で形式を守るために呼ぶことはあっても、個人的な話をするために呼ぶのはそれこそ、高校生ぶりだったかもしれない。

「あ、ええと、皆守くん」
「あー、なんだ、その……もっと気楽でいい。通りすがりの赤の他人ってわけじゃないんだ」
「ありがとう。いいの?」
「あァ」
「そうなんだ。おれ、さっき屋上で皆守……に、気づかないうちに何か、悪いことしちゃったかと思ってて」
「悪いこと? 何のことだよ」
「そういう顔だったから」

 初対面のように接してくる葉佩(もちろん、彼にとってはそれで正しいのだ)にショックを受けたとき、皆守は顔にそのまま出したらしい。それを聞いた皆守は、決まりが悪くなった。

「おまえたちが来るまで寝てたんだ。寝ぼけてただけだよ」

 葉佩は目尻をゆるませた。そうやって笑うと、皆守の知る葉佩が皆守に向ける笑顔に近くなる。

「寝てたんだ? 屋上、わりとまだ暑いなと思ったけど」
「涼しくなったほうだろ、これでも」

 皆守の苦し紛れの言い訳に、少なくとも表向きは納得した素振りをしてくれる。

「それで、皆守はどうしたの?」
「八千穂に頼まれたからってんじゃないんだが、寮まで案内してやるよ。まだ行ってないだろ」
「助かる! この學園、もうひとつの町って感じだろ? 迷いながら行くしかないなと思ってたところなんだよな」
「新入生だとオリエンテーションで一周してくれるんだが、転校生は在校生の案内ボランティア任せだからな。……校則で、生徒は放課後になると速やかに校内から出なければならない事になっている。違反者は《生徒会》が取り締まってるから、さっさと出て行くに越したことはない。念のため、忠告しておく」

 この校則をそらんじるのも久しぶりだった。だが、まだ唇が滑らかに動いた。
 皆守が淡々と話したので、葉佩は神妙な顔になった。

「生徒会が?」
「あァ、《生徒会》だ。天香じゃ、《生徒会》が規則を決めてる。まあ……俺の知ったことじゃない。どこでもローカルルールってのはあるだろ」
「それもそうか。ローマではローマ人のするようにしろって言うしな。おれ、日本の高校ってどんなもんかよく分かってないから、教えてくれて助かるよ。それじゃ、ちゃっちゃと出たほうがいいってこと?」
「そうだ。……行こうぜ」

 分かった、と素直に頷く葉佩が荷物を片付けるのを、皆守は傍らで見つめた。
 葉佩に何を言うのが正しく、自分がどう振る舞うのが正しいか、皆守は正解が分からない。ただ、葉佩に自らを偽ったとき、言葉の出が悪くなった。

 男子寮の部屋を案内したところで、葉佩とは別れた。彼は夜になると墓地に行くはずだから、その時間には皆守も出て行かなければならない。まだ自分のすべきことを皆守が決められていないうちは、記憶にあるもともとの流れを変えるべきではないと思った。

 葉佩の隣を、または葉佩を先導して歩くのは、皆守にとっては珍しいことではない。ロゼッタ協会で葉佩とともに仕事へ赴くようになってからは、動体視力の優れる皆守が葉佩の半歩前を歩くことが多くある。いわば炭鉱のカナリアのようなもので、皆守は他者では代替できないその役割が誇りだった。葉佩は、皆守を危険にさらすことについて気にしないわけではなかったが、皆守の誇りのために、または皆守への信頼を示すために、カナリアの役割を認めていた。自分の誇りを守るように他者の誇りを守るということを、葉佩は当たり前にできる男だ。その葉佩のことを、皆守は信頼している。

 天香學園の道をきょろきょろしながら歩く葉佩は、やはり物慣れない様子だった。生来、人見知りをしないたちなのだろう。皆守にあれこれと話しかけては、よく笑った。本当に葉佩と初対面だったとき、皆守は何を話しながらこの道を歩いたか覚えていない。マミーズへの道と、メニューのあれこれ、混む時間帯などを伝えただろうか。

 男子寮の自室の場所があいまいだったが、ポケットに入っていた鍵に部屋番号が印字されていたので助かった。久しぶりの男子寮は、驚くほどラベンダーの香りがしみついていた。
 思えばところかまわずアロマをくゆらせていたから、こうなるのも当然だ。皆守は苦笑いしてベッドに腰を下ろした。生徒たちに平等に与えられているベッドは木製で、マットレスが硬かった。

 見える景色のすべてがなつかしい。

 こうしているだけなら、ここは皆守に郷愁だけをもたらした。なつかしい香りと、なつかしい家具、窓から見える森は慕情のかたまりだ。天香學園ではわずかな時間を過ごしただけなのに、故郷に戻ったような心地になる。
 手のひらで、ベッドの木枠を撫でた。長く使われているせいで傷があり、ささくれもある。いつかの生徒が彫刻刀で刻んだ落書きも、油性ペンの悪態も、皆守には見覚えがあった。ここまで作り込まれている夢はそうそうない。

 つまり、ここは確かに二〇〇四年の九月二十一日なのだ。これを前提にしなければ、先には進めない。
 いつか早いうちに阿門と会ったほうがいい、と思った。いまこの地での《生徒会》の方針は、確認しておくべきだ。

 まずは、今夜の葉佩の無茶を止めに行く。それから明日以降、できれば明日のうちに阿門と会っておく。

 しなければならないことが定まると、いくらか安心した。昼に屋上で目覚めてから初めて、息をつくことができたような気がする。皆守は大きく深呼吸して、ベッドに横たわった。すると、腹のあたりに硬いものが乗った。ポケットに入れっぱなしにしているアロマだな、と思った。吸っていなければ怪しまれるだろうか、だが今の皆守はあまりアロマを吸わなくなった。
 うとうとしながら手探りでパイプを取り出し、ベッドサイドに置く。それから、まどろんだ。なつかしい香りは鼻から頭に抜けて、皆守の芯をあたためた。

 まどろみは優しく皆守をさらっていって、波の上に浮かぶボートに乗せた。眠りの中では誰もがたったひとりだ。それに寂しいと思うことはない。皆守にはいつも魂がある。

 その魂は、この天香學園で得た。


   3

 阿門との面会の機会は、予想よりも早かった。
 深夜に墓地に乗り込もうとするうきうきした様子の葉佩の首根っこをひっつかんで、八千穂に釘をさし、墓守(友だともう知っているが、表に出さないように苦心した)に許しを請うて二人を寮に追い立てると、阿門からメールが届いていた。この時代の携帯電話は必要最低限の機能が必要十分に備わっている。

 当時も、このタイミングで阿門から連絡が来ていたのだったか。よく覚えていない。あのとき、皆守はまだ地に足がついていなくてぼんやり生きていたのだ。

 こんな夜更けに、と不満はあったが、そうでもなければ皆守は周囲に気取られずに生徒会室に長居することができない。高校生のときの自分が蒔いた種なので、皆守は眠たいのをこらえて生徒会室へ向かった。校舎を歩くということがそもそも久しぶりなのに、夜の校舎となればなおさらだった。
 夜、この廊下を歩くときの記憶はいいものとは決して言えない。だが、今の皆守を形作るひとつの経験であったことに違いはなく、阿門の精錬された鉄のような重たさは特に忘れがたかった。

 生徒会室には、阿門が一人で皆守を待っていた。

「なんだ、一人なのか」

 皆守がそう声を掛けると、阿門は瞳だけで一瞥する。

「他に呼ぶ必要がない」
「それもそうだ」

 皆守は、阿門の向かいに腰掛けた。この部屋のソファは寮のベッドよりもよく沈む。

 正面から、彼を見た。阿門も幼い顔をしている。表情は険しいが、張り詰めすぎているところが露わだった。大きすぎる責任を負わされた子の苦悩がありありと見て取れる。当時は皆守も同じ子どもだったから、これに気づけなかった。

「転校生の様子はどうだ」

 阿門のことを幼いと感じたが、皆守はいま目の前にいる阿門と目線を合わせるつもりで話した。そうでもしないと居心地が悪かった。

「さっきの見てただろ。転校初日から、向こう見ずなやつだよ」
「話はしたか」
「他のやつらよりはな。……温厚で、気が良いタイプだ。話が通じないやつでもない。向こう見ずだが、反抗的じゃない」
……そうか」
「様子は、俺が見ておく。お前はもう寝ろ、あの爺さんが気にする」

 阿門は眉を寄せた。皆守は、阿門に見えないように笑った。
 天香學園の生徒会長は険しい顔をしている。この學園には転校生が多く、新しく赴任する教師も多い。その全てに目を配っていなければならない阿門には、気苦労が絶えないだろう。
 そんな顔しなくたっていい、と言ってやりたかった。

 阿門、お前がいま警戒しているやつが、お前をいつも押しつぶそうとしているあの墓地の底に、最初に朝の光を届けた唯一の人間なんだぜ。

 そう言ってやれば彼が楽になるなら、皆守はいまその道を選べた。

「話はそれだけか?」
「ああ」

 その道をいま、選ぶことはできない。

……執行委員は行かせるのか」
「そうだ、何もしないままというわけにはいくまい」
「そうか、……あまり無理をさせるなよ」

 阿門は頬で笑う。かすかな動きが、この男の笑い方だった。

「どうした、珍しいな。《生徒会》の動きが気になるか?」
「今回は、クラスメイトだからな」
「三ヶ月前もそうだっただろう」
……気の良いやつだ。墓地に、あいつの穴を掘ってやりたくない」
「ならば、当人の動きを封じることだ。そんな仕事をしなくても済む」

 阿門のこの頑なさは、碇だ。この男がこうして頑迷でありつづけるから、《生徒会》は揺るぎない決意でその職務をまっとうしつづけることができていた。

 皆守はこれからこの學園を掻き乱す嵐を、その末に訪れる朝のまぶしさを知っている。だが、言葉だけでは阿門の頑なさを崩すことができないことも知っていた。石を投げ入れるような騒ぎは起こせるかもしれない。だが、それだけだ。阿門はきっと、皆守の話を聞いても現在の警戒態勢を続ける。彼を目の前にすると、それが分かる。
 葉佩はただの校則違反者ではないというのが事実だとして、皆守には証明する手段がない。証明することができない、というのは阿門を説得できない、ということとイコールだった。

「何かあれば連絡する」

 歯がゆい。皆守はソファを立った。皆守にはできることがあるはずだが、最善手ではないのだ。

「皆守」

 阿門が呼び止めた。

「お前も、《生徒会》の一員だ。それは忘れるな」
……ああ」

 皆守は生徒会室を出た。そのとたんに、やるせなさが胸を突き上げる。
 これが現実なのだろうか。夢ではないのか。いや、それは寮の自室で否定したはずだ。これは夢ではないという前提で、皆守は動いている。それを揺るがしてしまうと、何も判断できなくなってしまう。夢ではない。

 だとしたら、皆守はもう一度、生徒会役員をやらなければならないのだろうか。

 もう一度あれを、と思うと気が塞いだ。
 皆守の意識は成人している。だが、周囲の状況が皆守に高校生を強いるので、この短い時間のあいだに高校生のようになっている気がした。

 校舎から出ると、夜風が冷たい。建物が少ないので、隙間を縫うように吹き抜けるような強い風ではなかった。森の木々がざわめく音が、冷え冷えと感じる。木の葉を透かして吹く風は緑と水の匂いがした。誰も歩いていない道を進んでいく。建物の間にムラサキシキブが生えて、細い枝に紫の果実をつけていた。ぱらぱらと、点描のように小さな実は控えめで奥ゆかしい。

 やがて男子寮が見えてきた。もう夜更けだというのに、電気がついている部屋がある。寮から出ないのであれば、皆守に誰何する義理はない。

 階段を上る足音が、虫の声にまぎれた。ざらついた壁を指先でなぞるようにして、踊り場をまわる。指先は壁の凹凸を感じ取り、皮膚が削られるような感覚があった。
 音も感触も、この身に結びついている。神経が通っているのを感じる。自分が成人していたということが信じられなくなってくる。この高校の門を出た記憶は確かにあるのに、身近にある課題が皆守を天香學園に引き戻す。眠たさのせいだろうか。

 自室への廊下にたどりつくと、視界の中を何かが動いた。皆守は顔を上げる。
 皆守の部屋の前に、男が一人立っていた。廊下の壁に寄りかかっていたのだが、皆守に向かって手を振った。顔を見て、皆守は動揺した。

……何してんだ、部屋に戻って寝ろって言っただろ」
「いやー、慣れてない部屋で一人じゃ、目が冴えちゃって」
「俺の部屋でも同じことだろうが。俺は眠いんだよ」
「眠いのに、あれからまた散歩してたの?」

 皆守は部屋の前に立ち、葉佩と目を合わせた。彼はあっけらかんとした顔で、皆守を見返す。その顔に押し負けて、視線を外した。

……寝るときは体温が下がってた方がいいんだ」
「風邪引くよ、不健康優良児なんでしょ」
「おい、八千穂の言うことを真に受けるな」

 葉佩が笑った。彼の会話の呼吸と質感が、皆守の中を撫でつけていく。皆守は、これを知っている。今日が初対面なんかじゃない。
 皆守には、葉佩九龍という男と生きた思い出がある。なくしてなんかいない。もう一度やり直したいとも思わない。皆守は、記憶の中で彼とつないできた毎日に誇りがある。

 葉佩が目の前で呼吸していた。幼い顔だ。皆守のことを友と見なして日が浅い、けれども寄せる親愛を隠していなかった。

「俺は寝るから……おまえも寝ろ。また明日、学校でな」

 また明日、と存外すなおに葉佩も言った。廊下は声が響くので、ずっとささやき声だった。

 これは現実か?

 だとするなら、皆守はまた葉佩に本当のことを明かせないままでいなければならない。葉佩のあっけらかんとした顔を見ながら、何も知らない顔でいなければならない。

 それが一番、皆守にとって苦しい。