青果
2022-05-30 23:17:17
20070文字
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燃え尽きないから【サンプル】

『燃え尽きないから』九龍妖魔學園紀:皆守と葉佩 / 文庫 / 全年齢 / 140ページ / 850円(通頒)
左右を決する描写・示唆する表現はありません。


 草の戸も

 二〇〇五 冬


 二月の中旬に入ってからこっち、マミーズの空気が痛い。居心地が悪くて、皆守は夕食をとった後は早々に店を出た。思い返せば毎年、三学期の共用スペースはこんな感じだ。

 天香學園は生徒が多様なので、就職するのがいくらかいて、留学するのが少し、推薦で進学先が決まっているのが一部、入試に備えているのがそれ以外と高校三年生の辿る進路のほぼ全てがある。就職するやつと推薦で決まっているやつは授業がない三学期に悠々自適な暮らしをしていて、入試を控えた生徒がそれに神経質になるのだった。月日が過ぎるほど、入試に備える生徒が減っていく。
 示し合わせているのかどうか知らないが、偏差値の高い私大、つまり第一志望になりやすい大学ほど後半の日程となるので、二月に入るころになるとひりひりを通り越して痛い。二月の半ばを過ぎると国公立大の前期入試が迫り、一部の生徒は後期入試のある三月半ばまで緊張が続く。

 つまり、三月頭の卒業式の時点では進路が決まっていない生徒がいる、という日程となる。おそらく全国的にそうだ。後期日程が済むときには退寮している生徒もあって、三月の寮内はずっと騒がしい。

 皆守はそれらのどれにもあてはまらない生徒だった。いまの時点で浪人確定なのである。センター入試にはそもそも申し込みをしていないし、私大を受けたところで受験料の無駄だと分かっていた。開放と切迫を両方備えていてぜいたくなもんだな、と夕薙には笑われる。それは年上の思いやりのような微笑みが混じったもので、いいご身分だと皆守をあざ笑っているわけではないことが伝わるから、本気で嫌だった。

 進路が決まっている生徒は退寮日を決めなければならないのだが、皆守はまだ決めていない。担任の雛川には目こぼしされていた。

「おや、もう帰りかい」

 黒塚の声だった。
 中庭のほうから歩いてくるやつがいるなとは認識していたので「あァ」とだけ、曖昧な返事をした。彼はやけに大荷物で、いつも抱えているガラスケースがない。
 親しげに話しかけられたので皮肉を言いたくなり、皆守は言葉を続けた。

「もう、なんて時間じゃないだろ。七時を過ぎてる」
「そうかい? 充実した時間は、時の流れを忘れさせるね」
「外出してたのか」

 基本的に生徒は外出禁止だが、三年生は入試があるので出入りが多くなる。
 二人で並んで、寮に足を向けた。黒塚は抱えた紙袋を撫でながら歩く。その手つきが手遊びにしては丹念なので、中身は石なんだな、と分かった。

「合格発表を見るという名目でね、今は外出届のチェックが甘いから。上野の国立科学博物館、あるだろう。九龍博士たちと歩いた遺跡の石たちもそりゃあ魅力的だったけど、ガラス越しの石たちは光り輝いて目がくらみそうになったよ。信じられるかい、多くの人の目にさらされていてなお、彼女たちの輝きは色褪せない。それどころか、時間が経つほど輝いて美しい声で歌うんだ。僕が見つめていた時間も、彼女たちにとっては光を放つ時間のうちのひとつ。その時間の中に、さっきまで僕は含まれていたんだよ。なんて光栄なことだろう……
「そうか」

 風は冷たく二人に吹き付けたが、黒塚は寒さなど感じていないような顔をしていた。皆守はコートの襟を立て、首をすくめるようにして歩く。両手をポケットに入れていると、入れっぱなしのアロマパイプに指先がふれた。それを人差し指でもてあそびながら、黒塚の長話につきあった。

「皆守君は外出しないの?」
「行くあてがないしな」
「そうかな?」

 黒塚は不思議そうな顔をした。皆守は唇の端で笑う。

「無趣味なんだよ」
……そうかな?」

 考える間をおいて、黒塚は同じことを言った。皆守は「ああ」と返した。
 それでも黒塚は納得がいかない様子だったが、そうしているうちに男子寮についた。じゃあな、と別れる間際に、「聞きたいことがあるんだ」と黒塚のほうから皆守を呼び止めた。

「なんだ」
「九龍博士からの連絡、きみのほうに来ていないかい?」

 今度は、顔全体で笑ってしまった。二月の半ばを過ぎてから、いろいろなやつに同じことを聞かれる。

「何もないさ。来るとしたら、お前のところにも連絡あるだろ」
「きみのところにも来ていないんだね……ありがとう」

 黒塚は噛みしめるようにそう言った。皆守にこの事実を確認してようやく、現状を受け止めたという様子だった。皆守はそれを流し見て、

「じゃあな」

 ともう一度言い、片手をひらと振ってその場を離れた。

 卒業式が二週間後に迫っている。皆守にこれを聞いてこないやつらも、それぞれに焦れているのだろうと分かっていた。
 それにしても黒塚のやつ、一丁前に気遣いなんかできたんだな、と思った。

 葉佩のことを別れ際に聞いたのは、言い出しにくかったからだろう。なぜ言い出しにくいのかと言えば、黒塚自身も自分に連絡が来ていないということは皆守にも連絡が来ていないということだと察しているからだ。察していても、尋ねてしまう。尋ねられたら、皆守も答えてしまう。連絡が来ていない、と皆守に答えさせることは皆守に心理的な負担をかけると黒塚は勘づいている。勘づいていても、尋ねてしまう。どうせ尋ねるなら、この話題を引きずらないで済むときに口にしたいのだ。だから、別れ際に尋ねる。

 みな、そうだ。

 昨日はそれがマミーズの店員だったし、おとといは受験に出掛ける肥後だった。前者は会計後に、

「あのォ、九龍くんから何か連絡ってありました?」

 と言ってきたし、後者はすれ違いに、

「突然ごめんでしゅ。九龍くんからメール届いてないでしゅか?」

 と聞いてきた。連絡はない、と答えること自体に疲弊はない。だが、事実を改めて認識することと、答えを聞いたやつの残念そうな顔を見るのは疲れた。

 寮の自室に戻ると、電気をつけたままだった。コートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。歯を磨いてこなきゃなという気持ちはあったのだが、ベッドの誘惑のほうが強い。まず一休みだと、ベッドに横たわった。たかだか夕食をとりに行っただけなのに、とても疲れた。

 薄く目を開けると、真新しい参考書の山が見える。今まで不要だと思っていたから、購入したことがなかった。何を選べばいいのかも分からなかったので、恥を忍んで七瀬に連絡をしたらウェブショップのURL付きで教科ごとにリスト化したものを送ってくれた。その礼らしいものを、メールでしかしていない。どこかで直接、何かを返さなければならないと思っているのだが、相手は女子寮にいるので機会を見つけることができないままでいた。

 このままでは卒業してしまう。
 七瀬は成績がいいので、推薦で進学先が決まっていた。

 いま連絡するか、と思って横たわったまま携帯電話を取り出すと、ちょうどメールを受信した。携帯電話を開いたタイミングで受信すると、画面にすぐに送信者が表示されるので安寧に役立つ。ベッドでうつらうつらしているときの微睡みを着信音で破られたときから、ベッドから手を伸ばして携帯電話を取り、それを開くまでの時間は、ほぼ永遠だ。

 メールはマミーズのメールマガジンだったので、開封だけして読まずに新規メールを作成した。
 卒業したら、このメルマガも登録解除することになるだろう。定期的にクーポンが送られてくるので、一年生のときに登録していた。

 七瀬に送る短いメールを打ち込みながら、思い返した。

 よくよく考えると、なぜあいつからの連絡が来ていないか、俺に聞くんだ?

 いや、よくよく考えなくても理由は明白なのですぐ嫌になった。みんな、自分よりも皆守のほうが葉佩に近いと思っているからだ。今までそうである自負はあったが、今もそうかは自信があるとは言い切れない。
 皆守が葉佩に傷を付けたことと、葉佩が皆守に傷を付けたこと、その両方の現場を見ているのは八千穂だけだ。八千穂は楽観的だから、皆守のようには考えていないだろう。

 皆守は、今の葉佩がどこにいるかも知らない。
 聞いたら、教えてくれたかもしれない。でも、皆守にはそれを聞けなかった。

 聞けなかったという後悔が皆守に葉佩との距離を感じさせているだけだ、という意識は底に沈んでいる。遠くなった物理的な距離を惜しむ意識ばかりが表面に浮かんで、その原因となった皆守自身を恨んでいる。自分で自分を恨んでいる。やめなければ、と思うが、そんな気軽に自分を操作できれば苦労しないのだ。
 でもこの痛みを、誰かに預けたりしてはだめだ。それだけは確かに分かる。この痛みを手放すことで得られるものなど、何もない。

 だからこの痛みはずっと皆守のものだ。

 七瀬に「参考書を見つくろってもらった礼をしたい。マミーズでよければ奢る。マミーズに行く予定がたったら連絡してくれ(他のやつに声をかけてもいい)」と送信した。七瀬とメールのやりとりをしたことがないので、連絡のつきやすさがどれくらいのレベルなのか分からない。だが、筆まめの印象があるので、確かな日時の回答はなくても了承の旨はすぐに戻ってくるだろう。

 そう考えてうとうとしていると、まもなく着信音に起こされた。七瀬か、と携帯電話を開いたら、そうではなかった。
 息を止めて、メールを読んだ。そうしているともう一通、続けてメールが届く。

 どちらも、葉佩九龍からだった。

 バディら全員への一斉送信と、皆守だけに宛てた一通が皆守の受信メールボックスに積まれた。フロムの後に続く名前が、皆守には見慣れているようで珍しい。そういえば、ずっとそばにいたから、ほとんどメールのやりとりなんてしなかった。二通とも、続けて読んだ。

 卒業式に帰る。
 と、卒業式のあと時間くれ。




「や、いーのかな、こんなことしてもらって」

 葉佩はそう言っているが、顔は腑抜けている。相対する雛川は「いいのよ。三学年の先生みんなで話し合ったの。特別よ」と答えた。
 二学期が終わったタイミングで、事務上の手続きでは葉佩は天香學園の生徒ではなくなった。だから葉佩はたとえ成績が申し分なかったとしても、天香學園を卒業できない。だが、卒業式当日にへらへら校門をくぐった彼には、雛川手製の卒業証書が贈られた。国語教師のきれいな字で、卒業証書、とあった。

「卒業証書。葉佩九龍殿。……あなたは、所定の課程で優秀な成績を残したことを証する。……平成十七年、三月。雛川亜柚子」

 私的に作った卒業証書だから、学校の名前を書けない。天香學園の角印が押されるはずの箇所には、彼が在籍していた三ヶ月を担当した教諭全員の三文判が寄せ書きのように捺されていた。それを学友たちが眺めている。墨木や肥後、八千穂などは熱心に拍手をし、皆守は離れたところから両手をポケットに突っ込んだまま見ていた。

 葉佩の服装はどうにか埃と泥だけは落としてきましたといったところで、もう天香の制服を着ていない。左胸に造花もついていないのだが、彼はほかの生徒たちに当たり前のように混じった。
 雛川から手製の証書を受け取る周りで八千穂がはしゃぎまわって、何枚も写真を撮っている。雛川と葉佩は動きを止めてくれているのだから、何枚撮ったところで画は同じだろうに、飽きもしない。終いには手足の長い取手にカメラマンを押しつけて、あれこれとポーズをとっている。取手も慌てて携帯をかまえたり、顔を彼らに寄せて一緒に撮ったりしていたが、追い立てられているような焦燥はないように見えた。
 やがて、同じ姿勢で固まっているのが苦しくなって、しまいに雛川がくすくす笑いながら背中を伸ばした。

 その生徒の波のあいだに神鳳の顔を見て、皆守は目を剥いた。あいつ、こういう集まりに顔を出すたちなのか。一緒に墓地に潜っていたのは知っていたが、数週間程度だろう。けれども、人と人の仲というものは期間によるものではないというのは身に染みて知っているので口を挟めない。

 中庭の大騒ぎを植木の下から眺めてぼんやりしていると、「あの」と横からびりびりするような声がした。皆守が視線を向けると、夷澤が渋い顔をしている。横に立っているのは知っていたが、話しかけられるとは思わなかった。

「卒業、おめでとうございます」

 渋い顔で、渋い声を出された。皆守はその補佐の顔をしばらく見つめてから答えた。

……言わされてる感すげェな」
「アンタが卒業できると思ってなかったんで、準備してなかったんすよ。単位足りたんですね」
「まあな」

 実のところ、本当に足りているのかどうかは知らないが、留年だとは言われなかったし卒業証書には皆守甲太郎と書いてあった。だいたいのやつが似たようなところだろう。

「アンタは、行かないんすか」
「あ? どこに」
「あれ」

 彼は葉佩を取り囲む騒ぎを指さした。皆守は鼻を鳴らす。

「転校生ごときにあんな大騒ぎすることないだろ」
「あっそ」

 葉佩のところへ行くのかと思いきや、夷澤は皆守の横に立ったままだった。そういえば、こいつも葉佩との付き合いは数週間程度だったはずだ。そのうえ、神鳳と違ってまだ二年だ。三年生がほとんどを占める波に入っていきにくいのかもしれない。
 しょうがねえな、と皆守は植木から離れて一歩進んだ。しかし一方の夷澤が動かないので、「おい」と声を掛ける。夷澤は眉を跳ね上げた。

「なんすか」
「なんすか、じゃねえよ。お前、行きたいんじゃないのか」
「は? 俺は分かってるアピールですか?」
「お前な」
「あ、来てくれたんだ」

 皆守と夷澤で言い合っているうちに、葉佩が八千穂たちと別れて、近くまで来ていた。さっきまでつんけんしていた夷澤が、ぐっと息を詰める。その様子を皆守は横から見て、おおと思った。人を見たらまず闘争心を燃やせとでも教えられているかのような下級生だったから、その炎が大人しくしているのを見るのが新鮮だった。それは『先輩』に対する尊敬や畏怖ではなく、『仲間』に対する信頼のように、皆守には見えた。

「仕事、終わったんですか」
「え? いやあ……終わったのかな? それらしいものが結局、どれなのかよくわかんなくてさ。検査結果待ちなんだよね。だからいまジリ貧」
「いや九龍さん、ここにいたときメチャクチャ稼いでたじゃないすか」
「もろもろ整備すると全部消えちゃうよね。うち、経費っていう考えが薄いんだ」
「あ、そうですか」

 あ、そうですかって何だよ。
 やけに殊勝な夷澤を面白く思っているうちに、葉佩は皆守のほうを向いた。正面から話すのは、屋上で年末に話をして以来だ。皆守の頭がさっとカーテンを下ろしたように冷静になる。感覚の全てが脳に直結した。
 葉佩はほがらかに笑う。笑うと柔和になって、身体にある鋭さが鞘に隠れたようになった。

「甲ちゃん、浪人なんだって? さっき聞いた。真里野もそうだって」
「あいつは意味が違うだろ」

 他愛もない話から始まったので、わずかに息をついた。
 葉佩がへらへら學園に入ってきたときも、皆守は遠くから眺めていた。二週間前にメールは交わしたが二、三往復程度で終わったので、会話をしたという実感はない。

 葉佩は片手に私的卒業証書を丸めて持ち、肩にボストンバッグを背負っていた。そのバッグのくたびれようから、旅程の厳しさが分かるというものだ。労ってやるかと口を開こうとしたら、向こうが先に話し出した。

「あのさ、悪いんだけど今夜泊めてくれない?」
「は?」

 一気に会話の舵がとれなくなった。

「さっき、雛川先生に男子寮に泊まっていいかって聞いたらさ、『先生は今の話を聞かなかったことにします』って言われた」
「それは……そうだろうな。でもなんで」
「ホテルとってもいいけど、みんな寮に帰るだろ? おれ一人だけ校門出て、トボトボ新宿の街を歩くの、さびしいと思わないか?」

 皆守は答えに詰まった。そびえたつ天香學園を後にして、街灯と車のヘッドライトがにぎやかな街を重い荷物を背負った葉佩が一人で歩いていくところを想像したら、頷かざるをえない。

「好きにしろよ」

 皆守が答えると、葉佩は笑って「ありがとう」と答える。きっと見つかったら葉佩は追い出されるのだが、こいつは男子寮のシステムを熟知しているのでまず見つからない。だいいち、もう卒業証書も受け取ったし引き継ぎもしたので、皆守は《生徒会》ではないから目くじらを立てる義理もなかった。

「時間ってのは……そのときでいいのか」

 皆守だけに送られたメールの文面の件と明らかにせずに、そう尋ねる。葉佩はああ、と気楽そうに答えた。分かった、と皆守は言う。
 気楽そうな声だとしても、内容まで気楽なものなのかどうかは、皆守には分からなかった。ここで聞くこともはばかられた。隣には夷澤がいたし、八千穂たちと離れたといっても彼女の声はここまで届いているような距離でしかない。

 その逡巡を、底抜けに元気な声が両断する。

「九チャーンッ! マミーズ席とれたってー! 幽花チャンが六席取ってくれたから、皆守クンも行こうよーッ」

 八千穂の声は大きいので、この中庭の端から端まで聞こえるのではないか。葉佩は負けず劣らずの声で「分かった!」と言い返してから皆守に、

「幽花チャンって呼んでるの?」

 と楽しそうな顔で尋ねた。俺に聞くなと思いつつも、尋ねられたら答えてしまう。

「そうらしい」
「へぇ、いいな。これ聞けただけでけっこう……くるものあるよ。甲ちゃんも行こうぜ。部活ある子はみんな午後からはそっちで、自由なのは昼までなんだってさ」
「あァ……そうかもな」

 葉佩はわずかな間、皆守の顔を眺めていたが、やがて笑顔を夷澤に向けた。

「凍也くんも来る? 舞草さんいるだろうし、ちょっとくらい席の都合つけてもらえるよ」
「ヤ……オレはいいっす」
「そう? 顔見られてよかったよ。元気そうだし。ま、これから三年だし、張り切って行けよ!」

 葉佩が夷澤の背筋の真ん中を勢いづけて叩いた。やつは力の込め方というのを知っているので、夷澤の背がぴんと伸びた。だが夷澤は体幹が大樹のようなので、それでもよろけすらしなかった。こらえきったあと、夷澤が葉佩に毛を逆立ててみせたのを、彼は声をたてて笑う。

 マミーズに来てからも、話を聞いた双樹や響たちが顔を出してひとつふたつ、話をした。朱堂は大騒ぎをし、椎名はひときわレースを重ねたスカーフを巻いて、トトはいくらかなめらかになった日本語で葉佩との再会を喜んだ。
 テーブルの端でぼんやり葉佩と他の誰かとの会話に口をはさみつつ、薄いドリンクバーのコーヒーをすすっていると、この一月から今までの三ヶ月に何も起きなかったような気がしてくる。でも、このあいだにあったことを思い出していけば、空白ではなかったと分かる。

 確かに過ぎた時間だ。夕薙の将来の話を聞き、黒塚の石講義を受け、誰もいない教室で雛川に進路相談をした。雛川は静かな声で、浪人が確定した教え子に、受験生としてこれから一年のあいだにすべきことを話した。本当なら九月からずっと、一日ごとのホームルームでクラス全員に伝えてきていたのだろう。皆守はそれを聞いてこなかった。雛川はそれを責めずに、「皆守君とこうして話ができて嬉しいわ」と言った。皆守は、雛川と話をして存外に悪くなかったと思った。

 温室で白岐と顔を合わせて、お互いに距離をはかりかねながら花を眺めたのは二月の寒い日だった。温室の透明な屋根に粉砂糖のように雪が降っていた。皆守は多肉植物のふくらみに細かく生えている産毛に、冬の光が散らされるのを見た。ゆっくり近づいてきた白岐は「奥に、ウコンがあるのよ。知っている?」と皆守に言った。皆守は、ウコンがあることを知らなかった。

 取手は三学期になっても何度か校舎に入っているらしかった。がらんとした教室を雛川と出たとき、階下からピアノの音がしていた。鍵盤を指で押し込み、ペダルを踏む動きの振動が、三階まで届いた。皆守には音楽の心得がない。取手の奏でる旋律に耳を澄ましたが、そこには彼の生真面目さと思いやり深さがあることしか分からなかった。ピアノの音は校舎のコンクリートの壁に染み、ガラスを細かにふるわせる。音の風が立つ。ピアノは、皆守が校舎を出るまでずっと聞こえていた。

 いま、このマミーズで隣に座る葉佩と過ごした時間は三ヶ月だった。
 葉佩がいなくなってから過ごした時間はもう二ヶ月になる。
 そうか俺は、おまえと過ごした時間の半分以上の時間を、もうおまえなしで過ごしてきたのだ。




「なんか久々に話したな」
「やつらもおまえを待ってたからな、まだ話し足りないってやつもいるだろうさ」
「はは。いいな、やっぱ、学校」

 皆守はその葉佩の言葉に、鼻で笑う。男子寮を、見つからないようにこそこそと入ってきているところだった。

「その学校を、俺らが卒業してきた当日だぜ」
「そういやそうだった」

 葉佩が笑い声を低くして、目立たないようにする。皆守は寮のドアを開けて、葉佩に向けて顎をしゃくった。先に入れ、という意図を正しく読み取って、彼はするっと滑り込んだ。後から皆守が追ったが、葉佩のバッグが大きいので玄関に入りきらない。

「荷物、そこに置いていいぞ」
「ありがとう」

 葉佩が脱いだ安全靴の横に、皆守は皺の寄った靴を脱いだ。鍵を閉めて、ため息をつきながら三年間の城の中に進む。葉佩は遠慮もなしにずかずか歩いて行って「なんだ、ぜんぜん片付いてない」と言った。

「引っ越し先も決めてないんだ」
「実家戻らないの?」
「どうするかな」

 皆守はコートを脱いで、ハンガーに掛ける。葉佩はダウンコートを脱いだところで、皆守がそれに片手を差し出せば、律儀に礼を言って差し出してきた。
 ダウンコートは羽と空気を含んでいて、皆守の腕の中で押しつぶされたとき、砂と火薬の香りがした。
 デスクチェアに座った葉佩は、背もたれに体重をかけて思いきり身体を反らした。

「あー、疲れた。セスナちっちゃくてさ、立っても頭ぶつかんないか心配でちょっとかがんじゃうんだよね。首いてー」
「そりゃ、ご苦労だったな」
「あ、」

 アロマパイプをくわえて火を付けた皆守を、さかさまから見た葉佩がぽかんと声を出した。

「何だよ、いきなり」
「いや、マミーズじゃ吸ってなかったなと思って」
……卒業式の後、直行だったからな。人混みになると分かってるところに煙草かと疑われる火気を持って行くのもどうかと思って、置いてきただけだ」
「そうか」

 その声がやわらかかったから、皆守は嘘をついておくんだったと思った。
 立っているのがだるくなって、ベッドに座る。花の香りが鼻を抜け、喉を通る。皆守は、味のない香りを噛む。味はなくても、うまいと思った。

 ベッドに座っていると、向かいのデスクチェアに座る葉佩のほうが、視線が高かった。その葉佩はもう姿勢を通常に戻していて、皆守のことを見ていた。そのまばたきが、皆守にははっきりと見える。

 静寂。

 まだ春というには早すぎて、虫も鳴いていない。いつも男子寮を騒がしくしている生徒たちの多くは、三年を送る部活動の集まりで寮の外に出ていて静かだ。じっとしていると、モルタルの壁がどっしりと構えているのを感じる。

……で?」

 先に耐えかねたのが皆守で、パイプをわずかに唇から離して一音だけそう言うと、またパイプをくわえた。葉佩は場を持たせるような笑い方をして、即答をしない。何か気まずいのか、と皆守は察した。

「時間くれって言ったのはお前のほうだぜ」

 言いよどむ葉佩は珍しかった。だから、橋渡しのつもりでそう言った。

「そうだよな。ごめん」
「謝るなよ」
「いや、うー……こう、ずっと考えてたことも本人を目の前にすると言いにくいよな」

 皆守はパイプを口から離した。言いにくいことを言わせるのは本意ではない。だが、じゃあ言わなくていいとも皆守からは言えないので、結局またアロマをふかした。
 葉佩は少しもぞもぞしてから、自分から話し出す。

「なんか、蒸し返すようで悪いんだけどさ」

 そう切り出されたので、皆守は緊急でありとあらゆる場合の覚悟を決めなければならなくなった。
 葉佩と自分とのあいだに起きたことのうち、蒸し返すようなことといえば思い当たることはひとつしかなく、そのひとつとなれば責任の所在は自分にあると思った。年末に屋上で会ったときに精算したつもりでいたが、葉佩が皆守と会わない間に考え直すことで意見が変わることもあるだろう。それを皆守は責められないし、止めることもできない。
 皆守が覚悟を決めきる顔をしたのを見て取って、葉佩は「違うって」と言った。

「そういう……甲ちゃんがいま考えてるようなことじゃないから!」
「びびらせんな。じゃあなんだよ」
……びびった?」
「そりゃ、そうだろ。言わせるなよ。お前のターンだろ今は」

 葉佩は目を細めて笑う。皆守はその顔から視線を外した。見てられない。
 その皆守の横顔に向けて、葉佩は言葉を続けた。口元は笑ったままであることが声から伝わるような話し方をした。

「それを、言ってほしいと思っただけだよ。だから実質、ここからは甲ちゃんのターンなんだよな」
「は? 何?」
「遺跡の地下……玄室で、おまえが言い損ねたことだよ」
「言い損ねたことなんてないだろ、かなり話した。聞きたいことがあればはっきり言えよ」
「『ありがとう。甲ちゃんがいてくれたからだ』」

 葉佩は何かをなぞるようにそう言った。
 皆守は息を詰めた。

 それは、十二月二十四日に聞いた。雪が降る夜だった。底冷えのする冷たい夜、學園の外では光が雪によって広がり、さぞまぶしかったことだろう。その日、皆守は雪の光とは別のものに瞳を灼かれていた。
 玄室には炎が焚いてあった。炎を背後に立つ葉佩は汗ばんで、遺跡の最奥を目の前にして快活だった。あのとき皆守はそれを見つめ、炎と一緒に覚悟を飲み込んだ。おめでとう、と言った皆守の声はどのように葉佩に響いたのか、皆守が尋ねたことはない。ただ、玄室に反響した自分の声は滑稽なほどねじれていた。そのよれた皆守の言葉に、葉佩は答えた。

――ありがとう。甲ちゃんがいてくれたからだ。

 皆守はこの日以来、何度かその記憶をなぞった。だから、自分の爪の跡が記憶に残っている。いま繰り返された葉佩の声で、自分の記憶もなぞられたような錯覚をした。
 俺は、そのあとに続くものを知っている。

――ありがとう。甲ちゃんがいてくれたからだ。……

「『愛してるよ』って、おれが言ったあと」
……あれ、聞こえてたのか」
「聞こえるよ、反響するから」

 それもそうか、と皆守は小さい声で言った。

 十二月二十四日の夜に、玄室にたどりついた葉佩が浮かれ調子でそんなあけっぴろげなことを言うから、皆守も口からこぼれた。

 人と向き合うとき、皆守はいつも相手を傷つける覚悟をする。この世にまったく傷つかない関係なんてない。どんなに仲の良い親子だって互いを傷つけることはあるし、世界中が祝福する恋人も傷つけ合う。人間と人間が同じ場所に立つとき、いさかいはつきものだ。
 だから皆守は、いつも覚悟をしている。傷つける覚悟と、傷つけられる覚悟と、その両方。でも、あの玄室に立っていた皆守は失う覚悟もしていた。傷つけるだけで済まないと分かっていて、何度も思考を行き来させながら覚悟していた。覚悟しすぎていて、張り詰めすぎていたから、こぼれてしまった。力をこめすぎたから、小さな穴から粒が落ちた。

 皆守はあのとき、俺も、と返した。
 俺も、お前の事が、

 届けるつもりの台詞ではなかったし、届かなくてもよかった。それはそういうたぐいの言葉だった。だが確かに、最後までは言わなかった。
 皆守はため息をついて、ラベンダーの香りを細く吐き出した。

「別に、言い損ねたわけじゃない」
「ごめん、今、言わせたいとかじゃなくて」
「なんだ、はっきり言ってくれ」

 皆守が届かなくてもいいと捨て置いていたものを拾ってこられて、改めて直面させられているというのは身の置き所に困る。まるで八つ当たりみたいなことを言っているのに、口ぶりを強くできなかった。
 確かにこれは蒸し返されているな、と皆守は思った。三ヶ月越しに自分の発言の揚げ足をとられているようなものだ。皆守の頭の中でいくつか葉佩が言いそうな候補を考えようとしたが、何も思い浮かばない。

「いいんだ、言わなくても。そうじゃなくて、考えておいてほしい。甲ちゃんのターンだ」

 葉佩はそう言った。

「何を」
「そう急ぐなよ。……甲太郎は、あのとき切羽詰まっていたんだろうな、と思ったんだよ。自分が育てて懐いた豚は殺せない、でも殺さないと夕食がない、その担当は自分」
「豚ってお前」
「構造は似てる。だからおまえはさ」

 葉佩はそれに続くことを言わなかった。言わなくても分かったので、皆守は「あァ」とだけ言った。うん、と葉佩は繋いだ。

「きっと、おれにつられただけだ。切羽詰まってるところをおれが突っついちゃったから、ちょっと言っちゃっただけなんだよなって思うことにした」

 皆守は黙って先をうながした。かすかすした紙の匂いしか吐き出さなくなったカートリッジを抜き出し、ごみ箱に投げた。葉佩の大きなボストンバッグの横にあるごみ箱に、ちょうど入る。葉佩の鞄は重たげで、一見するとただの旅行者のようだった。
 うん、と葉佩はまた言って、続きを話した。

「だから、その続きをもう一度考えてほしいと思って。切羽詰まってないときに、考えといて。そんで、分かったら教えて」
「さっき言わなくていいっつったろ」
「今はいい。でも教えて。そうしたら、おれももう一度言う」
「なんでだよ」
「なんででもッ」
……考えとく」

 そうしてくれ、と言われた。

 この話題にこれ以上の言葉を、ふたりとも持たなかった。葉佩が窓を開けると、三月初めのまだ冷たい風が吹き込んだ。乾いてはいるが、春雨の湿り気を予感させた。

「さみ」

 皆守が呟くと、葉佩は笑って開けた窓を細くした。

「この部屋、変わんないな」
「まあな、数ヶ月しか経ってないし」
「きっとさ、来月この部屋に入った新入生、なんかいい香りするなって思うだろうな」
「家具は備え付けだからな……でも、清掃が入るだろ」
「家具も壁紙も全部総取り替えくらいしないとムリだよこんなん。風入れたって消えないんだし」

 皆守は納得しない声をあげたが、葉佩はまったくかまわないふうだった。「こういうの、ヒナ先生に習ったよな」と言ってけらけら笑う。今まで話していたことは彼らのあいだに残っているのに、表面的には見えなくなったかのようだった。
 皆守もいつものような口調で言い返した。

「習ったァ?」
「そうそう。なんだっけ……ひな祭りみたいな」

 それは雛川の名前に引っ張られているんじゃないのか。
 もう慣れてしまった鼻でラベンダーの名残を探しつつそう考えた皆守を取り残して、葉佩は高らかに「アッ」と言った。

「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家!」
……そんな意味だったか?」




 翌朝、皆守が目をさますと隣に葉佩が寝ていた。並んで寝こけることは去年のうちにもあったことだが、葉佩より早くに起きたのは初めてだった。皆守は寝穢かったし、葉佩は寝起きがよかった。それが今日は反対だった。

 カーテンは閉まっていたが、朝の日が差し込んでいる。机に投げ出したままの卒業証書の筒に光が差し込んで、凹凸がはっきりと見えた。それを横目に、まぶたを閉じた。微睡みが迫ってくる。同じ布団を分け合った片割れとのあいだにある空間が、二人の体温でぬくくなって皆守の両手足にまきついて眠りに誘う。まだ寝ていてかまわない。明日も明後日も、授業はないのだ。皆守はもう牢獄に捕らわれるだけの人間ではなくなった。

 まぶたが粘っこい眠りに追いつかれたとき、隣の気配が動いた。眠気が潮のように引いていった。薄く目を開くと、葉佩がうとうと皆守を見ていた。朝の薄明かりが、葉佩の髪を明るくしている。窓のがわに葉佩が横たわっていた。だから逆光の影と朝日の光が混じり合うところがフラッシュのようにまぶしい。

「起きる?」

 ねぼけ声で聞かれた。

「俺はまだ寝る。き、」

 九、と言おうとして、喉に引っかかった。呼ぶ相手がいなかったあいだ、その呼び名をずっとこねくりまわしていたせいで、喉をうまく通らない。

……今日は……寝られるだけ寝ると決めてるんだ」
「はらへった」
「寝ればひとまず、空腹を忘れられるぞ」
「そんなのいやだ……まやかしだ……

 うわごとのように言う葉佩に皆守は笑った。

「土産を忘れてきたやつがよく言うぜ」
「それは、謝っただろ……きのう、マミーズで……メチャクチャ……
「パンならある」
「それ甲ちゃんのだろ」
……九龍のぶんも買ってある。ふたつある」
「エッ、マジッ」

 葉佩が勢いよく起きたので、布団がめくれた。「さみ」と声が出た。
 皆守が買ってきた食べ物を置いておく場所は決まっている。バタバタとベッドから出て行く葉佩の足音を聞きながら、皆守は目を閉じた。遠くから葉佩が「うおっこのラベル、売店のだ」と言っている。そうだ、と答える声は布団の中に消えた。

 あいつは、いま俺が九龍と呼んだことに気づいただろうな、と思った。