青果
2022-05-30 23:17:17
20070文字
Public
 

燃え尽きないから【サンプル】

『燃え尽きないから』九龍妖魔學園紀:皆守と葉佩 / 文庫 / 全年齢 / 140ページ / 850円(通頒)
左右を決する描写・示唆する表現はありません。

6/4 黄昏刻に龍ぞ棲む3 新宿: き1 『彷徨書房』にて初回頒布としました。
前半のサンプルです。
頒布ページ:https://pictspace.net/prim_caca

・皆守と葉佩の愛と時間の話
・玄室の「おめでとう」後、【愛】選択時の皆守の返答をどうかもう一度言ってほしい、という本

・サンプルは読みやすいように改行がありますが、本では詰まっています
・OOAアートブック世界線
・皆守とは愛情値優位、Aスキル・Pスキルマックスを想定


---------------------------------------------------------------------

優しいままでいたい

 二〇一〇 春


 《宝探し屋》から逃げてきたら、《宝探し屋》がいた。

 所属する研究室を出ようとすると素っ頓狂な声で「えッ、皆守くん帰るの」と言われたので、立ち止まったのだった。何事かと思えば、

「これからテレビで映画やるよ。観てこうよ」

 と誘われた。皆守は修士一年になりたてほやほやで、向こうは博士二年だった。これでも皆守は立場を意識できるようになったから、すぐに突っぱねることができない。うちの大学が会場になるシンポジウムが済んだし切羽詰まっているメンバーがいないので、この春真っ盛りの平日夜、研究室はなんとなくのんびりしている。共用のスペースに広げられた菓子や缶ジュースで、その印象は際立った。

 研究室のテレビはアナログ放送だが、なぜか線がひいてあって映る。メンバーでそれを囲もうという腹らしい。少しでも考慮に入れたというポーズのために、

「映画って、何やるんですか」

 と聞いてみたところ、皆守が決して観たくないタイトルだったのであれこれ理由をつけて逃げてきた。皆守はあの職業の人間がピンチやハプニングを起こす映像を一秒だって観たくないのだ。どんなに名作であろうと、どんなに映像が楽しげだろうと、絶対にごめんである。本当の冷や汗が出るからだ。

 皆守はため息をつきながらアパートの階段をぐるりと上って、鍵を取り出し、自分の部屋のドアを開けたところでやつがいるのを知った。玄関にひと揃い、どうやって汚れたのかもはや分からない染みのある靴があった。この靴は安全靴でつま先に芯が入っているから、これを履いたやつに蹴られるとかなり痛い。

「あ、おかえり」

 声を掛けられて、顔をあげたらここまでその靴を履いてきた男と目が合った。帰ってくると言っていたので驚きはなかったが、真正面からこの目とぶつかると、皆守はわずかに調子が崩れる。

 背丈は日本人成人男性平均値より数センチ高い程度だが、鋼みたいな身体をしている。後ろ姿だけを見ると強靱な日本刀のような気配があるのだったが、顔つきが柔和なので正面から向き合う限りは怯むこともない。むしろ、よく笑うのでとっつきやすいし、人当たりもいい。少なくとも、皆守の前ではそういう男だった。
「おう、早かったな」と皆守は答えた。一寸の動揺もにじませなかった自信がある。

 やつは玄関から続く廊下にへばりつくように設えてあるキッチンに立っていて、何かをぐつぐつやっていた。カレーの香りではないので、なにやってるんだと横から片手鍋を覗き込む。
 あたたかなトマトの香りが湯気とともに漂っている。ひよこ豆や肉の塊がぽこぽこと煮え立ち、皆守の横に立つ男の手でかき混ぜられた。

「ミネストローネ?」
「いや、違う。……と思う」
「思うってなんだ」
「知らないんだよな、料理名。トルコの家庭料理。作ってもらったんだよ、現地のご家族に。旨かった」

 日本に帰ってきたばかりのこの男は、こんなふうな話し方をする。英語ベースでしばらく暮らしていたので、日本語の語順に頭が戻らないらしい。先に動詞を言って、そのあとに目的語や修飾語を追加する。意図が伝わらないことはないし、皆守もしっかり考えてものを口にするわけではないので問題はなくコミュニケーションは進む。数日、会話していれば日本語の語順になる。

「トルコ行ってたのか」
「うん。世界三大料理っていうだろ、すげえ旨いよ。これ、サルチャっていうトマトペースト使ってんだけど、自家製のをもらってきたんだ、ひと瓶。市販のもあるらしいけど、ヒマなくてさ。店覗けなくて。ほんとおかしいよな、一般の旅客機乗るわけじゃなし、時間の融通ちょっとは効かせてほしいもんだよ」

 皆守は適当な相槌をうって、上着を脱いでハンガーに引っ掛けた。シンクの前を空けてくれたので、そこで手を洗う。洗面所に行ったのでは、会話が途切れる。

 単身者用のワンルームは、キッチンが驚くほど狭い。皆守としてはもう少し余裕がほしかったところなのだが、大学への交通やら周囲の施設やら最寄り駅前の充実やらを加味した結果、この物件になってしまった。ほかの候補があれば、いまにでも引っ越したいと思っている。
 その猫の額よりも狭い、ねずみの爪のようなスペースに、ガラス瓶詰めのトマトペーストがあった。見た目には、色鮮やかなふつうのペーストである。

 皆守がそれを視界にいれたのを感じとって、彼が話を続けた。

「向こうじゃ、いっぱい作るらしい。トマトがいっぱいある夏の季節にまとめて」
「へえ」
「発酵させてあんだよ、ちょっとだけね」
「保存食だな」
「そうそう」
「味噌みたいなもんか」

 するすると会話が続くから、キッチンから離れられない。とはいってもすることがないので、皆守は細いスペースにキュッと押し込まれた食器棚から、深皿を出してきてガス台の横に置いた。嘆かわしいことに、ここのキッチンはこの二皿でスペースは終わりだ。もう豆皿一枚くらいしか入らない。

「あ、ありがとう」
「飯を作らせてるからな。ところで、それはどうやって食うんだ。米の冷凍は二人分あるか怪しいんだが」
「パン買った! そっちに投げたかも。駅前のパン屋の袋の中」

 そう言いながら彼はリビング兼ベッドルーム兼仕事部屋のワンルームを指さし、同時に火を止めた。移動しようとする肩を押しとどめて、皆守が部屋に入る。角に押しやられたボストンバッグの横に、見慣れたロゴの袋があった。中を見るとドーム型の大きなパンがスライスになっているものがひとつ、菓子パンがひとつ、揚げたパン粉のついたパンがふたつある。いま食べようとしているのは、ドーム型のパンだろう。皆守はこのパンの名前を知らなかった。売られているのは見たことがあるが、なんだかこじゃれたやつだなと思ったので買ったことがない。揚げられているのは、状況から考えてカレーパンだろう。
 こいつが俺の家に来るのにこういう形状のパンを持ってきといて、カレーパンではなくて別の惣菜パンでしたとなったら俺はひっくり返るぜ、などと思う。

「おい、これは焼いたらいいのか」
「トースターで一、二分かな、トースターあったよね?」
「ある。二枚ずつでいいか。四枚焼くと半分くらい減るぞ」
「いいよ。このために買った」

 買った本人がいいというなら、とパンの個包装を開いて、容赦なく半分ほどのパンを引き出した。スペース削減のために冷蔵庫の上に載せられたトースターを開けると、すでに何かが入っている。アルミホイルを皿代わりにして、パイの形状をしたものがふたつ、ほかほかになっていた。

「あッ、入れっぱなしだ」

 皆守が何かを言う前にやつがすっ飛んできて、中に入っていたものを引き出した。その動きにしたがって、甘い香りがする。

「これすごく甘いから、ご飯と一緒に食べよう」
「おう」

 皆守が尋ねるより先に、これはバクラヴァっていって、と説明を始めた。パンが焼ける数分間、その講義を聞く。空腹なので、眠たくならずに済んだ。もしこれが食事をしたあとだったら、皆守は何か眠気覚ましになるようなものを食べるなり飲むなりしなければならない。

「ごめん、おればっか話しちゃった。甲ちゃん、最近どうだった?」

 話をふられて、皆守は短く息を吸った。そう呼ばれると、皆守はいつも心が滲むような思いがする。

……いや? ごく普通のラボ生活だよ、九龍」

 答えた皆守の言葉の直後に、トースターが音をたてた。開くと、パンがぱりぱりになっていて小麦の香りがした。

「甲ちゃんにとっては普通でもさ、おれにとっては普通じゃないからなあ」

 そう応じた葉佩九龍という名前の男は、小さなキッチンの小さな換気扇をつけたままにして、器を両手に持つ。そして部屋に入っていく。彼の背中を眺めながら、皆守はでかくなったなと思った。でかいというのは印象のことだ。こいつと顔を合わせるとほっとするし、雑談を交わしていると安堵する。

 でも皆守は、かつてのこの男を呼んでいた言い方を口にできない。何かが、皆守を押しとどめる。口を何かに押さえつけられたままで、もう五年が経つ。何も忘れていないまま、全てがここにあるのに、皆守の口は制されたままだった。制しているのは自分だと分かっている。自分が自分を押しとどめているのだ。まだ、何のてらいもなく過去の呼び方で彼を呼べるほど、皆守は開き直れない。どうしていいのか分からなくなるからだ。

 平皿に並べたパンを運んでいきながら、皆守は床に直に座る男の肩を眺めた。その肩と横顔、心と言葉は、もう皆守にとっては隣にいなくても脳裏に思い浮かべることができた。でも、目の前にいるとそのすべてがまがい物だったように感じる。

 本当に、でかい男になっちまった。



 二〇〇四 秋


 高校三年の二学期、担任が替わった。一般的には受験生の学年だというのに、よくそんなことがまかり通るもんだと皆守は思った。だが、始業式は出席せずに寮で寝ていたはずなので、いつそれを知ったのだったか思い出せない。阿門に聞いたのだったか、教室に出てきたら担任の顔が変わっていてそこで知ったのだったか、それともマミーズで小耳に挟んだのだったか、どれだか忘れた。

 むしろ、まだ転校したての葉佩が「この時期の新任なんて珍しいね」などと言うので、そこで改めて認識したかもしれない。そのときの皆守は「お前だってそうだろ」と返したのではないだろうか。この記憶は、皆守の中でも鮮明な部類だった。ただ、これが新任の教師を認識した初回なのかどうかは判断に迷う。

「皆守君、ちょっといいかしら」

 十月の頭の土曜、たまたま最後のホームルームまで残っていたら、その雛川に呼び出された。この女教師は赴任してきた始めのころから、生徒の顔と名前を覚えていた。授業中、決して真面目にしているわけではない皆守に臆せず指名してくる。皆守にとっては一番めんどうな教師になってしまった。新任の女教師というだけで皆守のほうでは自分勝手にやわらかな忌避感があったのだが、向こうはそんなことを知らない。

「皆守クン、呼び出しだッ」

 後ろの席で八千穂が笑いの混じった声で言うのが聞こえた。隣の葉佩に言っているのだろうが、丸聞こえだ。
 皆守は悪態をつきたかったが、周囲に座る関係のない生徒を威圧したいわけではないから黙って立ち上がった。教壇のところまでぶらぶら行くと、新任は皆守にほほえんで、

「廊下で話しましょう」

 と言った。職員室まで連れて行かれないだけマシだと思ったので、皆守はまた黙って従う。

 廊下は、もうホームルームを終えた生徒たちの喧噪が響いてきていた。
 学校の教室というものは基本的に黒板が西向き、窓が南、廊下が北側にあるものだ。人間の多数が右利きなので、南から日が差せば手元が暗くならないということである。皆守はその多数派から外れているのでその恩恵にあずかったことは一度もない。あたたかな日差しにうつらうつらできるのが唯一の利点だという以外、いいところがなかった。
 北にある廊下は夏の終わりが近づいた、秋の乾いた風が停留していた。学校で嗅ぐ乾いた風は、皆守を閉塞感に追い込む。

 雛川はその廊下の端まで皆守を先導してきて、小さな声で皆守に言った。

「中間テスト前にごめんなさいね。あのね、センター試験のことなんだけど」

 話の行く先が見えたので、皆守はもう帰ってもいいだろうか、と思った。

「ホームルームでも言ったけれど、申込期限が明後日です。皆守君、まだ提出してないでしょう。私立しか受けないとしても、センターは受験しておいて損はないと思うのよ。結果がよかったら、センター利用入試に出願したらいいし……どうかしら、と思って」
……考えときます」

 皆守の返答に、雛川は眉尻を下げただけでそれ以上、けしかけるようなことを言わなかった。放っておいてくれ、という皆守の祈りが通じたかのようだったが、実際に雛川の困った顔を見ると嫌になった。だが、それを晴らしてやろうという気にはならない。
 雛川は出席簿を抱えたまま、頬に指先をあてて考え込むふうにした。

「そうね。皆守君が決めることよね。でも……もし、その、嫌になったら、当日行かなければいいだけだから。受験料は返ってこないけど、申し込みだけでも考えておいてくれないかしら」

 嫌になったら、という言い方が、雛川が皆守の目線で考えた言葉だという感じがした。それはきっと彼女なりの歩み寄りで、彼女の思う理想の教師像なのだろうと皆守は感じ取った。だが、それはあいにく彼女の理想であり、このときの皆守の理想ではなかった。

「はい」

 とだけ、皆守は答えた。雛川の眉尻は下がったままだ。廊下に広く填められた窓ガラスに、皆守は視線を移した。今日はよく晴れていて、礼拝堂のドーム型の屋根が日光に輝く。それがまぶしく、皆守の目を刺した。

「じゃあ、皆守君。もし記入欄で分からないところがあったら、いつでも連絡してね」
「はい」

 皆守の言う「はい」は、葉佩や夕薙のそれよりも音が伸びていた。

「ええ……いい週末をね」

 雛川は語尾をぼやかしてそう言い残し、皆守の前を離れた。きっと、まだあれこれと伝えたいことがあったのだろう。皆守はそれを分かっていたが、教師相手にわざわざ促してやるようなことをしたくなかった。

 皆守はため息をついて、指にはさんだままだったパイプを唇の間に滑り込ませて火を灯した。オイルの甘い香りがかすかに漂ったが、それよりも強いラベンダーの香りを吸い込むとすべて上書きされる。香りに埋もれた。
 はい、と今しがたの皆守は言ったが、明後日になっても自分はセンター試験の申込書に記入しないと知っていた。

「終わった?」

 自分に話しかける声色だったから、皆守は声のしたほうに視線を動かした。転校してわずか二週間程度の同級生が、両手に鞄を持って立っていた。片方は、皆守の鞄だ。

「持ってきたのかよ」

 パイプを前歯で挟んで固定し、ジッポーをポケットに入れて両手を空けた。片手を葉佩に差し出すと、皆守の鞄を渡してくる。受け取った。教科書がろくに入っていないので軽い。

「九ちゃんももう帰るんだろ、寮まで行こうぜ」
「ああ、そのつもりで出てきた」

 そう言って葉佩が目元を緩ませた。皆守はそれを横目で眺め、なんだこいつはと思った。