takisaka
2017-06-26 20:15:20
2132文字
Public コンレボ
 

水の中の一粒の麦

コンレボ習作

麦は水の中でも育った

(「国境巡礼歌」)

◇◇◇

 日が沈みかけるゆうぐれを迎えると、この部屋の空気はどこか水の中のようだ。

 猫のように足音を忍ばせて、それでもノックは欠かさずにビル屋上の柴探偵事務所のドアを開けるのはもうすっかり、ここしばらくの習慣だ。ここの家主は彼を見ていやな顔をしても、まず問答無用で追い出されることはない――何度かの機会ののちすっかりそう飲み込んでからの人吉爾朗は、ますます我が物顔にこの事務所にのさばるようになった。まるで学校帰り、幼友達の家に遠慮なくあがりこむように。
 きちんと整頓された超人に関する資料やなんかもいつのまにかここの書棚に増えたもので、それらは彼が持ち込んだり、あるいはここの探偵が仕事につかうためにこまめに調べたり。わざとらしい皮肉やあてこすりを言い合ったり、たまに揉めて互いの手や足が出たりするのをのぞけば、屋根も壁も電気のコンセントもあるここは彼の知っている中でも存外と居心地のいい隠れ家と言ってよい。男は男で、また彼とは別の意見があるだろうが。
 ここしばらくの情勢でめっきり増えたメコンデルタに関する題名を目でなぞり、ファイルに綴じられた資料をぱらぱらと繰る。紙の感触が指の腹を擦り、光の加減で金色にも映るひとみがそれこそ猫の目のように動いて、頁の中の国とそこに暮らし、またそこを追われるひとびとの動きに思いを馳せる。――
 その同じ部屋で、男はいま、眠っている。
 そうして、おそらくはけっして自分に聞かせるつもりなどない苦しげな呻きを聞いてしまうのは、大体そんなときだった。彼は彼でこれまでもこれからも、けっして気づいてやる予定はない。

◇◇◇

 柴来人がきちんと人間のように休息を取っている姿を、はたして人吉爾朗は今まで幾度見ただろうか。

 無造作に断絶された生と死に跨る意識を、機械のからだを介して無遠慮に繋ぎ直されたこの男は、不用意に意識を失うことを、そして人に触れられることを、ときに怒りをまじえて激しく拒絶する――つまりどこかで、ひどく恐れているふしがある。そしてそのせいなのか、動力さえあればどこまでも動き続ける機械の性なのか、もしくは人間だった頃のひどく生真面目で職務に熱心な性格ゆえなのか、或いははその全部ででもあるのか。とにかくこの男は、きちんと休息を取るということが壊滅的にへたくそだ。自覚があるかどうかは知らないが。
 充電と休眠をかねたこのひとときでも、いまも寸足らずの棺桶のように長身をソファに収め、時折寒そうに肩を震わせている。或いは、その電子頭脳からの放熱がかれ自身にそう錯覚させているのかもしれない。皮肉なことに。人間としての人格と機械としての肉体、走り続けるほどにどこまでも相反してゆく矛盾を抱えて、かれが止まるすべもかれを止めるすべも、いまだどこにも見つからなかった。人吉爾朗は読みかけのファイルから手を離し、きゅっと唇を噛みしめる。

(いったい、俺はあんたを守れているのだろうか)
  
 遠い異国で撃ち放たれるために運ばれていく弾薬、熱っぽい抵抗の意志をこめて密造されていく爆弾、交差する陰謀論やこのめまぐるしく変化を続ける世界や人間や同じ超人たちからの弾劾や粛正、そうして何よりもかれ自身から、ちゃんとかれを守れているだろうか。
 それはあの地下で、くずおれる機械の体越しにその銃口から煙を吐いて呆然と立つ男を見て以来、こころの何処かでもの思うことではあった――それでもやはり昔のままの背中を見、その声を聞き、人吉爾朗は時々それを忘れ、そうしてこうして思い出しながら日々を過ごしているのだった。
 ソファの背に腰かけ、男を深くのぞき込む――その眼下でふと見開かれたまぶたの動きはそのとき、植物の微細な種が音もなく芽を出す映像フィルムに似ていた。くちびるがうっすらと開き、ことばをかたどって動いた。

 ――じろう

 名を、呼ばれた。

 そのときキリと音立てて動いたかれの義眼の硝子部分は、夕日に透明な琥珀いろに透けた。瞬間、自分の肩がそのひとことに、大げさに跳ねあがるのがわかった――そのこと自体に、思わずソファの背から落っこちかけるくらい動揺した。
 何の抑揚もなく口にされた平坦なひとことだった、その電子頭脳に蓄積されたメモリの残滓をクリアにするさなかの、つまり夢ともうつつともつかない意識で。
 つかず離れずベンチのかたわらに座り皮肉げな一言を吐く男、かれ自身にはもはやどこにも行き場のない幽霊のような男、そうして革命という病に伝染して空転する車輪のような道行を続ける男。
 その男の、うらぶれたよそおいに不似合いなほどにまっさらな白い手袋に押し隠された、人ならぬ鋼鉄の義手――それがうろりと、頼りなげに宙をさまよった。溺れるものの掴む藁のように、彼のマフラーに触れ、一度離し、もう一度。
 その手にそっと引かれるまま、首筋にかかる重力に、彼は逆らわなかった。いまこの一室にみちた黄昏どきの空気は、まるで水の中のようだ。冷却のうまくいかない頭脳からの廃熱が、それでもそれをそのくちびるの人間らしい体温と錯覚させて泣きたくなった。