takisaka
2017-03-11 23:59:59
3497文字
Public コンレボ
 

夢見る機械の黄昏

コンレボ習作

星かすみれか 真珠の玉か
乙女ごころの 夢のいろ
夢のいろ

(「湖畔の乙女」)

◇◇◇

 二月でした。

 わたしがその先輩のすがたを最初に目にしたのは。

 ――先輩、とわたしは思わず、呼んでいました。なぜともなく。彼女がわたしより年上であると、きっと無意識に感じていたのだと思います。

「こんにちは。三年の先輩ですか」
「あ。……こんにちは」

 出した声がすこしうわずってかすれていたことを、わたしはいまでも覚えています。
 扉の影からそっと声をかけられて、彼女はびっくりしたように振り向きました。振り向く動きに三つ編みの髪先がゆれ、首をかしげると睫の先が頬に夕映えが仄かに赤い影を落とします。地味で目立たない、けれど、きれいな先輩でした。つくりものの人形のように。

 こんな先輩、同じ部にいたでしょうか。

 そんな疑問も、ほんの些細なことです――なぜってそのころ我が校の先輩がたには、友人たちと示し合わせてお互いの部活を行き来するのが珍しくなかったので。
 N県の女学校、もう卒業まぢかの学年にはどこか浮ついた、そしてそれでも隠しきれない寂しさと、不思議とせいせいとした感じ――それらがないまざった空気をみんなが味わっていたのだと思います。わたしたち在校生たちのあいだでも学年の変わる前にと色紙や手紙の交換、授業中に回されるひみつのメモなんかが大流行でした。それから、こっそりと囁きかわされる誰かの好きなひと。根拠もない恋のおまじない。……
 冷えきった冬の科学室で、いつもは点火にてまどるストーブを点けるのを、先輩は手伝ってくれました――細い指が器用に鉄扉のあいだに火のついた反古を放り込み、鼻につんとくる石油のにおい。「ありがとうございます先輩。わたし、ぶきっちょで」「ううん。いいのよ。ー」
 試験も近く、それが終われば終業式、天文部の活動もそろそろ店じまい。やがて三々五々と集まりだした部員たちが盛り上がるのは試験の愚痴や、次の冬の星座の観察会の予定。それから、ヴァレンタインデー。
 そのあまり耳慣れない外国の催事は当時、百貨店のきらきらとした飾り付けとともに、わたしたちのような年頃の学生たちの目をたのしませたものです――ショウウインドウ越しの赤やピンクの包装紙、花のように結ばれた金色や焦げ茶のリボン。チョコレートの甘い匂いのするそれは、都会だけでなく、わたしたちの周囲でもちょっとした流行をみせ始めていました。

 達磨ストーブに乗せたやかんがしゅんしゅんと白い湯気を立て、寒さに凍えた手を火の前でうち返しうち返し、少女たちばかりが集まって飽きもせず繰り返すおしゃべり。わたしのとなりの椅子で、ちょこんとすわった先輩はひかえめにおとなしく頷いたり、あいづちを打ったり。ねえねえ、エンジェルなんとか? あの子たちの新曲いいよね。えっ、わたし、あまりそういうの、聞いたことがなくて……。そう? かっこいいのよ。

――言の葉の数ゆれるあわれ
  揺れるゆれる浮き世の風
  同じ運命とうなずいたら……

 他愛もないことで箸が転がるよりもすぐにきゃあきゃあと盛り上がる放課後の時間、誰かがそんな歌を口ずさんでいましたっけ。

「じゃあ、また」
「ばいばい、また明日。……

 チャイムとともに夕日の明るさがかき消えるにつれ少女たちの数は減り、自分も鞄を手にしようと振り返ったわたしは、教室に残った人影に気づきました。すぐにぎいぎいと軋む座り心地のよくない椅子にすわったまま、両手をそろえて行儀よく紺色のスカートの裾を押さえ、彼女はすこし、ぼうっとしていたようでした。

「先輩? みんな帰っちゃいましたよ、あっそうだ、いっしょに帰りませんか」

 わたしはそのときにはもう少なからず、この見慣れない少女のことを知りたいと思っていたのでしょう。口から出たのはそんなことばでした。

「ええと――じゃあ、途中まででよかったら」

 三つ編みからこぼれた髪の一筋をかきあげて片耳にかけ、そうするとすこしはにかんだ笑顔の片えくぼ、そこに夕日が照り返すのがよくわかる。

 先輩、おうちは遠いんですか? わたし、ここをまっすぐで駅の方角なんですけど。
 ……ええ、そう、ちょっと遠いの。だからあそこの角のポストを曲がって、そこまでご一緒してくれる?
 はい! ……ご卒業、さびしくなりますね。
 そうかしら、会おうと思ったら、きっとすぐよ、だいじょうぶ。

 ――帰る道々、どうしてかそのとき、彼女は微笑しているにも関わらず、ひどく遠くを見るようなひとみをしていたものです。どういうわけか。

……ね、先輩、先輩さえよかったら、またいっしょに帰りましょう?」

 ちょっとためらい、「ご卒業まででいいですから」と付け加える。そう、わたしたちが出会ったのは、そんな、ほんのひとまたたきの季節でした。先輩がこくっとうなずき、どこかものさびしい、それでもはしゃいだ気持ちがわたしの足取りをはねるように軽くさせました。

「わぁい! 先輩、……あ、先輩のお名前、まだ聞いてませんでしたね?」
「ふふ、そういえばそうね。――わたし、興梠美枝子」

 すこし風変わりで、きれいな名前。彼女にとてもよく似合っていると思ったものです。

◇◇◇

 それから、――それから?

 わたしたちはときどき、そうやって一緒に帰り道を歩きました。不思議なことに彼女のうしろに思い出すのは、いつもゆうぐれどきの空。いいえ、不思議ではないのかもしれません。なぜってわたしは、昼の空あかるい学校のどの教室、どの廊下、どの講堂にも彼女の姿を見た記憶がないのです。
 風は冷たく、冬枯れの街路樹が天にのばす手のように枝を震わせ、そうしてわたしたちは他愛ない会話を、飽きもせず。

「そういえば先輩、先輩はヴァレンタインデーにだれかにあげたりするんですか」
「!」

 ぽっと頬をそめて、あわてて首を振るしぐさ。ぴょんと三つ編みの先がゆれ、片耳にはねたひとすじの髪をかける。それは彼女――興梠さん、美枝子先輩のくせのようでした。

「あはは、そんなに照れなくても――でも、ロマンチックですよね、このあいだ封切りされた映画でも、運命の恋!とか。――

 こくっとうなずき、「……でも、そんなにいいものかしら、運命って」と、彼女は言うのです。うぶに頬をそめた少女らしい顔からすっと表情が抜けおち、目をまっすぐに見開いて、どこか遠くをみつめながら。

「運命って、たったひとつしかないの。ほかにはなにもないの。だから進んでいくだけ、だってなにもわからないのだもの」

 彼女が口にする、それは言葉だけなら、きっと恋というものに近いのでしょう。けれどそれははたして、世に言う恋と、まったく同じものなのでしょうか――その声は切々とした、ありとあらゆるものへの不可解に満ちていました。その表情は、自分の本能というコンパスだけを信じて嵐のなかを飛ぶ渡り鳥のようでもありました。

◇◇◇

 ……ほどなく、卒業さえ待たずに、彼女はふっつりと姿を消しました。

 神化42年二月、爆弾魔の事件が相次ぎ、ちょうど羽田空港で爆弾事件が起きた、あのころです――いつからか誰ともしれず女学生たちのなかに紛れ込み、誰もが誰かの友達だと思って何の追求もしなかった少女は、姿を消したときはじめて人の口の端にのぼりました。犯罪に(そう、爆弾事件のような)に巻き込まれたのだとか、不良だったのだとか、家出をしたのだとか、あるいは、ほんとうは何年前かに死んだ幽霊だったのだとか。学生たちのあいだではさまざまな噂が流れ、ほんの少しだけ耳を騒がせ、消えていきました。

 でもわたしは、きっとあのときの――はじめて見たときの彼女のすがたを、だれかに語ることはないのです。

 二月。

 窓から光線が斜めに射し込み、規則正しく立ち並ぶ机に長い影を落とすゆうぐれ。白いカーテンのつくる襞の、なまめかしい陰影。埃と薬品のにおい。ごく小声で戦争の時代の歌をうたうくちびると、めくり上げられた紺色のセーラー服、その裾からのぞく、鋼とばら色に輝く人工物の造形をした背中。そうして、そこに繋がれたケーブルから聞こえる、かすかな唸り。
 思い出すたびに何度でも息を止めて、あのときのセーラー服の少女に立ち戻り、わたしは見守る。黄昏の教室にみっしりと詰まった、甘やかなゼリーのような濃密な空気。これはわたしの、わたしだけの、名前もない秘密なのでした。