ナガレ
2023-07-31 20:45:16
21883文字
Public
 

daybreak(ぶぜまつ)※サンプル

2023/12/17 Dozen Rose Fes .2023「Be with Me!!」で頒布予定の小説本のサンプル(冒頭~中盤あたり)。べったーにも掲載せている「豊前と松井と血の話」に決着をつけたくて書きました。1ページ目はべったー掲載分に加筆修正をしたものです。捏造設定、ご都合展開あり。誤字脱字等は大目に見てもらえるとありがたいです……。エンターテイメントとして雰囲気を楽しんでいただければ。


【二】
 某月某日。豊前と松井は揃って第二部隊の編成に入っていた。
 この本丸では第一部隊が今まさに時代遡行軍が押し寄せて来ている最前線の戦場に出陣し、第二部隊は時間遡行軍に再び狙われる可能性が非常に高い戦場への出陣を、見回りも兼ねて担っている。
 豊前は部隊の人員を確認すると、次に出陣先を確認した。普段は軽騎兵を引き連れて戦場を縦横無尽に疾風の如く駆け回る事を好んでいるが、今日は投石兵を連れて行くのが良さそうだ。
「豊前と同じ部隊で出るのは久しぶりだね。よろしく」
「あぁ。俺の早さ、見せてやんよ」
 豊前の台詞に松井はくすりと笑い、期待していると返した。その裏にあるのは、一番首は譲るけれども大将首は譲らないという強い意志。血が流れる事を好まない松井だが、根は戦国の世を生きてきた刀だ。戦場に出る以上は武勲を立てたかった。
「念のため、飲んでおく?」
 周囲に誰もいない事を確認すると、松井は袖留めを外してシャツの袖を捲り、豊前に手首を見せた。そこには昨晩作ったばかりの真新しい真一文字の切り傷が残っていた。
 松井は豊前の不具合を知っている。体が薬を受け付けてくれない事も、冷蔵庫の野菜室の奥に隠れている飲料ではどうにもならない事も。今はまだ昨夜口にしたものが体内に残っているからいいけれど、もし戦闘の最中に喉の渇きを覚えてしまったら。支障が出る事は間違いない。松井はそれを危惧していた。
 まだ昨日の傷は塞がっていないから、少し引っ張ればすぐに開く。そこから滲みでたものをほんの一舐めか二舐め、できれば一口分飲んでおけば十分だろう。ほら、と松井は腕の内側を豊前に向けた。
 白い松井の腕に走る青紫色の血管。豊前はそれを一瞥すると、松井の捲り上げたシャツの袖を戻した。もちろん、外した袖留めも元に戻した。
……でーじょうぶ。心配すんな」
 突如としてこの身に起きた不具合。松井の血は自分にとって必要なものだけれど、本当はこんな事で松井に傷をつけたくなかった。喉が渇いたと思うよりも先に終わらせてやるから大丈夫だと、豊前は松井の背をぽんと叩いた。
 ……そうだ。誰よりも早く駆け抜けて、誰よりも多く敵の首を取ってしまえばいい。まだ何か物言いたげな松井をその場に残し、豊前は出陣の準備のために部屋に戻った。

 向かった先の戦場では、しとしとと小雨が降っていた。降り続ける雨で足元は泥地になっており、軽騎兵を連れてこなくて正解だった。この泥濘では馬が泥に足を取られてしまい、強みを発揮できない。豊前は投石兵による遠戦を交えながら、泥を飛ばして戦場を駆けていた。
 雨で視界が悪い。投石兵の投げた石の当たった音だけが頼りだ。耳を澄まして敵を探し、一刀で切り捨てる。水分を含んだ戦闘衣装は重く、体の自由を奪っていった。返り血を洗い流してくれるのはありがたいけれど、髪から垂れる水滴は邪魔だった。
……くそっ」
 こうやって前髪を掻き上げるのも何度目だろうか。わずらわしさに思わず悪態をついてしまう。
(ちっと、相手が悪かったか……
 今、豊前の目の前にいるのは大太刀だ。投石兵の投げた石が急所を掠めて戦力を削ったとはいえ、やはり刀種の差は大きい。救いは軽くて小回りの利くこちらがこの足場では有利だという事だろうか。豊前は愛刀の柄を握り直した。
 狙うは投石の削った急所一点のみ。そこに会心の一撃をたたき込む。それが豊前の導き出した勝ち筋だった。
「いくぞ!」
 己を鼓舞し、敵の巨体に向かって突撃する。雨の中の一閃。豊前の目論見はうまくいった。だがしかし、足元は滑る泥だ。泥に足を取られた豊前に、ぐらりと倒れ込んでくる敵の巨体を躱す術は無かった。
――豊前!」
 それは端から見れば相打ちにしか見えなかった。松井の視界の端に映ったものは、倒れ込む敵大太刀とそれに巻き込まれる雨に濡れた赤色の袖標だった。松井は豊前に慌てて近寄った。じわりと滲み出た赤い何かが、泥濘んだ大地を染めていた。
 ――これは血だ。
 豊前の血が流れた事を許してなるものか。松井の視界がじわりと赤く、黒く染まっていく。豊前を傷つけた奴はおそらくこの敵大太刀。でもあれはすでに事切れている。松井は周囲を牽制するように切っ先を向け、ぐるりと睥睨した。眼前にちらつく百の敵、千の敵、万の敵。そんなもの、片っ端から斬り伏せてしまえ。考える必要なんてない。松井の靴の踵が泥の大地を蹴った。
 瞬き一つせず、松井は目についた敵を片っ端から撫で斬りにしていった。敵に短刀や脇差が見当たらない事も松井に味方をした。悪天候や夜の戦は機動力が物を言う。刀種による単純な力比べでは勝てなくても、機先を制する事ができれば十分に渡り合えた。
 目の前の敵を一体、一体、また一体。斬っても斬ってもまだ足りなくて、松井は焦燥感に駆られた。どれだけ敵を屠っても、豊前に血を流させてしまった事に対する償いにはなっていない。血を流すのは敵と僕の役目なのに。気持ちばかりが先走り、松井は冷静な判断ができていなかった。
 気づけば松井の周りには事切れた器が転がっているだけだった。それでも松井はまだ足りないと、とうに絶命した哀れな骸を執拗に攻撃していた。
……まだだ。まだ……!」
「松井」
 突然後ろから強く肩を掴まれ、松井は我に返った。黒く染まっていた視界がぱっと明るさを取り戻す。忘我の松井を引き戻したのは豊前だった。
「折れてねーっちゃ。勝手に殺すな」
 若干貧血気味ではあるが、豊前はしっかりと己の両の足で立っていた。戦闘衣装がところどころ擦り切れたりはしているが、豊前自身は軽傷だった。
 会心の一撃を打ち込んだあの時、泥に足を取られた豊前は体勢を崩した。たたらを踏んで持ちこたえるはずだったのだが、まさか倒した敵がこちら側に倒れ込んでくるとは思わなかった。
 まずいと思ったが避けきれず、屠った敵の下敷きになり地面に転がっていた石の角で額と上瞼を切った。小さな裂傷でも派手に血の流れる場所だ。しかも頭を打ってしまい、豊前はその痛みで声が出なかった。その上、倒れてきた敵大太刀の体はそれなりに重たくて、すぐには動けなかった。
 そんなこんなが積み上がった結果、何も知らない松井からは豊前が血を流して倒れているようにしか見えなかったというわけである。
「帰るぞ」
「うん……
 掴んだ肩をぐっと引き寄せ、豊前は松井の肩を抱いた。その力強さはいつもと何一つ変わらなくて、見た目程ひどくない豊前の容態に松井は安堵した。ほっと息をついて、豊前の血が流れなくてよかったと呟く松井。その呟きが聞こえた豊前は苦い顔をした。
 たった一振りで周囲の敵を殲滅させた松井だが、さすがに無傷で終わらせる事はできなかった。負った傷は豊前よりも多くて深い。松井は味方の血が流れる状況を良しとしない。豊前もそれは知っているし、流れずにすむのならそれに越した事はない。
 しかし松井は己の血が流れる状況を是と考える。でも豊前はそう思わない。未だに埋まらない二振りの認識の溝だった。
「帰って手入れを受けたら、ひとっ風呂浴びてさっぱりしよーぜ」
「そうだね。うん。それがいい」
 本丸に戻る事には宵の口だろう。湯を浴びて、夕飯を食べて。そしてその後、松井は何も言わずに腕をこちらに差し出してくるのだ。豊前が明日の朝日を浴びて生きられるように。口にしないだけで、きっと松井は気づいている。今、豊前が渇きを覚えていると。
……ままならねーもんだな」
 豊前の独り言が耳に届いたのか、松井がどうかしたかと聞いてきた。……別にどうもしていない。松井に変な気を遣われたくない豊前はその問い掛けに答えず、無言で松井の前を歩いた。
 ――松井の流した血に酔ってしまったのか、ひどく喉が渇く。この身に起きた不具合は、のっぴきならないところまで進んでいるのかもしれない。背中に刺さる松井の視線に豊前は嘆息した。このままだと眉間の皺が常態化してしまいそうだ。
 前を行く、重苦しい豊前の背中。今頃喉に不快感を貼りつかせているに違いない。松井としてはこの血でよければ今すぐ豊前に分け与えて、存分に喉を潤してもらって構わないのだが、おそらく優しく拒まれる。大丈夫だからお前は何も心配するなと言われるのだ。そんな豊前の強さは松井の尊敬するところ。でも、もう少し頼ってくれてもいいじゃないかとも思う。
(僕では頼りにならないのだろうか……
 この件に関して、豊前はかつて同じ不具合に見舞われたという加州を頼っている。それは松井も知っている。彼はこの本丸を古くから支えてきた、とても頼りになる刀剣男士の一振りだ。松井は唇を噛んだ。
 雨上がりの戦場を、空っ風が一陣突っ切って行った。

 *

 その日も松井は本丸の図書室にいた。本丸の離れ一棟を改装して建てた図書室には古今東西の書物が収められており、ここに無いものは政府管轄の図書館から借りる事ができる。古参の刀剣男士の中には手持ち無沙汰のあまり蔵書の読破に挑戦すると宣言した者もいた。松井は本が好きだ。事務班の人員に選ばれなかったら、ここに入り浸っていたに違いない。
 そんな読書家・松井は濫読家でもある。本当は行きつ戻りつ一冊をじっくり精読したいところだが、今はその時間がない。――医学、生物学、伝承、俗話。松井はありとあらゆる分野の書物に目を通していた。
……この本にも無かった)
 奥付まで確認した松井は本を静かに閉じると、立ち上がって本を元の場所に戻した。今日は呪術の専門書(この本丸の主が蔵書家という事は何となく察していたが、何故こんなものまで蒐書しているのかは考えない事にする)に手を出してみたが、ここにも豊前の不具合を治す手がかりになりそうなものは無かった。
 豊前が抱えている、原因不明の喉の渇き。一部の刀剣男士に出る不具合であると公表はされているが、それに対する治療方法は確立されていない。発生後すぐに解消する者もいれば、長期間患う者もいる。症状が日に日に進行していくのを悲観していたら、ある日突然直ったという報告もある。症状が出たら錠剤や飲料で対処し、不具合が消える日を待つしかなかった。
(早く見つけないと……
 豊前の症状は良くなる兆しも無ければ、悪化する傾向も無い。審神者や仲間達を心配させてはならないと抱え込んだ豊前の身に取り返しのつかない事が起きる前に、どうにかして解決策を、せめて症状を緩和させたり改善させたりする手がかりを見つけないと。松井は焦っていた。
 しかし焦るその裏で、どんな形であれ豊前に必要とされる事に喜びを感じているのも事実。全くもって業が深いと松井は自嘲した。
 昼食を終えてからすぐにやって来た図書室。ここにいるとつい時が経つのを忘れてしまう。窓から見える西の空は橙色に染まっていた。夕餉の時間が近い。
…………
 夕餉の時間には少し遅れてしまうが仕方ない。もう一冊だけ書物に目を通してから行く事にした松井は、先ほど戻した本の隣の本を手に取って開いていた。求めていた内容ではなさそうだが、読み物としてはとても興味深かった。一食ぐらい抜いても怒られはしないから読み切ってしまおう。そう決めて書架の前に座り込んだ松井だが、名前を呼ばれて顔を上げた。――豊前だ。
「おーい。松井ー?」
「豊前。どうした?」
「どーしたも、こーしたも、晩飯の時間だから呼びに来た。まだ時間かかりそうか?」
 熱中すると時間を忘れてしまうのは江の者達共通だ。その中でも群を抜いているのが松井と五月雨で、放っておくといつまで経っても帰ってこない。豊前にも食事を忘れて没頭したい時はあるので、松井の夕飯は別にしてもらうよう頼んでおこうかと言外に匂わせた。
 こういう些細な気遣いがとてもありがたい。豊前が呼びに来なかったら松井はまだここにいた。もう一冊だけと自分に言い訳をしながら、ここで何冊も書物を読んでいたに違いない。でも集中力の切れた松井は気づいてしまった。――腹が減った、と。このままでは腹の虫が愚図るのも時間の問題だ。松井は夕飯を選んだ。
「いや。ちょうど読み終えたところだから夕餉に行くよ。お腹空いた」
「そーか。今日のおかずは松井の好物だから、出来立てが食えて良かったな」
 好物があると聞くとより空腹を感じてしまう。腹の虫が動き始めたのかもしれない。松井が胃の辺りを摩っていると、豊前が書架に並んだ書物の背表紙に目を向けた。
……松井、最近ここに居ること多いよな」
「そうだね。本は好きだから」
「面白いやつは夢中になって読んじまう」
 でもこの辺りの本は難しそうだと豊前は眉を顰めた。
「ふーん。豊前も読書をするんだ」
「色んな奴に言われんだよな、それ」
 松井にも言われるとは思わなかったと軽く唇を尖らせる豊前に、松井は小さく吹き出してしまった。戦績表を見ると思わず顰め面になってしまう豊前は、細かい文字のびっしり書かれたものが苦手で、部屋の中でおとなしく座っているよりも外で思いっきり体を動かす事の方が好き。それはおおむね合っている。
 けれども、いつだって騒がしいわけではない。豊前がひとり静かに過ごす事も多いと松井は知っている。知っているのにお前もそれを言うのかと、豊前は少し拗ねているのだ。
「ごめんね。冗談だよ」
 ほら早く広間に行こうと、松井は苦笑いをしながら拗ねる豊前を宥めて夕餉の会場である広間に向かった。今日のおかずは己の好物だと聞いた。もし彼の好物もあったらお詫びに一つ譲ろう。しかし松井の考えなんて豊前にはお見通しで、逆に「これ好きだろ? やるよ」と好物を皿の上に置かれる事になるとは、この時の松井はまだ知らなかった。
 夕飯のおかずを分け与える事。豊前にとってそれは何てことでは無い。だって豊前は、もっと大事なものを松井から分け与えられている。増えた好物を前に喜んでいる松井を横目に、豊前は現実から目を背けた。
 己がここで生きていくための糧、この渇きを癒やすもの。今夜もそれを松井から貰うのだ。

 *

(松井が遠征から帰ってくるのは明日の夜……
 真夜中、豊前は寝付けなかった。理由はわかっている。空腹で眠れないのと同じ理屈だ。しかし夜中の腹減りとは決定的に違う点がある。この空腹は自分自身の力では満たせないという事。何とかして眠ろうと豊前は何度も寝返りを打っていたが、睡魔は一向に訪れなかった。草木も眠る丑三つ時とはよく言ったものだ。こんなにも神経が過敏になっているというのに、たまに不寝番の見回りの足音が聞こえるだけで、他には物音一つ聞こえてこなかった。
 このまま寝返りを打ち続けたところで、一睡も出来ずに朝を迎えるだけだ。背に腹は代えられないと、豊前は薄手の掛け布団を除けて渋々起き上がった。両隣の住人は二振りとも熟睡しているだろうけれど、万が一という事もある。豊前はゆっくりと静かに部屋を抜け出すと、忍び足で厨に向かった。――厨の冷蔵庫の横に置かれた小さな冷蔵庫。その野菜室の中、栄養ドリンクの陰に隠すようにそれは置かれている。
 豊前は重たい足取りで、厨の入り口に掛けられたのれんを潜った。こんな時間だからか厨には誰もいなかった。夜目が利かない男士達のために、厨には豆電球の常夜灯が点いている。豊前は冷蔵庫の扉を開けると、奥からよく冷えたアルミのパウチに入った飲料を一つ取り出した。パウチの中身は精製血液。豊前がここで生きていくための糧として、審神者が用意してくれている物だ。
 疑似血液を凝固させた錠剤と、精製水ならぬ精製血液のパウチ。体質的な問題なのか、豊前の体はこれらを受け付けようとしなかった。錠剤は胃に落ちた瞬間吐いてしまうし、パウチの中身は時間をかけて一口分を飲み下すのがやっとの始末。豊前が苦労せず口にできるのは松井の血だけだった。
 なので松井が遠征に行く前は少し多めに与えてもらうのだが、出立前日の松井は何だか血色が悪かった。だから豊前はいつもと同じ量だけに貰う事にした。松井は心配していたけれど、自分の事をもっと心配しろと言いたかった。長期遠征ではないし、その間は自分の予定も特に無い。おとなしくしていれば何とかなるだろうと思ったのだが、何とかならなかった。松井に知られたら、それ見たことかと言われてしまいそうだ。
 パウチの蓋をねじ切り、開封する。これを口にする事ができるようになればと何度も挑戦したが、その度に無理だと実感した。目を瞑って鼻を摘まんで、味を感じる前に飲み切ってしまえばいける。何度か深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着けると、豊前はえいやとパウチに口をつけた。
 飲み口からそのまま中身を一気飲み――する事は今回もできなかった。口に入ってきた瞬間に耐えがたい不快感が襲ってきて、ほんの少量を嚥下するのが精一杯だった。
 一口だけでも飲めたから良しとしよう。明日の夜、松井が帰ってくるまでなら耐えられる。耐えられるだろうけど、せめてもう一口だけ口にしておきたい。豊前がパウチとにらめっこをしていると、不意に声を掛けられた。
「なーにしてんの」
「加州」
 厨の入り口から声を掛けてきたのは今夜の不寝番の一振り、加州清光だった。見回りの途中に立ち寄ったのだろう。加州は豊前の不具合を知る数少ない男士だ。
「もしかして飲めるようになった……ってわけじゃなさそうだね」
「相変わらず一口が限界っちゃ」
……それでぶっ倒れないのが不思議なんだけど」
 精製血液の在庫管理をしているのは加州だ。他の男士達に見つからないように細心の注意を払いながら、購入から廃棄までを管理をしている。このアルミパウチが減る事は滅多になくて、購入する数よりも消費期限切れで廃棄する数の方が多かった。だから加州には、豊前が喉の渇きをどうやってやり過ごしているのか謎だった。かつて豊前と同じ不具合を抱えた事のある加州は、その渇きがどれほど辛いものなのか身に沁みて理解している。
「本当に大丈夫? アンタに何かあったら、江の奴らみんな泣くよ」
「大げさだな。でーじょうぶだって」
 声は上げずに陽気な笑みを浮かべる豊前。それならいいんだけど……と、顔にありありと不満の色を浮ばせながらも、加州は引き下がった。平安生まれの刀ほどではないにしろ、豊前もまた食わせ者の一振りだ。煙に巻かれておしまいだろう。
 刀派や一門による結束は強い。それは江の者達だって同じはずだ。ただの物ならいざ知らず、今は感情を持って生まれた身。泣くくらいするだろうに。でもこの男は、自分がその対象になるだなんてこれっぽっちも思っちゃいない。あれだけ慕われているのに何を言うのやら。
「わかった。大丈夫だって言葉、今は信用しとく。でも何かあればすぐに言って。これは命令」
「近侍筆頭としてか?」
「経験者からの。松井が来てから事務方がすごく助かってるんだから、泣かせんなよ」
 それ片づけたら早く戻りなよと言い残し、加州は厨から出て行った。見回りは一時間おきだ。もしこれを他の者に見られたら面倒な事になるし、知られたくない。飲みきれなかった中身を流し台に流すと、豊前は口を漱いでから空になったアルミパウチを持って部屋に戻った。厨のごみ箱だと見つかる可能性がある。見つかれば、審神者を巻き込み大騒ぎになるのは火を見るよりも明らか。自室のくず入れに捨てて、他のごみと一緒に自分でごみ捨て場まで持って行くのが確実である。
 部屋を出た時と何一つ変わらない、布団が一組だけ敷かれたままの部屋。くず入れに空のアルミパウチを押し込むと、豊前は再び横になった。脳裏を過るのは加州の言葉。もし自分に何かあったら、松井は泣いてくれるのだろうか。
 今の自分は松井によって生かされている。自分が罪悪感を抱き、松井がそれに対して優越感を抱いている事も、豊前は全て気づいていた。気づいた上でそうしている。
 この歪な関係が行き着く先はどこだろう。耐えきれなくなって、食い尽くして、満たされて。そして後悔して。
 長針が二度、三度と文字盤を回っていく。今夜は眠れそうになかった。

 ――翌日、松井が遠征から帰ってきた。
「おかえり。遠征、どうだった?」
「何事も無く終わったよ。ただいま。豊前の方こそ、どう?」
「どうって言われてもなぁ。特に変わりねーっちゃ」
「それならいいのだけれど……
 不在にする時は少し多めに与えていくが、今回は豊前が辞退した。顔色があまりよくないからだと言う。僕は元々こんな顔色だと松井が主張しても、豊前は頑として聞き入れなかった。今頃、一振りで辛い思いをしていないだろうか。癒やす事も満たす事もできず、陰で苦しんでいないだろうか。松井はずっと気もそぞろで、遠征部隊の面々から何か心配事でもあるのかと指摘されてしまうぐらいに、豊前の身をひたすら案じていた。それなのに、帰った後の事に思いを馳せてしまう自分がいたのもまた事実。松井はそんな己を厭悪した。
 僕がいなければ生きていけない豊前、業にまみれた僕の穢れた血、それを与えているんだという昏いよろこび。彼の事が誰よりも心配で仕方ないのに、与えている時は幸福を感じてしまう。まだ今は滲み出して足元を濡らす程度で済んでいるけれど、きっと近いうちに彼を飲み込んでしまう。澱みがこれ以上溢れてしまわないように、松井は必死に押さえつけて堰き止めていた。

 *

 それからの数日間は実に穏やかな毎日だった。日中は馬当番や畑当番に励み、夜は松井からの施しを一口だけ受ける。篭手切江のれっすんに付き合うくらいで手合わせや演練もなくて、豊前にとっては体が鈍ってしまいそうなくらいに凪の日々だった。
 穏やかな毎日という点では松井も同じだったが、松井は豊前と違って朝から晩まで事務仕事に駆り出されていた。
 読み書きのできる男士は多く、そろばんのできる男士も大勢いる。だが、書類仕事となると話は別だ。豊前をはじめ、細かい文字でみっちり埋められた紙に苦手意識を持つ者は多い。
 しかし松井は書類に苦手意識を持たない上に、百振りを越す男士達の中でもごくわずかしかいない、実務を得意とする一振りだ。二二〇〇年代の電子機器も使いこなせる貴重な存在でもある。出陣や内番、私用が無ければ、書類仕事を任されて朝から晩まで事務方に宛がわれた部屋に籠もるのは必然だった。
 とはいえ、松井の本分は刀剣男士として歴史を守る事である。決して事務仕事をするためだけに顕現したわけでは無い。今日の松井は戦に身を投じる者として戦場に立っていた。

 薄く靄のかかった戦場。一里先は見通せても、三里先は見えなかった。刀剣男士の身体能力は人の子の遙か上を行く。にも関わらず三里先が見えないという事は、この靄は気象現象ではなくて霊障である事を示していた。
 ――この戦闘、おそらく手こずる。部隊長の男士が開戦前に告げた通り、簡単にはいかなかった。単純な戦力はこちらが上回っていても、数が違う。狭くて平らな荒野での攻防は一進一退の五分五分――と言いたいところだが、実態はこちらがやや劣勢。じりじりと追いやられていた。、しかしここで撤退しては戦況が悪化する。靄越しに見える敵の数は圧倒的。何がなんでも敵の勢いを食い止める必要があった。
「松井! 一体、そっちに行った!」
 一心不乱に剣戟を振るう松井目がけて、手負いの敵短刀が向かって来た。翻る深緑色の外套、走る一閃。眼光鋭く振り向いた松井は、言葉ではなく行動で返事をした。
……どうやら囲まれてしまったみたいだ」
「そーだな……
 冷静さの中にほんの少しの焦りを滲ませた松井の状況報告に、額の汗や頬の返り血を拭いながら豊前は相づちを打った。今日の松井は豊前と同じ部隊での出陣だった。共に出陣するのはいつぶりだろうか。あの時――豊前の血が流れたと勘違いして激昂してしまった時以来かもしれない。
「どうする?」
「どーするもこーするも、決まってっだろ。やるしかねーよ」
「違いない」
 この戦場いる自軍は六振りだけだ。見える範囲に味方の姿は無くて、ここに集った敵は自分達でどうにかするしかない。松井は刀の柄を握り直した。その横で豊前が一瞬松井を見て、すぐ目の前の敵に視線を戻す。
 ――今、豊前が見ているのは右。僕は左から行こう。松井は靴の先を少し左側に向けた。この集団を率いている将を落とせば、奴らは撤退するはずだ。
 出るタイミングは豊前に任せる事にした。戦場の風を読むのは松井よりも豊前の方が得意だから。大群の敵を前にたったの二振り。二振りで何ができるのかと思われているかもしれない。松井に負ける気は無かった。神経を研ぎ澄まして目の前の敵に集中し、それと同時に豊前の呼吸にも耳を傾けた。
 靄が濃くなり、また薄くなる。靄の晴れ間を豊前は見逃さなかった。この靄は霊障。晴れれば足枷は無くなる。打って出るなら今だ。今なら三里先どころか五里先だって見通せる。豊前の姿勢がわずかに低くなるのを松井は見逃さなかった。
 飛び出したのはほぼ同時。相手は鶴翼陣に似た陣形だから、愚直に正面から攻め入っても左右から囲まれておしまいだ。陣形の横から分け入り、陣を反転させた敵に囲まれる前に中央にいる将を落とす。陣形が崩れたのは向こう側の豊前が攻め入ったからだろう。松井はぺろりと上唇を舐めた。
 敵陣の手薄いところを見つけると、己も続けと言わんばかりに松井もそこから中に飛び込んだ。

 それから小一時間後、大将首を落として敵を退けた二振りは合流した。しかし豊前も松井も全身傷だらけだ。向こう傷からの出血もなかなか止まらない。松井は豊前をちらと見やった。豊前は深い呼吸を繰り返している。戦闘で興奮した精神を鎮めているのか、それとも――。少し落ち着いてから味方と合流した方がいい。豊前をこちらへと導いて岩陰に身を隠すと、松井は通信機で部隊長と連絡を取った。手短に自身らの状況を伝え、指示を請うためだ。
『防衛は成功した。戦闘終了だ』
 重要地点の防衛は成功し、敵は撤退した。歴史の書き換えも確認されていない。その言葉に松井は安堵した。敵の殲滅はできなかったが、追い返しには成功した。しばらくこの地点が襲撃される事も無いだろうというのが審神者や近侍らの見立てだった。
 次は豊前と松井をどうするかである。部隊長の男士は松井に合流できそうかと尋ねた。少し考えた後、松井は否と返した。何故かと聞かれ、思いの外体力を消耗してしまったので少し休んでから戻りたいと答えた。体力を消耗している事も、少し休みたい事も本当だ。嘘はついていない。今は通信状態も良好だし残党の姿も無いから大丈夫だろうと、部隊は二振りを残して先に帰還し、数刻後に再び転送装置を出現させる事で話がついた。
 通信を終えた松井は豊前の元に戻った。やはり豊前の顔色がよくない。戦闘衣装が所々破れ、生傷からの出血も続いている。とはいえ、肉体活動に支障が出るほどではない。貧血よりもずっと厄介なものが豊前を襲っているのだ。
「豊前」
……わかってるんだろ。あんまし近づくな」
 大丈夫かとそろり伸ばした松井の手を、苦々しい表情の豊前が払った。普段、豊前が松井に強く当たる事は滅多にない。取り繕う事もできないくらいに豊前は追い詰められていた。――豊前にとって松井の血は生きていくための糧であり、薬。そして同時に毒でもある。芳醇で濃厚な毒を目の前に、豊前は今までで一番の渇きを覚えていた。
 気を抜けば一気に持っていかれる。自分一振りだけ置いて、松井も先に帰還してくれればどれだけ楽だった事か。今の自分はありとあらゆる余裕が無い。松井に近寄るなと警告をするのが精一杯だった。
 そんな豊前に手を払われた松井だが、驚く素振りは見せなかった。こういう反応をされるだろうと、わかっていたからだ。松井は視線を逸らす豊前を一瞥すると、フリルシャツの袖留めを外して失わないように外套のポケットに入れた。
 豊前は頑なに松井を見ようとしない。目を合わせたら終わりだとでも思っているのだろうか。松井は無言でフリルシャツの袖を捲ると、豊前の眼前に突きつけた。
……松井、何のつもりだ」
「かなり辛そうだ。無理をしなくてもいい」
 ここまでの苛立ちを、豊前が松井相手に見せる事は無い。松井の行動一つ一つが、きりきりと豊前を締めつけていた。状況をわかった上でやっているならたちが悪い。豊前は今すぐ去れと松井を追い払いたいくらいに苛立っていた。
 突きつけられた松井の白い手首。そこにはっきりと残る、昨日の夜にペーパーナイフの刃を滑らせた痕。すべてが豊前を誘っていた。
「ふざけんな。じっとしていればそのうち治まる」
 豊前は松井が捲り上げた袖を下ろした。今は指一本動かすのも辛い。頼むから何もせずおとなしくしていてくれと松井に言いたくて仕方無かった。彼を傷つけるような真似はしたくないのだ。
 矜持と理性。それだけが今の豊前を支えている。それも随分と脆くなってきているというのに。戦場にかかっていた靄も今はすっかり消えている。あの靄は霊障の一種だったから、この不具合を抑える効果もあったと思われる。そんな事、気づきたくなかった。
「本当に?」
 松井は目と鼻の距離まで詰め寄った。近づかれた事で松井の纏う血のにおいがうんと濃くなって、豊前を根幹から揺さぶってきた。
「主は僕達が帰還するための転送装置をすぐに用意してくれると言ったけれど、それでも時間がかかる。君がそれまで耐えられるとは到底思えない。僕のことは気にしなくていいんだ」
 君よりマシな状態とはいえ僕も満身創痍。敵の残党は見当たらないと言われたけれど、その確証は無い。もし敵が現れたとしたら、数によっては僕だけで切り抜けるのは難しい。転送装置を出せない可能性もある。敵に本丸の場所を知られてしまうからね。そうなったらどうなるか、君ならわかるだろう? ……共倒れだ。
 松井は豊前に畳みかけた。立て板に水を流す松井の弁舌に、豊前は黙るしかなかった。そんな豊前に、松井は内心でほくそ笑んだ。――指の先は掴んだから、あとはひと思いに引くだけだ。こちらに倒れ込んでくるように。
「僕が君にされて嫌なことは、何一つ無い」
……どうなっても知らねーぞ」
 ずっとこの時を待ち望んでいた。
 豊前の台詞に松井は戦慄した。口元に浮かぶ歪んだ弧。思わず顔に出てしまった興奮をかき消すと、松井は望むところだと豊前に身を委ねた。今この瞬間、豊前は松井によって生かされる事を選んだ。もう押さえなくてもいいのだ。松井の中からじわじわと滲み出して豊前の足元を濡らしていたものが、枷を外され濁流となって、一気に豊前に向かって押し寄せた。
「僕に溺れて」
 豊前の状態は松井の想像よりもずっと厳しかった。舐め取るだけでは足りなかったのか、ぶずりと糸切り歯が立てられる。松井にはその痛みすらも愛おしくて仕方なかった。
 躊躇いを捨てた豊前が、松井を抱き込みその血を口にする。自分から近づいたとは言え、この距離は少し恥ずかしかった。ぴたりと触れ合う体を離そうとした身を捩った松井に、豊前が不意に口づけた。
「豊前……?」
 松井の呼びかけに豊前は答えない。伏せた瞳に後悔と昏い興奮を忍ばせるだけだった。口吸いという行為は情を交わした者同士、もしくはまぐわいの一環として行われるもの。松井に対して仲間や同胞としての情はあれど、豊前がそれ以外の情を持ち合わせているとは思えない。繰り返される度に深くなる口づけに松井は混乱した。少し落ち着いてくれと豊前を止めようとした松井だったが、逆に豊前に制されてしまった。
――ごめんな」
 豊前の謝罪は何に対する謝罪だったのだろうか。松井には見当がつかなかった。うまく答えられない松井を置き去りに、行為はどんどんエスカレートしていった。
 体のあちこちが引き裂かれる。松井はこの時初めて、豊前がいかに自分の事を優しく扱ってくれていたのかを実感した。与える事が痛みを伴うだなんて知らなかった。体よりも痛いのは、この身のずっと奥の奥。そこに心があるのなら、きっと金切り声の悲鳴をあげている。
 誰にでも、言えない事の一つや二つある。たとえば、ずっと豊前を慕っていた事とか。仲間意識とか尊敬とか情愛とかそういうもの全部引っくるめて、松井は豊前を思い懸けていた。これは叶うことのない夢物語と頭では理解していたけれど、それでも松井はほんの一欠片の夢を見て、誰にも気づかれないように胸の奥深くにしまいこんでいた。
 松井は本を読む事が好きだ。手当たり次第に本を読んでいくうちに、いつしか人の子達が綴った感情の数々に自分の姿を重ねていた。――もしも。もしもいつか、彼の手を取る事が許される日が来たら。そんな事をひとり夢想していた。
 でも松井は、そのいつかを待てなかった。
 豊前の身に起きた不具合を聞いたあの時を思い出す。自分の血が彼の渇きを癒やしたあの瞬間、松井は一計を案じた。僕なしでは生きられなくなってしまえばいいと。糸をたぐり寄せるように、松井は少しずつ豊前を引き寄せて絡め取っていった。おとぎ話のような〝いつか〟を待つより、こちらの方がずっと早かった。松井なしでは生きていけないと豊前は認めた。
「待って、豊前……っ、あ……ん」
 豊前に触れられるたびに、松井の体の奥の奥がきりきりと、ずきずきと、悲傷の痛みを訴える。本当はこんな形で口づけなんて交わしたくなかった。しかし過去を変えることはできない。変えてはいけないものだから。自分達は過去や歴史を変えさせないために顕現し、存在し、戦いに身を投じている。変えてしまえば存在を否定する事になる。
 ――だからこれは罰だ。
 松井の後悔が光の糸を曳いて流れ落ちていく。豊前がそれに気づくことはなかった。
 


----------
daybreak=夜明け。今回の助演は加州になりました。
A5二段組み/表紙等込50ページ/全年齢/600円

表紙と裏表紙はこんな感じ。



【Wavebox】https://wavebox.me/wave/dt3sbq0apzlnkkwl/
↑ Waveboxです。匿名メッセージを送ることができます。何かあればどうぞ!