望月 鏡翠
2022-11-01 00:02:58
1672文字
Public リアタイ
 

3、それは幼い獣だった。

Rauiri Tadhg Cian/獣性イデア/ #獣性_B_彼は言葉を残さなかった


現実 ▼一帯に緊急配備が実施された直後。
概要 ▼都内■■線■■駅構内で、割れたガラス瓶を手にした男が暴れる。
付近に警察関係者が配備されていたため、男はすぐに取り押さえられた。駅が混雑する時間帯だったこともあり、その様子を多くの人間が目にしていた。事件の規模に対してセンセーショナルかつ目撃者が多かったことから、「赤い男事件」としてエクリプス・コンプレックス薬害事件の代表的なものの一つに数えられている。
獣性 ▼その獣は、底なしの好奇心の形をしている。――だから彼は私のところに来てくれたのだろうかなどと思ったりした
好奇心▼やってみたいと思ってしまったことを抑えられない。これをやったらどうなるのだろうと疑問に思ってしまったことを確かめないではいられない。知らない快楽がこの世にあると言われれば、それを知りたいと思うのは当然の人の性でしょう。誰の心にもあるものでしょう。
 試したことはなくとも、やりたいと思ったことはなくとも、最低な想像が頭を掠めたことが一度くらいはあるでしょう。
 押してはいけないと言われたボタンは押してみたくなるものでしょう絶対に隠しておかなくてはいけない人の秘密を知ったときそれを大声で言いふらしたら彼の人生はどうなってしまうのだろうと考えたことはないんですか駅のホームに並んでいるときに無理やり割り込んできた男をみて、電車が滑り込んでくる瞬間に掌で背中をドンと押すだけで報復できると考えたことはないんですか幼稚園の子供を乗せて運んでいくカートを見てあれを幹線道路の時速八〇キロで走る車の前に押し出したらどうなるのだろうと考えたことはないんですかたった一つを世界の全てであるように信じている人間からそれを取り上げたらどんな風に壊れてしまうのかみたいと思ったことはないんですか。
 やってみてはいけないのですか。
 どうしてそれを、我慢しないといけないの。
 ――我慢しなくてもいい。君はそれを我慢する必要はないよ。
 誰かがようやく許してくれた。
 ――それをしてもいい。でもまだ試したことがないことがありますよ。
 試してみたい。やってみたい。まだやったことがないことならば、全部を知りたい。
 ――人は死んだらどうなるんでしょうね。君は命が絶えたあと、どこにいくんでしょう。そんな素朴な疑問とか。ねぇ、試してみたいと思ったことはない?
 振り向いた先にいた人を、私は知っていた。知っていたけれど、問いかけた。
 あなたの名前は?
 男は困ったように笑った。
 ――サイアムですよ。
 それは昔に買ってもらったテディベアの名前で、ようやく迎えにきてくれたのだと思った。
 私はね、私は。
 ――知っていますよ、ローリー。ローリー・タイグ=キーアン。君が人のままでいるために、その名前をしっかりと握っていて。
 なんで。今握っているのは、名前じゃなくて割れたガラスの瓶。ピカピカしていて綺麗だね。でもなんでこれはこんなに赤いんだっけ。
 これは大事なものじゃなかった気がする。
 ねぇ、サイアム。サイアムは大事な緑色どこに無くしてしまったの。
 笑う。他に、この感情を表す方法を、知らなかったから。
「そんなものは獣にくれてやれ。人であるために必要ならば、他のものも」
 理性の私が言う。
「ローリーさん、あなたは人の尊厳を保つためにどこまで獣に食わせることができますか?」
 好奇心の概念が言う。
 その質問の動機は、好奇心だろうか。あるいはローリーの身を心配しているのだろうか。
「好奇心でしょう」
 私の獣が言う。
 それが好奇心なら、満たしてやらなければいけない。
「きっと、何もかもを」
 さあほら、おいで。
 私の獣に手招きをする。君の衝動を向けるべきは、向こうではない。
 ガラス片が肉を裂く。血の温かさを感じた。
 枷のない獣を止めるのは、本能的衝動を塗りつぶすほどの痛みしかない。
 ローリー・タイグ=キーアンは人であるために自らを、その獣に食わせた。