もしも、あの時触れたならば

うちよそオスラッテ、ちょっと病み気味なオスラサイドの話。




 誰かと笑い合う愛しき人、いつまでも穢れることのない純白の彼。だけど、隣にいるのは誰だろうか、少なくとも俺には記憶がない。顔も分からない、声も聞いたことがない。けれど、彼はとても楽しそうにその人と笑い合って会話をしている。
 そこに絶対的な隔たりがあると分かった瞬間、襲ってくるのは深い悲しみだ。無邪気に笑う姿を見ていて、本当は嬉しいはずなのに……いや、ちがう、あまりにも醜く溢れるほどの嫉妬というべきだろう。
 だからこうして、今、手を伸ばした先にいる彼を、閉じ、こめ、て……

 この手で彼の腕に触れた瞬間、彼が弾けて、赤い色と、むせ返るような死の匂いで包まれた。





「っはあ、はあ……! う……っ?」
 暗い寝室の天井に向かって手を伸ばして、必死に息をしながら目を覚ます。全身が汗でべたつき、着ていたシャツやズボンが肌や鱗に貼り付いている感覚が気持ち悪い。灯りのついていない部屋の窓からはまだ日の光の気配はなく、朝が来るまでは少し遠いように思えた。
「はっ、ああ……夢、なのか……
 呼吸を整えながら、先程の情景を思い出していく。何者か分からないものに対して、彼が隣にいるというだけで、何とも酷いことをしようとしたものだ。いや、それは彼に対してもだろう。
 そういえば、こんなに自分が取り乱して起きてしまったのだから、隣で寝ている彼も起こしてしまったかもしれない。そう考えて仰向けの姿勢からそーっと彼の方へと横向きに体勢を変えていく。彼はこちらのほうを向いていつものように身体を丸めてスヤスヤと寝ていた。白い耳までゆったりと力を抜いて穏やかな表情で寝ていることから、どうやら起こすようなことはなかっただろうと判断する。ひとまずは胸をなでおろした。
 本当はここで彼の頭を撫でてやりたいところだが、夢の最後で見た最悪の終わりが頭をよぎる。もし……ここでもしも俺が彼を手にかけてしまったら? そうでなくとも、俺のせいで彼に治らない傷でもつけたら? そう考えると全身にある鱗も、前に突き出して生えているこの角も、かつて血に染め続けたこの手も、自分の身体にある何もかもが彼を壊してしまう要素に思えてしまった。



 過去に俺自身が門狭き国のため、今はもう崩壊した家のために、処刑の時と示されれば人の命を狩り取っていたことは事実だ。国のためと言われたならば、例えそれが殺人であろうとも罪にはならず、善悪の概念はいとも容易くひっくり返る。俺が奪った人の命は「それが当然だった」ということで片づけられる。国のために従った家には誉が与えられる。こうした人の犠牲の上に俺たちは成り立っていたのだから、腐っていく死体で築き上げていた俺の住む場所はあまりにも脆かった。だからあっという間に崩壊していって、ようやくその罰として俺の身体は売られ、悪意の蔓延る場所で心身共に壊されていった。けれど、当時の俺はそれでいいと思えた。今まで命を奪い続けてきた罪を償っているのだと最初は思っていた。ただ、悪意というのは無限に湧いてくるものだった。だから限度を知らずに俺はそれを受け入れてしまい、気が付けば俺という存在がどうであったのか分からなくなっていた。それから数年、不安定な俺がある時に唐突に救い上げられ、こうして今の俺になるまではまた長い時間をかけてしまった。独り立ちして彼に出会ってから、困難もまた沢山あったが献身的に尽くしてくれる彼と共に生活することが出来ている。



 暗い経緯があることを、彼には最近になってようやく話すことができた。自分がドス黒く穢れてしまっていることを隠していたことを伝えたら、きっと純粋で真面目で気高く強い彼は俺から離れてしまうと思っていた。そうなってしまっても構わないとやっと覚悟が出来て、全てを曝け出して話をした。しかし、ここで予想外だったのは、話を聞いた彼がすんなりと俺を許してしまったことだ。そして俺の過去を否定せず、けれどたった一言で心の奥底で冷えていた気持ちを溶かしてしまった。罰だと思って受けていたとめどない悪意と無慈悲な快楽は、子供の俺にとってはあまりにも辛すぎたのだと、大人になって彼に指摘されてからやっと理解することが出来た。
 あれから随分と時が過ぎたが、彼は今も変わらずにこうして隣にいてくれる。



 でも、どうして。俺を許してくれたんだ?
 かつての自分、人の命を狩る自分や悪意に快楽で奉仕する自分。それらとは決別したはずだった。なのに、彼に出会ってから新たに生まれつつある自分がいた。それは、彼を永遠に閉じ込めておきたい自分。色んな場所で活動している彼に対して、剣と盾を奪い取り、足を壊して、鋭い牙を折って、柔らかな耳とふわふわの毛並の尻尾を引き抜いて、どうなってしまってもずっと手元に置いておきたいという気持ち。それはきっと傍から見ればあまりにも歪んでいるだろう。それは分かっている、分かっていて……けれどまだあの時のように別れることができていない。
 俺の全てを許してくれると彼は言ってくれた。ならば、許してくれたお前だって悪いんじゃないか?
 今この場であの白い喉を刀で切り裂いても、はたまたこの手で締め付けて息と血を止めてしまっても、それでも許してくれる、だろうか?

 いや、そんなことはないはずだ。

 そう思いとどまることが出来ている。俺はまだ正気であると信じたい。けれど、そんな自分が存在していることに俺自身が恐怖を覚えているのも事実だ。
 だからどうか、もし、俺が今度こそ俺としていられなくなったら。その時はきっと裁いてほしい。本当の意味でその騎士としての力を振るって、あるべき善悪を示してくれ。
 自由で強いお前が、どこまで行くのかを共に分かち合っていたい。それが俺としての本当の気持ち。傷つくことを恐れず、不器用で不便な俺の愛情を受け入れてくれる彼が、この先も幸福であることを願っているのだから。



 そうやって時間と眠気を忘れて考え込んでいると、いつの間にか彼が俺の胸元まで寄り添っていることに気が付いた。すっぽりと腕の中まで入り込み綺麗に収まった状態で、時折機嫌よくグルグルと喉を鳴らしている音がしている。どうやら彼は無意識にこちらまで移動していたらしい。変わらずに規則正しい寝息がしていることを確認して、そっと彼を抱きしめてやった。
「まったく、わざわざここまで来てくれるなんて」
 果たしてどうなっても構わないのか。そこまで聞くことはギリギリのところで留めておいた。