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無窓居室
2023-09-13 22:39:17
7202文字
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執事ネタ
8巻おまけシールとコラボ回の執事姿に気が触れてしまって書いたなにか。全編雰囲気だけの話をお楽しみください(だめじゃん?)
1
2
薔薇園
それは私がこのお屋敷に参りましてからまだあまり経たない頃のことでした。
その日、私はお部屋を飾る薔薇の花をいくらか切ってくるように言われて、椿の油を塗った鋏をエプロンに包んで、お庭の薔薇園まで出ておりました。しかしあまり見事に咲きそろっている花を見ているうちに、却ってどれを切ろうか迷ってしまって、まだ朝露に濡れて香り始めたばかりの一面の薔薇の花を前に、まごまごと佇んでいるばかりでした。そこへ不意に後ろから声をかけて下さる方があったのです。
「花が必要ならこの木から切るといいでしょう。ちょうど今朝ひらき始めたばかりで切り花にしても長持ちしますし、お庭の見た目にも響きませんから」
庭師かと思ったその声は執事のブラック様でした。赤い三角形のボタンのついた黒いスーツに、濃いグレーのシャツをお召しになり、真紅のタイを結んで、薔薇の木の影から音もなく現れたお姿には、この世のものとは思えないような不思議な雰囲気がおありでした。
「さとしくんのお部屋には棘を全て抜いてからお持ちして下さい。そそっかしい方ですからお怪我をなさいます。後で食堂とティーサロン用に、香りのない別の花を届けさせましょう」
さとし坊ちゃまは小学校の五年生になられ、もう人前で「坊ちゃま、坊ちゃま」と呼ばれることを嫌われて、ご本人の前はもとより使用人同士の間でも「さとし」と下の名前でのみ呼ぶようにと常々お望みになっておられたのですが、上級使用人達も「しかし、坊ちゃま
…
」と愛想笑いで誤魔化すなか、私のような新入りのメイドがご要望の通りになどしたら後でどんな問題になるかと思うと、怖くて、みっともなく猫撫で声など出して「坊ちゃま」とお呼びし続けていたところ、ブラック様だけは「さとしくん」とお呼びになるばかりか、坊ちゃまがお勉強もスポーツも取り立ててお得意でなく、しばしば可愛らしい失敗をされることを、臆面もなくからかったりしておられました。
使用人の中にはそれを「執事の地位を笠に着て無礼である」と謗る人もありましたが、あの頃、この広いお屋敷で本心から坊ちゃまに忠誠と友誼の心をお持ちだったのはブラック様ただお一人だったと、私は今でも思っています。
今、目の前で求めることのある人の望みを叶えようとする前に「自分の立場がせめてメイド長でもあれば
…
」などと考える者に、本当の意味で人にお仕えすることなど、いつまで経ってもできはしないのです。
そのときも私はそんなことをあれこれ考えて、俯いたまま小声でお返事を申し上げるのがやっとでしたが、ブラック様はそんな私の緊張を解こうとされるように少し微笑まれてから、お屋敷の母屋の方へ消えてゆかれました。建物の中でも外でも、足音を立てない方でした。
午後からお客様がいらっしゃいました。さとし坊ちゃまのご学友で市井様のお宅のひめお嬢様と、お嬢様の従者のアカネ様でした。
アカネ様は腰まである髪を高いポニーテールに結ばれて、赤いジャケットとパンツに黒いシャツ、深緋のリボンタイという、まるで好事家が美形のフットマンを見せびらかすためにさせるようなお服をお召しでしたが、アカネ様のご容貌と飾らない物腰にかかりますと、それが少しも嫌味でなく、妖精のように愛くるしい市井のお嬢様の隣に並ばれる様子は、そこだけがお伽話に出てくる遠い国の景色かなにかのように思われるのでした。
メイド達の中にもお二人の訪れを楽しみにする者は多かったので、さとし坊ちゃまの待ちこがれようはどんなだったことか。お自ら玄関の呼び鈴が聞こえる部屋でお待ちになり、ブラック様がお出迎えになる前に飛び出してゆかれるのが常でいらっしゃいました。
「ようこそ!ひめちゃん、アカネちゃん、待ってたよ!!」
「良かったな、ひめお嬢様。さとし坊ちゃんが熱烈歓迎だってよ」
「からかわないで師匠。お邪魔するわね、さとしくん」
「どうぞどうぞ
……
アカネちゃんももうそろそろ、その〝坊ちゃん〟ってのはよして欲しいなぁ」
「そうなのか?じゃあ、さとし。お言葉に甘えるよ」
市井のお嬢様がアカネ様のことを「師匠」と呼ばれるのは少しややこしいのですが、信頼を置かれている使用人というものは御令息や御息女の教育係を兼ねることがあり、アカネ様もお嬢様に歌やダンスの手ほどきをなさったことがあるそうなので、大人びたお嬢様は一使用人に留まらず、師弟の礼をとられていたものと察せられます。ブラック様もさとし坊ちゃまに色々なお勉強やお嗜みを教えてらっしゃいましたが、坊ちゃまのお勉強中のあんまり無邪気なご様子には、あのブラック様でさえしばしば匙を投げておしまいになるのでした。
そんなことを連想して微笑ましく感じておりましたところ、アカネ様があんまり何気なく坊ちゃまのことを「さとし」と呼び捨てになさるので、私はやはりこの方も自分とは違い、本物のご自身の魂をお持ちなのだと、少し気持ちが塞いだりもいたしました。
そろそろ夕暮れという頃、洗濯物を取り込んで母屋にお運びする途中に薔薇園を通りかかりますと、ちょうど厩へ続く裏庭の方からアカネ様がいらっしゃるのが目に入りました。
坊ちゃんとお嬢様が引き綱で乗馬をなさっていたので、そのお手伝いの帰りでいらしたのでしょうか。背筋をまっすぐ伸ばされ、切れ込みの深いジャケットの生地が、颯爽とした足捌きのたびにすらりと伸びた脚の腿を覆ったり翻ったりして、どんな若者にも負けない凛々しい面差しが、ふと足を止められた途端に柔和な女性のものになる瞬間は、あまりに胸に迫るものがあって、私は洗濯物を抱えた姿のまま、すっかりそのお姿に見入ってしまいました。
私に気付いていらっしゃらない様子のアカネ様は、西日に映えるどこか物憂げな表情で、そっと薔薇の一輪に手を伸ばされました。偶然にもそれは、今朝がた私が薔薇の花を切った木の枝だったのです。
「
……
っ
…
た」
不意にアカネ様が素早く手を引かれました。夕日に満ちる薔薇園の中で、茜色の髪、赤いお召し物、深緋のリボンタイに囲まれて、アカネ様の指先から一筋の血が、他の赤に少しも霞まず鮮やかに滴るのが見え、私があっと声をあげそうになったとき、どこからか音もなく一つの影が現れました。ブラック様でした。
「困りますね。薔薇一輪とはいえ屋敷のものに手を出されては」
ブラック様はやはり足音を立てずにアカネ様に近寄られ、制するようにその手首をお取りになられました。断りもなく他家のお庭の花に触れるのは、確かにマナー違反なのでしょうけれど、目に止まったものに躊躇いなく手を伸ばされたアカネ様の目の輝きには、その時になさった背伸びごと、何とも言えず爽やかな感じがあって、憧れさえ感じましたので、私も一緒にお叱りを受けたように項垂れていましたところ、ブラック様が不意に語調を和らげられて
「言って下されば一抱えでも届けさせるのに。そのくらいの裁量は任されているんですよ」
と親しげにお話しになられたのには、心からほっとしたものです。
「欲しかったんじゃないんだ。玄関に飾られてたのがあんまり綺麗だったから、つい、もっと見たくなった
…
っていうか」
「さすがお目が高い。最近よく気の付くメイドさんが来て下さいましてね。彼女が生けてくれたんです。それに、間違いなくこの木から切られた花ですよ」
「でも、断りもなしに触ったのは確かにな
……
悪かったよ」
目を伏せてしまわれたアカネ様のお顔を、ブラック様はしげしげとご覧になり、満足そうに目を細められたかと思うと、まだ血を溢すアカネ様のお手を掬い上げるように持ち上げられて、口に含んでおしまいになりました。
驚いて声も出せないご様子のアカネ様の代わりではないですけれど、今度こそ私も小さく叫んでしまったように思うのですが、お二人のお耳には届かなかったようで、私は洗濯物を救命胴衣か何かのようにしっかりと抱え、その場から離れることも忘れて立ち尽くしてしまいました。
「な、何
……
!人に見られたら
……
!!」
流された血の色に頬を染めて離れようとなさるアカネ様の指に、もう一度舌先を触れさせてから、ブラック様は悪戯っぽく微笑まれました。
「アカネさんこそお静かに。これで証拠隠滅です」
ブラック様のおっしゃる通り、不思議なことにアカネ様の指先にもう血は見えず、しばらくしても再び滲む気配もありません。ブラック様の黒い革手袋に捉えられて、白いお指の傷が消えたことは一層はっきりと、私からでも見て取れるのでした。
そして、戸惑うように指へ目をやりながらお礼を呟かれたアカネ様を、ブラック様はいかにも慣れたご様子で抱き寄せられ、私の方へ背を向けてアカネ様のお姿を隠しておしまいになりました。それから、ほんの少しだけ振り向くように視線で合図を、間違いなく私に送られましたので、私は豆鉄砲を受けた鳩のように、やっと動くようになった足で一目散にお屋敷へと駆け出しました。
いけないことと思いながら盗み見た薔薇の木の下では、ブラック様がアカネ様に耳打ちか接吻か、顔を寄せておられて、私はいっそう足を早めながら、正体のない熱いものが胸の奥を満たすのを感じたのです。
***
「さとしくん!この問題は前にもやったところですよ、もうすぐ試験本番なのに、そんなことでは困ります!!」
「ひえぇ〜
…
モモ先生、こういう時には厳しいなぁ
……
昔はあんなに大人しいメイドさんだったのに
…
」
「なにか言ったか?」
「うわああぁ!!マゼンタ先生まで出てこないで!」
さとし坊ちゃまはとうに私の背を追い越されました。私は坊ちゃまが高校受験をお決めになったときから教育係に取り立てていただき、今では家庭教師の立場で坊ちゃまのお勉強に関わっています。
授業中、私が坊ちゃまのことを「さとしくん」とお呼びするのも当たり前のことになりました。
市井様のお宅のひめお嬢様は、お会いしますと今も優しくお声をかけて下さいますが、ご勉学や習い事にお忙しいようで、お子様だった頃のようにはなかなか遊びに来ていただくこともできません。坊ちゃまがにわかにお勉強に熱を入れられるようになったのも、どうやらお嬢様と同じ学校にお通いになりたいという理由がおありのようです。
何もかも変わっていくようです。けれど、夕暮れ時にお庭の薔薇園を眺めるとき、私には今でもその木の影に、黒と茜色のお姿があるような気がするのです。そして四季咲きの花の見事な頃、あの日見たようにその一輪に手を伸ばしてみますと、一途に人をお慕いすることや、自分の好もしいと思った通りに生きていくことへの勇気が、私のような者の中にもたしかに息づいていることを感じます。
「もう一踏ん張りですよ。夏休みにはブラック様とアカネ様が、お子様を連れてこのお屋敷にお立ち寄りになられます。市井のお嬢様も会いにいらっしゃるでしょう。成長した姿を見せるんじゃなかったんですか?」
「わ、分かってるよ
……
でもさぁ
…
」
「つべこべ言うな!男なら一度決めたことを違えるのではないわ!!」
「わーっ!!ご、ごめんなさい!」
それは、私がこのお屋敷に参りましてからあまり経たない頃のことでした。
2023/07/27
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