あけみ
2017-07-17 16:19:27
20796文字
Public MCU(小説)
 

【MCU】君の記憶の箱庭【バキトニ】

こちらは、インフィニティウォー、エンドゲーム公開前に執筆したものです。シビルウォー後のもしもの世界線でお楽しみください。
書いたものはピクブラにもあります。
https://pictbland.net/items/detail/181850
https://pictbland.net/items/detail/351224

君の記憶の箱庭1



「バーンズ軍曹、」

 呼ばれた声に振り向き、相手を見たバーンズは眉根を寄せた。ハワード・スタークがにこやかに片手を上げこちらに寄ってきたからだ。
 ハワードとは普段話もしないので珍しい奴が近付いてきたと思った。彼は科学者で技術者で武器の製造にも関わっているが、バーンズは万博会場で見た華やかな登場と派手なパフォーマンスで客を湧かせたイメージの方が強い。
 側まできたハワードは一瞬、周囲に目を配ったかと思えばバーンズの肩に手を置くとポケットから小さな紙切れをそっとバーンズの胸ポケットへと忍び込ませた。身長差でどうしても彼を見下ろす形になりハワードのクリッとした瞳がバーンズに向けられる。そこには、好奇心を滲ませながらも真摯にバーンズを見つめていたので文句を言うタイミングが遅れた。妙な間があいて「おい、なんだこれは」とやっと口に出したが、ハワードがニヤリと笑ったのでムッと口を結んだ。
「僕の知り合いにカウンセラーがいる。一度会ってくれないか」
 何のためだと、言おうとした口はすぐに閉ざす。思い当たる不安がバーンズの脳裏に過ったからだ。
「君の脳波を見たが、洗脳の初期状態だ。今のうちになんとかした方が良い」
 先ほどまでのニヤついた表情はどこへ押し隠したのかハワードは至極真面目に答える。
 ヒドラが捕虜を生かしたのは実験体にするためだ。スティーブ・ロジャースのような成功した超人血清を研究している輩がヒドラの科学班にいることは、先日バーンズを含めた隊員を救出した任務でハワードにも耳に入ったらしい。無事に隊員は救出されたが、その中でもっとも状態が酷かったのはほかでもないバーンズで、まがい物の血清を少量と洗脳に似たマインドコントロールを施されていた。今は戦闘ハイで麻痺しているが、時期に落ち着けば生活に支障が出るかもしれない。
 良識ある兵士らを洗脳してまで超人血清の研究を行うヒドラに悪寒を覚えるが、バーンズは肩に置かれたハワードの手を払った。
「俺はいい」
「まぁまぁ、騙されたと思って一度受けてみろ」
 ハワードはそう言って最後には笑った。踵を返した後ろ姿を黙って見つめる。バーンズを後押しするようにこちらを見ず手を振るハワードは世間で言われるお調子者のプレイボーイとは裏腹に、案外真面目なやつなのかもしれないと、ふとそんなことを思った。
 バーンズは小さく息を吐くと胸ポケットにある一切れの紙を摘んだ。そこには子どもっぽい丸い文字でカウンセラーの連絡先が書かれている。


   ×   ×   ×



 スミソニアン博物館の展示にハワード・スタークのことも少し記載されていた。

「ハワード・スターク」

 と口にした時、彼をこの手にかけたこと、証拠を消すため目撃者である助手席の女性も右手で首を絞めた記憶が呼び起された。
 1991年12月17日の夜。森林の中、車が走り去るのをバイクで追いかけた。命令はハワード・スタークと目撃者を殺し、トランクの血清を奪うこと。
 ハワードについてはヒドラ幹部内でも何度も資料が回ってきたから知っている。暗殺の指令は過去に何度も上がっており、実際に決行されたのがこの日が初めてだった。ハワード・スタークは瞳が大きく好奇心旺盛の技術者で科学者で、自分と同じ年齢で、スティーブのシールドを作ったやつで、俺の洗脳をいち早く勘付いて――そこまで記憶が巡った途端、バーンズは酷い嘔気を感じた。トイレへ駆け込みふら付く足は個室に入ると便座に顔をうずめた。胃から迫りくるむかつきを味わいながら喉に引っかかる吐瀉物を全てトイレに流した。俺が殺したと、自分自身を呪いながらこの苦しみが永遠に続くと確信した。
 ハワードの息子、トニー・スタークのことはその後に知った。スターク・インダストリーズ、アイアンマン、アベンジャーズはテレビを付ければ耳にする。バーンズはニュースに映ったトニーの顔を見つめた。確かに面影がある。その大きな瞳とブルネットの髪――また何かを思い出しそうで頭痛がした。酷い眩暈だとバーンズは舌打ちしながらテレビを消した。
 何度かニューヨークの「A」の文字が目立つタワーの前を通ったことがある。逃げ回るのは柄ではない。ヒドラの情報とこの身を彼らに任せようかとも思ったが。情けないことに足がすくんでどうしても光あるそこへ行けなかった。もしかしたら、脳の奥に残る洗脳の欠片が彼らから遠ざけるよう働きかけていたのかもしれない。何とも都合の良い考えだ。バーンズは自嘲する。
 再び凍結することを望み、自身に残る洗脳を取り除ける方法が見つかるまで眠る予定でいた。記憶はまだ曖昧で全て甦ったわけではない。罪滅ぼしをするには俺はまだ中途半端だった。親友に助けられ、そのせいで彼らのチームを引き裂いた。さらに戦友の息子をも傷つけてシベリアに置いてきたのだ。彼に――トニーに向けられた怒りと憎悪と悲しみの瞳を思い出す。
 もう、許してもらおうなどとは思わない。シベリアの地に彼が現れた時、この期に及んでバーンズはまだやり直せると思っていた。共通の敵5人のウィンター・ソルジャーを倒せば――もしかしたら、なんて、甘いことを。結局、自分の手で壊したそれはもう二度と修復できないのだ。「作るのは得意だが、直すのは苦手なんだ」そう言って笑ったのは誰だったか。
 バーンズは急速に現実へと浮上する感覚を味わう。夢から覚めるといつも拒むことができない命令が脳を支配する。もう慣れた感覚だと諦めたが、今回は妙に穏やかな目覚めだった。

 ゆっくりと目を開けると、信じられないことに「おはよう、バーンズ軍曹」と酷く無感情な声質で――トニー・スタークが顔を覗きこんでいた。


   ×   ×   ×




「スターク!」

 バーンズは、基地のラボで忙しそうに作業をするハワードの背中に荒っぽく声をかけた。顔を歪めるバーンズを見やったハワードは口元を上げニヤリと笑った。「カウンセラーに行ったようで何より」と言ってからバーンズの報告を待っているかのように腕を組んで向かい合う。
「もう二度とお前のすすめでカウンセラーは受けない」
「お気に召さない? とびっきりの女医だぞ?」
 ハワードの物言いにバーンズは溜息をついた。言われた通りカウンセラーを受けたが、ハワードが好みそうな白衣を着た女性が迎えたのですぐに一杯喰わされたと眉根を寄せた。「失礼」と言ってから扉を閉めたが女医は正式な医師免許の証明書をバーンズに見せた。閉じかけた扉の間に足を割り入れ、
「私が女だから帰るのかしら?」
 と鋭い視線を向けた彼女は何度も侮蔑な態度を取られたのだろう、バーンズの反応に辟易として腕を組み再びバーンズが部屋に入るのを黙って目で追う。
「あ……いや、すまない。てっきり」
 自身の洗脳のことが不安でどこか気が張り詰めていたのだ。さらにハワードから紹介されたのだから、そういうことだと勘ぐってしまった。「溜まってるようだから抜いてもらえ」とか「女を紹介してやる」だとかそういった下賤な意味合いにとらえてしまったのは、先日スティーブからハワードの話の中で「フォンデュ」を聞かされたからだ。

「ハワードの紹介じゃ仕方がないわ。私はちゃんとしたカウンセラーよ」

 彼女はこれも何度となく繰り返してきたセリフなのだろう。今度は呆れた顔でバーンズを迎え入れた。

 そうしていくつか質問を受けると、バーンズは用意された一人掛けのソファに腰掛け彼女と向かい合う形で他愛無い話をするだけの診察を行われた。彼女は医師としても腕が良く聡明であることはバーンズにもすぐに分かった。肩にかかったブルネットの髪が揺れるのをバーンズは目を細め見つめていた。



「彼女と寝たのか」
 ハワードが少し意外そうな顔でこちらを見つめ聞いてきたので、バーンズはますます顔を歪ませる。結果的に言えば、そうだ。
……だからもう二度とカウンセラーは受けない」
「なかなか手が早いな色男くん」
「お前ほどじゃない」
 重々しく息を吐き、バーンズは前髪をかきあげる。よりによってハワードが紹介した女性を――
「言っておくが、僕は彼女と寝てないぞ」
 バーンズが頭を悩ませているであろう蟠りをハワードが否定した。バーンズは驚いて顔を上げる。そこには、名誉棄損だと不服な顔をしながらもバーンズを見つめる瞳は実直だった。
「僕は女性の友人とは寝ないし、彼女も決して尻軽じゃない。まっとうな医者だ。だからもう二度ととか言うな。良い傾向だ。時々会えばいい」
 ハワードはそう言ったが、バーンズはまだ戦争中であるしまた明日には戦地に向かいここを離れることになっていると言い訳に断った。
「戦争中でも愛は大切だ。初期段階の洗脳には効果的かもしれない」
「俺は兵士だ。一夜の恋ならまだしも」
「バーンズ軍曹、君はもともと愛に正直な人間だろ。戦争が人格を変えると言うが本当だな」
「お前には関係ないだろ」
 バーンズは少し苛立ってラボから出て行こうと踵を返すが、ハワードが自身の歩みを止める。
「そうだ、もし僕の子どもが生まれたら君にあげよう」
 どうしてそんな話になるのだ。バーンズは眉根を寄せた。本当にこの男は自分と同じ年齢なのだろうかと疑いたくなる。そんなバーンズの思いをよそにハワードは機嫌良く言い放つ。
「きっと僕に似て美人だ。ブルネットが好みなんだろ?」
「いらない。それにお前のことだから晩婚の上に子どもは歳取ってからできる」
 適当に分析して言い当てたが根拠はない。それでもハワードは拗ねたように口を尖がらせる。彼自身もおそらく考えていたであろう未来予想だ。そう思うと少し可笑しくてバーンズはやっと彼を言い負かせたとニヤリと笑った。


   ×   ×   ×



 甦るのはそんな記憶ばかりだ。

 バーンズは座っていたカウチソファから上体を起こしたがすぐに頭痛がしたかと思うと、鈍い痛みが続くそれに片方しかない腕で頭をおさえるとバランスを崩した。再び腰を下ろすと右手で顔を覆ったまましばらく動けそうになかった。
「BARFを使うと頭痛がする。副作用のようなものだ」
 トニーはそう言い放ち、じっとしていろとバーンズに命じた。先ほどまで見えていた光景も思い出も全て幻影のようにトニーが吹きかけた蝋燭の火が消えると、幻は姿を消しホログラムだったと現実がバーンズに教えてくれた。

 凍結から目覚めたバーンズは「洗脳を解く方法がある」と言ったトニーの言葉に驚くと同時にここがワカンダではなくニューヨークにあるアベンジャーズの基地であると知らされる。冷凍カプセルごとバーンズを輸送させたらしい。緊張し周囲を警戒すると、トニーは思い出したように「ロジャースには許可済みだ」と言った。アベンジャーズの決別があったあの戦いからまだ一年しかたっていないことも聞かされたバーンズは、なおさら不思議でたまらなかった。

(なぜ、トニー・スタークが――

 基地にはスティーブ、サム、ワンダといった顔ぶれはなかった。裁判がもたつき思うように進んでいないとトニーが説明した。海の上のラフトから脱獄した彼らは重罪を犯した犯罪者だったが、ジモが逮捕され騒動の裏側が報道されると裁判の声が高まった。キャプテン・アメリカを犯罪者にはしたくないという民意もあるだろうが、ロス長官がソコヴィア協定のサインを条件にスティーブたちの罪を軽減すると提示した。つまり、スティーブが協定にサインすれば裁判で堂々と汚名返上もできるという。彼らはそのサインを渋っているため、今はまだワカンダに匿われている。

 さらにバーンズも無関係ではなく。というよりバーンズが重要で。洗脳の解除をトニーは自ら買って出た。トラウマを克服する装置の開発は彼自身のものだったが、どういう巡り合わせかバーンズの洗脳解除に応用できると確証したのだ。

 バーンズは自身の脳内を覗かれるような感覚がして終始落ち着かなかったが、トニーが立ち会う時のBARFの起動のほとんどがハワードとの記憶に繋がるため、いっそ殺してくれと毎回口走りそうになる。

 自身も忘れていた記憶だ。それなりに気さくに話す相手だった。ハワード・スタークは同世代の中でも奇抜な存在だった。バーンズも彼の作業場に何度も足を運んだことから彼との会話を楽しんでいたのだろう。共に戦地に向かう戦友とはまた違う意味でハワードもまたバーンズの戦友と変わらなかった。そんな彼を己はこの手で殺したのだとそれが現実だと狂おしいほどに思い知らされる。ハワードの息子の前で。さらに悪いことに今日のような――彼に関わるような会話をハワードと交わした記憶を覗かれたら――

「私が女性じゃなくて良かったと心底思うよ。父を殺した暗殺者のフィアンセになるところだった」

 これである。

 言葉は皮肉だが無感情に聞こえたそれは余計にバーンズの胸を締め付け、まるで鋭いナイフで抉られるような感覚を味わった。もうどんな顔して彼を見れば良いか分からない。
 この世の終りのような顔をしていたのだろうか。トニーは少し間をあけてから付け加えた。
「私は作るのも直すのも得意だ。君の洗脳も解除できる」
 バーンズの不安を取り間違えていたが、「安心しろ」と小声で呟かれた声はしっかりと耳に届いた。向けられた言葉の変化に少し驚いた。顔を上げると、不服そうに眉根を寄せているが彼もバーンズに対してどういう顔をすれば良いのか分からないでいる。それに先ほどの言葉は覚えがあった。バーンズは上体を起こしトニーを見つめた。
「作るのも直すのも得意なのか」
「あ、ああ……
 トニーは聞き返されるとは思いもよらず油断したように一瞬、目を丸めて頷いた。バーンズは目を細める。目が覚めたときからそうだったが。トニーはできるだけバーンズに感情を漏らさないよう無表情を徹していた。おそらく、そうしなければシベリアで見せた怒りが吐露するのだろう。バーンズはそれでも良いと思っている。その胸の内の蟠りを全部俺にぶつけて欲しいと心底思う。そんな無感情な顔ではなく。本当ならもっと表情が豊かだったはずだ。瞬くたびに長い睫毛が上下に揺れ大きい瞳を際立たせる。口元を少し綻ばせれば皮肉の言葉ももっと愛嬌があるものになる。
(きっと笑った顔はもっと――
 思わずバーンズは喉を震わせた。

 それでも自分に向けられることは一生ないと気付いたからだ。



   ×   ×   ×



「なんだこれ」

 バーンズは元の形を成していないライフルを見やって怪訝に眉を寄せる。手に馴染んでいたライフルだったが、戦地での激戦で破損してしまったのだ。ハワードが直すと言ってからしばらく経ちバーンズの手元に戻ってきたのがこれだ。どこに引き金があるのかも分からない代物になっている。バーンズが乱暴に持ち上げると、ハワードが「腕が吹っ飛ぶぞ」と物騒なことを言った。銃弾の威力を倍に作り替えたと説明する彼にバーンズは目を細め睨んだ。流石にその視線に憤りの念をくみ取ったのか、ハワードはわざとらしく咳をすると少し言い淀む素振りを見せる。
「うん、実は作るのは得意だが、直すのは苦手なんだ」
「は?」
 思わずマヌケな声を出してしまったバーンズは自身でも気を抜きすぎだと小さく舌打ちする。それよりもハワードのいい加減すぎる技術に政府はいくら金を払って自由に作業させているのだと心底不安になる。
「だが、問題ないだろ? 改良したんだから」
 おどけた様子でハワードが言うものだから、バーンズは至極真面目に答えてやった。
「いや、前のが良い」
 自分のオーダーは直すことで改良ではないと続ければ、ハワードは「冗談が通じないやつ」だとげんなりしてから別のケースからバーンズのライフルを取り出した。
「君のはこっちだ」
 一度ばらしてから作ったと言うと、スコープの部分を指し「前のより標準を合わせやすくした」ここは改良しても文句はないよな? とバーンズに顔を向けた。ライフルを受け取り、構えてスコープを覗く。確かに以前のより望遠鏡が高性能だ。これなら遠くの敵も一発で仕留められ、こちらの姿も確認されないだろう。
「お前は天才なのかマヌケなのか分からん」
「よく言われる」
 言いながらハワードは最初に見せたライフルもどきを頑丈そうな黒いケースに押し仕舞う。
「それは失敗作なんだろ? 処分しないのか?」
 不審に見つめるバーンズの視線に気付いたのかハワードは苦笑した。
「ああ……失敗でも僕が作ったから息子みたいなものだ。“悪い子”でも処分はできない」
 奇妙な言い方をする。顔を顰めるとハワードと目が合う。彼は笑ってから、
「僕が作る物はほとんどが“悪い子”だが、処分するのを押し留まってしまうのはいつか違う形で“良い子”になるんじゃないかって、その時のために大事に仕舞っておくんだ」
 などと言うのだから呆れてしまう。
……お前、将来は絶対子煩悩だな」
 これは間違いない。そして愛し方を間違えて子どもに嫌われるタイプだと密かに思う。
「それでもな、バーンズ。元に戻らないってことはない。前より良いものが作れるかもしれない。だから君が壊した関係も修復できる」
 聞き流していたバーンズは、次第にハワードの言葉に違和感を覚える。なんだそれは? そんなことを彼は言っていただろうか? と顔を上げると目を見開いた。
 見慣れた同年代のハワードの姿がすっかり70代の年齢に変化しているではないか。
 白髪と気苦労を覗かせる瞳と若いころに見せた軽率な態度は身を潜めている。最期に見た彼の姿と重なりバーンズは戦慄する。一歩、二歩と後ずさりするとデスクに足が当たりそれ以上遠ざけられない。自身の動揺とは裏腹にハワードは実に穏やかだった。何か言わなければと思った。謝罪の念だろうか、懺悔だろうか、懇願か、釈明か。どれも自分が口にするには分を超えているし、今さら赦してもらおうなどと考えることさえ――とガクガクと足が震えだすとハワードがそっと距離を詰める。

「バーンズ軍曹、私の息子は私より天才だから大丈夫だ」
 いっそさわやかに破顔してバーンズと対面するハワードがそこにいた。どうしてそんな顔を俺に見せるんだ。目が霞む。見ている光景が歪むのは泣いているからか。
……なにが、大丈夫……だと言うんだ……っ」
 やっと紡ぎだしたのはそんな言葉だ。掠れた声は涙声で情けなくバーンズは右手で目元をおさえる。反対側の腕がなくなっていた。

「私と違って直すのは得意だから」


   ×   ×   ×



 咄嗟にベッドから身体を起こした。今度は夢だったようだ。大きく息をついて片方の腕で顔を撫でた。元々寝つきは悪い方で悪夢ばかりが精神を蝕むようになってから寝るという行為から遠ざかっていた。睡眠ではなく冷凍の方が楽だとも思い始めてから、トニーの管轄下のタワーに住居を置いてからは悪夢は遠ざかった。だが、穏やかな夢は逆にバーンズの胸を焦がすばかりで救いにはならない。
 涙の痕を拭うと情けない顔になっているだろう面構えを洗面台へ行き洗い流す。すっかり目が覚めてしまったバーンズは備え付けの時計に目を向ける。深夜の3時だ。再びベッドに入るのも気が削がれ、喉の渇きを覚えたバーンズはリビングへと向かった。タンクトップにスウェットパンツという格好で下の階に降りたが、もちろん誰もいないので勝手気ままにキッチンへと足を運ぶ。電気をつけ、冷蔵庫を開けた。ボトルに入ったミネラルウォーターを取り出した。キャップを開けようとして手が止まる。今は片方の腕しかないのを忘れそうになるも、バーンズは片方の手でボトルを押させつつキャップをひねった。力が入りボトルを派手に倒してしまい中に入っていた水は半分以上こぼれた。「まずい」と咄嗟に布巾を取ろう腕を回すと側にあったグラスに当たりキッチンカウンターから落ちる。静かなリビングに響き渡る音と共に、床に破片が散らばるとバーンズは顔を歪めた。溜息をついてから頭をかく。自分がこんなに手際が悪いとは思わなかった。磨き上げられた床が水浸しであるしグラスの破片で悲惨な状態だ。
 モップを取りに行こうと二歩進んだところで立ち止まる。まだタワー内の設備を把握していないバーンズはモップの場所すら知らないことに気落ちした。どうするか立ち往生していると、床の上を何かが引きずる音と共にアームがキッチンカウンターを覗きこむように割り込んできた。ギョッとして身構えたが、すぐにトニーのラボで見かける不器用アームだと気付く。
 不器用アームはモップを持ち、床の上を擦り付けている。グラスの破片がモップの動きに合わせてゴシゴシと床を擦っているようで、掃除しているのか床に傷を付けているのか分からない。
「お、おい」
 バーンズは「やめろ」とアームが持っていたモップを取り上げた。自分の仕事を取り上げられたことが気に入らないのかアームはモップのハンドルを掴み引っ張る。見た目より引っ張る力が強く一瞬目を見張ったが、それでもバーンズが力任せに取り上げれば今度は意地になった子どものように尚もバーンズに取り上げられたモップをアームが掴もうと躍起になる。
 不器用アームとモップの取り合いになったバーンズはその様子を見ていたトニーに全く気付かなかった。
「何やってるんだ?」
 背後にかかった声は呆れと少し柔らかな笑みが含まれ、振り返ると鼓動が高鳴るのをバーンズは感じた。トニーが壁に凭れかかりながら腕を組んでこちらに目を向け一瞬微笑しているように見えたからだ。ベッドから起き上がってきた格好には見えないトニーはYシャツとスラックスパンツで仕事を終えジャケットを脱いだラフな感じだ。この時間帯まで起きて何の仕事だと一瞬思うも、初めて見る無表情以外の顔の変化に目を丸める。だがそれも一瞬のことでトニーの目から笑みが消えた。視線はアームからバーンズの片方の腕に移ると小さく溜息を吐くのが聞こえた。
「ダミー、そこは良いからラボに戻ってろ」
 トニーがそう言うと先ほどまでバーンズが持っているモップを執拗に追っていたダミーは、シュンと落ちこんだように自身のアーム部分を下げるとトボトボとキッチンカウンターから出て行く。人工知能が搭載していると聞いたが見事なものだとバーンズはぼんやりと思った。
「それから君のことだ」
 突然こちらに向き直ったトニーにバーンズは驚いた。片手でモップを持った姿を一瞥してからトニーは続けて言う。
「そろそろ必要になるだろうと思っていたから――そこが片付いたら君もラボに来てくれ」
 バーンズを置いて先に下の階にあるラボへと踵を返すトニーの後ろ姿を見つめながらバーンズは、胸に宿る僅かな期待の存在に動揺する。床に膝を付き、グラスの破片を拾いながらさっさと済ませてトニーが待つラボに出向こうと逸る気持ちを抑え込んだ。

 トニーのラボの扉の前まで来たバーンズはガラス張りになっている向こう側のトニーを見やった。こちらに背を向けて作業しているふうだったが、セキュリティシステムのAIが知らせたのだろうかバーンズに気付くと扉が開いた。

 作業場に入ると意外と綺麗に整頓されており、紙類の書類がデスクに積み重なっていることもなく全て電子で管理しているのだろう。ハワードの作業場を何度か見たことがあるが机の上は必要なのかどうなのか分からないガラクタが置かれていたことを思い出せば、トニーは随分と効率的で道理に合った仕事をこなす。

 バーンズは机の上に置かれている骨組みの片方の腕を見つめ「あ、」と声を漏らした。

「いつまでも片方では不便だろ。まだ完成していないが、普通に生活するには困らないはずだ」

 付けてみるか? と聞くトニーにバーンズは自分でも情けないほどに声を震わせる。新しい自分の義手だ。昨日今日で突拍子もなく作ったわけではないそれは、トニーが仕事の合間に取りかかっていたのだと分かる。
「な……んで」
 トニーは首を傾げた。
「ずっと義手を付けていただろ。片方の腕じゃ慣れていないのは丸わかりだ。また今日みたいに食器を割られては困る」
「そうじゃなくて……俺のために、そんなことまで」
「あんたのためじゃない」
 バーンズの言葉を遮るようにトニーは鋭く言った。そうして、無くなったバーンズの腕を指差す。
「吹っ飛ばしたのは私だからな。新しいのを付けるのは当然だろ」
 父を殺した腕ではなく、これから罪滅ぼしの道を生きる上で必要な腕を付けると言った。
「私の専門ではないが、君の腕もじき直せる。ティ・チャラ陛下にも協力してもらってヴィブラニウムを少し装備すれば前の義手より良いものができる。きっとあんたはスティーブと同じで戦ってないと生きていけないだろ。普通の義手じゃ都合が悪いだろうからもう少し――ん? 聞いてるのか?」
 ずっと黙ったままのバーンズに気付いてトニーが顔を覗きこむ。眉根を寄せ怪訝にこちらを伺う素振りに、また新しい表情を見たとバーンズは密かに胸を弾ませた。義手の装備について普段より多く喋るトニーの声は機嫌が良く、めったにバーンズの前では晒さない表情だ。話の内容は半分も理解できないが、ずっと聞いていたいと耳を傾ける。隣で話すトニーの顔を注意深く見つめれば、彼の目元に濃い隈があった。間近で見つめることなどなかったので今まで気づきもしなかった。そうして気付いたのだが彼は――とバーンズは不安に顔を歪め口を開く。
「あんたはいつ寝てるんだ」
 思わず呟いた言葉はトニーの何を驚かせたのか目を丸め一瞬、言い淀む。
……君には関係ない」
 トニーが言うとすぐに天井から女性の声で皮肉が飛んだ。
『今日で80時間不眠更新です』
「フライデー、ミュート!」
 苛立たしく息を吐くトニーは側にあったスツールに腰掛け乱暴に髪をかきあげると、ふと苦笑してみせる。バーンズは目を細めた。
……君にまでそんなことを言われるとは」
 君にまでとはどういう意味だろうか。バーンズは頭を巡らせたがすぐに考えるのをやめた。誰かと比較されたと勘付いたからだ。俯いて掌で顔を拭うトニーをジッと見つめていると腕を伸ばしそうになり、咄嗟に握りしめてその衝動を抑え込む。
「ここに来てから俺の方がよく眠れている。……スティーブは何も言わなかったがあんたは働きすぎだと俺は思う。義手の件は本当に感謝しているが、それは後回しにして寝てくれ。頼む」
 ようやっと紡ぎだした言葉は精一杯の懇願だった。自分でもよく喋った方だと思う。バーンズはふとトニーを見るが、顔を俯かせているので表情まで窺えなかった。
「最悪だ。君に心配されるなんて。ということは私は相当、酷い顔をしているんだな」
 トニーはそう言って、今度は両手で顔を覆った。一瞬、泣いているのかと思ったのは肩が震えていたからだ。だが、次第に呼吸が荒くなると悪態をつく言葉が漏れた。
……っ、ああ、っくそっ! こんな、……ときに」
「おい! ……スターク?」
「うるさい」
 過呼吸のようだったそれはすぐに治まったが、突然息の仕方を忘れる状態になったことの方が深刻だ。先ほどの会話の中で何がトニーの精神を不安定にしたのかバーンズは眉を寄せる。知らずに伸びた腕はトニーの肩に触れる寸前だった。 
「触るな」
 鋭く言い含んだ言葉はバーンズが伸ばした腕をピタリと静止させる。トニーは一向にこちらに顔を向けずに掠れた声で呟いた。
「君が良いやつなのは充分わかった……から、……しばらくひとりにさせてくれ」
 バーンズは伸ばしていた腕を下すと、そっとラボから出て行く。結局、己は彼を逆撫でする存在でしかないのだと顔を歪める。


 やはりハワードは子煩悩だ。
 大丈夫だと言っても結局トニー自身の救済にならないではないか。あんなに自分を蔑ろにして他人のために――どこを見て大丈夫だと言うのか。


 バーンズは自室に戻るとベッドに腰掛けたまま先ほどまで側にあったトニーの顔を思い出す。自分と不器用アームを見つめていたとき、自分の顔を覗きこんだとき、幾分明るく新しい義手について話していたとき、ほんの短い時間だったがバーンズにとっては彼が見せる貴重な表情が転がり込んできてずっと続けば良いのにと、なんとも都合の良い考えが過った。

 そんなことあるわけないのに。

 彼は直すのも得意だと言った。

 だが、彼自身の傷ついた心は誰が直すのだ?


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