しお
2026-07-26 11:37:12
6054文字
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コスプレ(ささろ)

カフェ衣装の撮影日のささろ。

 長く、人差し指の先から一センチほど突き出した爪がテーブルにぶつかる。カツン、と軽い音に反して爪の付け根に響く衝撃は思いのほか大きく、盧笙は咄嗟に手を跳ね上げた。それから、今度は慎重にそろそろと手指を動かし、ようやっと水のペットボトルを掴む。そうっとそれを持ち上げたところで、重たく息を吐いた。
 盧笙は、仰々しい衣装に包まれた自分の身体を見下ろした。装飾の多いスリーピースの上から裾の長いマントを羽織り、胸元にはクラバットをつけた上、両手の十本の指には長い付け爪が装着されている。衣装の生地は肌触りがよく、付け爪もテーブルにぶつかった衝撃程度では外れそうな気配もない。本格的な仮装を施された自身を省みて、どうしてこうなったのだろうと、事の経緯を思い返す。
 発端は、今度オープンする池袋のカフェで行われるという催し物に関する依頼だった。ファイナルディビジョンラップバトル決勝戦の出場者に、ハロウィンをイメージした衣装を着せた写真を撮影し、そのカフェの期間限定のコンセプトとして何やらいろいろやるという。企画については簓からもう少し詳しい説明を受けたのだが、その時は軽く酒も入っていたし、カフェやら何やらという流行り物に詳しくないという盧笙自身の自己認識も手伝い、ほとんど記憶に残っていない。辛うじて覚えているのは、簓に向かって「芸能人のお前はともかく、数学教師と詐欺師のおっさんのコスプレ写真て、誰が欲しがんねん!」と膝を叩いて爆笑しながら快諾したことだけだ。
 需要や必要性は飲み込んでいないものの、快諾したのは自分自身なので、盧笙は後日連絡された指定に従って上京し、都内のスタジオにやってきた。スタッフに案内されるままたどり着いた控え室には見慣れた二人ではなく、シンジュクディビジョン・麻天狼の神宮寺寂雷と、ナゴヤディビジョン・Bad Ass Templeの四十物十四がいた。すでに二人とも、衣装の着つけを開始していた。
 盧笙が二人に挨拶をするよりも早くスタッフの手が伸びてきて、あれよという間に、てきぱきと衣装が整えられていく。その合間に、今回は衣装のテーマごとに似合いそうな人を選んでいるため、三人一組ではあるがチームはバラバラになっていることの説明を受けた。あ、そうなんですね、などとぼんやり答えているうちにメイクを施され、気づけば盧笙はストロボライトの光を浴びていた。撮影から三十分ほど経ったはずの今もまだ、目を閉じるとフラッシュの瞬きが瞼の裏で炸裂するほどの閃光が、何度も盧笙の上に浴びせられた。
 撮影は恙なく終わり、三人連れ立って元の控え室に戻った。直前まで三人の周りを取り囲んでいたスタッフは、もう次のグループのところへ行ってしまったため、撮影が終わった後でようやく三人は落ち着いて挨拶することができた。
「撮影はあっという間だったのに、なんだか疲れましたね。まるで緊急オペのような緊張感でした」
「いや、例えわかりませんて! 素人は緊急オペの緊張感知らんねん!」
 寂雷の呟きに思わずツッコんでしまったところで三人の雰囲気は一気に緩んだが、仕事は既に終わっている。寂雷は天才外科医の器用さを発揮したものか、難解な衣装からあっという間に着替えて、最後に二人に声をかけてから出て行った。十四によれば、おそらく獄と会うのではないか、とのことだった。獄とは撮影後に落ち合い、空却とも合流して三人でナゴヤに帰る約束をしているが、待ち合わせの時間までは別の用事があるから呼び出すなと言われているらしい。
 そういう十四も、バンドの活動で似たような服を着た経験が何度かあると言って、手際よく装飾を外していく。その隣でパイプ椅子に腰かける盧笙は、未だに衣装を着込んだままだ。マントすら外さないまま、付け爪に苦労しながらようようペットボトルの蓋を回し、水にありついたところだった。
「盧笙さん、大丈夫っすか? 疲れちゃいました?」
 喉を鳴らして水を飲む盧笙に、十四が心配そうに声をかけてくる。振り返ると、十四もすっかり普段通りの服に着替えていた。
「もし脱ぐのが大変なら、自分、お手伝いするっすよ!」
 重ねられた十四の気遣いに、盧笙は笑って首を振った。
「しばらくこのままでええねん。俺もこの後簓と落ち合って、ここら辺で飯食うてからオオサカ帰ろかって話しとるんやけどな。あいつ、コスプレしとるとこ見たいから着替えんと待っとけ、言うねん。ちょうど簓たちの番が俺らの次なんやって」
「そうだったんっすね! なら、それまで何か物を取ったりするのをお手伝いしましょうか。その爪つけてると、何にもできなくなっちゃうっすよね?」
 これにも盧笙は首を振った。
「ありがとう。けど平気や。俺のことは気にせんでええから、時間があるならどっか行きたいとことか行ったらどうや? せっかく東京におるんやし、十四くんもやりたいことあるやろ」
 促してやると、十四は少しためらったような表情を浮かべたが、しばらくしてから微笑んだ。
「それなら、自分はお先に失礼するっす。今日はありがとうございました!」
 十四は盧笙に向けて深く頭を下げてから、控え室を出て行った。盧笙が一人きりになった途端、テーブルに置いたスマホが振動した。ぱっと点灯した画面に新着メッセージが浮かび上がる。簓からだった。
『俺らも撮影終わったで! 盧笙の控え室どこ?』
 メッセージの内容にほっと息をつく。ようやく、盧笙もこの窮屈な衣装から解放される。早く済ませたい一心でスマホを取り上げようとしたところで、長い爪に阻まれた。爪のせいで、スマホまで指が届かず、取り上げることができない。二、三度試してみても、できない。指はダメだと見切りをつけ、腕を使ってどうにかこうにかスマホの位置をずらし、テーブルの端から手のひらの上にぽとりと落とすやり方でなんとかスマホを持つことができた。
 盧笙が四苦八苦している間も、簓からは次々とメッセージが届いていた。急いで返信しようとするものの、今度はろくに画面操作ができないという問題にぶち当たった。画面ロックを外すことすらできない。もたもたしていると、簓のメッセージのペースがどんどん早まっていく。
『返事してやー』
『おーい』
『どこおんの?』
『控え室の場所わからんから説明できひんとか? 部屋番号みたいなんどっかにない?』
『ほんまにどないしたん? スタジオん中にはおるやんな?』
『何かあったんか?』
『誰かと一緒におる?』
『もしかして浮気中?笑』
 んな訳あるかい何の想像してんねん、と悪態をつきたくなるものの、一向に状況は進展しない。それどころか、焦ってスマホを取り落としてしまった。ごとん、と重たい絶望の音と共に、スマホが床に横たわる。
 盧笙は途方に暮れてしまった。さっき、テーブルの上から持ち上げることすらできなかったのだ。床からなんて到底拾えるはずもない。スマホは未だに振動を続けているが、落とす時にひっくり返ってしまったので背面が上向きになっている。これでは、簓のメッセージの文面を読むことさえできない。
 その時、忙しないノックがドアの向こうから響いた。盧笙がそれに応えるよりも先に、ドアが勢いよく押し開かれる。
「盧笙!? ここか!?」
「簓ぁ! ええとこ来た! スマホ拾って!」
「へっ!? スマホ!?」
 控え室に飛び込んできた簓の顔を見るやいなや、盧笙は床を指差して頼み込んだ。簓は呆気に取られたような顔をしつつ、キョロキョロと周囲を見渡しながら盧笙に近づいてくる。
「どこにあんの?」
「ここや。床に落としてもうたんやけど、爪がこんなんやから拾えへんねん」
「うわっ、なっがい爪やな~! 付け爪ってそないに長いのあるんや。ギャルやん」
 そんなことを言いながら、簓は身を屈めてスマホを拾って盧笙に差し出してくれる。拾ってもらったスマホを両手で慎重に受け取りながら、盧笙は訂正した。
「ギャルやのうて吸血鬼や。せやけど確かに、ギャルの子らは長い爪しとるのにスマホもすいすい操作するよな。コツとかあんのやろか? 俺なんか画面ロックすら解除でけへんかったわ。水飲むだけで精一杯や」
「ちょお、ここでやってみて。画面ロック解除」
 盧笙のぼやきをスルーして、簓がリクエストする。言われた通りに簓の目の前でスマホの操作を試みてやった。指の腹がスマホ画面に到達する前に、画面に爪が弾かれてしまい、パスコードすらもなかなか打ち込めない様子を目の当たりにして簓が頷く。
「なるほどなぁ、これのせいで返事くれへんかったんやな。ほんまに浮気しとるんかと思て焦ってもうたわ」
「アホちゃうか、こないなとこでそんなんするわけないやろ。だいたい相手は誰や」
「わからへんやん、吸血鬼って女の子をぽーっとさせて血ィ吸うんやろ? お前見てぽーっとなってもうた女の子とか連れ込んどるかも。こんなに綺麗な吸血鬼なんやから」
 盧笙のスマホを持つ手を覆うように、簓が手を重ねる。何気ない行動のはずなのに、手の甲を撫でる動きに何やら含みを感じてしまって、盧笙は狼狽えた。
「簓……?」
「見れば見るほど綺麗や。よお似合てる。この衣装考えた人天才やな、この世のものとは思えへん」
「それは化粧のせいやろ。血色悪い感じになっとるから」
「そういうんとちょっとちゃうけど、まぁそれも含めてプロの技やなー。な、口開けて見せて。牙も生えとる?」
 乞われるままに口を開けてやる。作り物の牙が唇に触れて外に突き出しているらしい感触がある。そこを簓がしげしげと眺めるので居心地が悪かった。早く口を閉じてしまいたいのに、簓は興味津々といった様子で盧笙の口に指を伸ばしてきて、牙を軽く撫でる。簓の指が触れている感覚が、プラスチックを通してわずかに届く。
「こっちはコントの小道具とあんま変わらん感じやな。ガポッて填めるやつやろ?」
 牙に触られたままなせいでほとんど身動きの取れない盧笙は、かすかに顎を引いて頷いた。そこから簓はさらに二度ほど牙を撫でて、それでようやく満足したらしく手を離してくれた。そうかと思うと、数歩分後ろに下がって唐突にくるりと一回転する。簓の両肩から垂れたストラがふわりと広がる。
「なぁなぁ、俺のも見てや! 神父様やて!」
 衣装についた紐や布の装飾と、首から提げた十字架を揺らしながら簓が顔を覗き込んでくる。
「まぁ、ええんちゃう」
「反応薄ない!? 似合てへん!?」
「いや、よう似合とるとは思うけど、服より先にお前が神父っちゅう胡散臭さの方が気になってもうて。けど、考えてみたらそっちも似合いやな。口が上手いから信者ガンガン増やせそうや」
「それ褒めとる?」
 簓は盧笙のそっけない感想を聞いて不満げに口を尖らせたが、すぐにまた上機嫌になって笑みを浮かべる。
「ところでこの衣装、コンセプトごとに三人チーム作った上に、その三人チームのうち二つが対になっとるらしいで。天使対悪魔、みたいな」
「へぇ、そうなんか。天使と悪魔はわかりやすいけど、他にそんなバシッと決まるような組み合わせあるか?」
 首を傾げる盧笙の前で、簓は自信ありげにドンと胸を叩いてみせる。
「そら、吸血鬼退治は神父の役割っちゅうのが相場やろ!」
「そうかぁ? そんな話、あんま聞かんけどな」
「ほな、実践したるわ。盧笙、もっかい口開けてや」
 言われた通りに口を開いて、もう一度作り物の牙を見せてやる。何をするつもりかと簓の様子を窺うと、簓は大股で距離を詰め、再び盧笙の顔を向けて手を伸ばしてきた。しかしその手は口ではなくそれよりも少し下に向かい、するりと盧笙の首の後ろに回された。口には、簓の唇が重なる。
「んぅ!?」
 ぬる、と舌が侵入してくる気配に身体を固くする。簓の舌を押し返して抵抗しようにも、作り物の牙が邪魔になってうまくいかない。それならばと身体を押し退けようにも、今度は付け爪のせいで思うように手を動かせない。
 そうこうしている間に簓の舌は好き放題に動き回る。牙が邪魔なのは簓も同じはずなのに、いとも器用に乗り越えて、舌を擦り合わせ頬の内側を撫で、盧笙の弱いところを蹂躙していく。唾液を啜りながら鋭い牙を舌先で愛でられると、盧笙の身体に生えているものではないはずなのに、腰にぞくりと不穏な痺れが走った。
 まずい、と倫理観が警鐘を鳴らす。こんな、いつ誰が来るかもわからないところで耽っていい戯れではない。焦った盧笙が身を捩ると、簓はあっさりと盧笙を解放した。付け牙の裏側に舌を引っかけ、それごと盧笙の口の中から退散していく。
 簓は奪った付け牙を手に取り、自慢げに盧笙の前に掲げて見せた。
「ほら、退治」
 それからプラスチックの牙を無頓着にテーブルの上に放り投げ、盧笙の頬を撫でる。
「牙も抜けてもうたし、真っ白だったほっぺたも真っ赤や。これでもう、盧笙は吸血鬼やないなぁ」
「アホちゃう、お前……
 息を乱したまま、唾液で濡れた口元を手の甲で拭いながら盧笙は吐き捨てた。簓の視線が付け爪に留まる。
「ああ、爪も外さなあかんな。それ自分一人で取れへんやろ? 手伝ったるから、そこ座り」
 まだキスの余韻でぼうっとする盧笙を置いて、簓はてきぱきと動き出した。盧笙の手をあちこちに動かして、付け爪の根元をいろいろな角度から観察し、「粘着シールでくっついとるだけか。ほな、べりっと剥がすしかなさそうやな」などと呟いて自己完結すると、丁寧な手つきで一枚ずつ剥がしだした。牙の隣に、剥がされた付け爪が放り出される。
 右手の爪が全て普段通りに戻ったところで、ぽつりと簓が零した。
「この衣装、どこに言うたら買い取らせてくれるやろ?」
「こんなん買うてどないすんねん。毎年これでハロウィンパーティーする気か?」
「それもええな! けどまず最初にやりたいんは、吸血鬼退治プレイやな」
……はぁ?」
 会話の間も、簓は着々と爪を取り除いていく。十本目の付け爪をテーブルに転がすと、一番最後に元に戻った盧笙の左手小指の爪を、ゆっくりと愛おしそうに撫でた。
「その服、最後の一枚まで俺の手で脱がして、俺のもんにしてまいたくなったわ」
 不意打ちでちらつかされた欲の断片に、その密度に盧笙は思わず息を呑む。その隙に簓はぱっと表情を変え、盧笙から手を離して立ち上がった。
「ほな、俺も着替えてくるわ! お互い早よ人間に戻って飯食い行こうや。この近くに目ぇつけた店あんねん!」
 また後でな、と手を振って出て行く後ろ姿を、何も言えないまま見送る。控え室に一人になったところで、ようやく盧笙は詰めていた息を吐き出すことが出来た。
「神父はずっと人間やろ……
 受け取る者のいないツッコミは、偽物の牙と爪の上を素通りして消えていった。