yoAi_mochii
6170文字
Public R18
 

【カム日】静寂というノイズ

072の日/未来機関パロ/感覚・精神共有描写あり

夜は、とっくに更けていた。
復興作業を終えて部屋へ戻った日向は、ベッドへ身体を沈めるなり、大きく息を吐いた。
今日一日だけでも瓦礫を運び、資材を仕分け、人手の足りない現場を何度も行き来した。
肩も腕も鉛のように重い。目を閉じれば、そのまま眠りへ落ちてもおかしくないほど疲れている。

それなのに。

……寝られねぇ」

ぽつりと漏れた声は、静かな部屋へ吸い込まれていった。
疲労とは裏腹に、頭だけが異様なほど冴えている。

いや――冴えているのとは違う。
――うるさい。

かち、かち、かち。
壁の向こうで、時計の秒針が規則正しく時を刻んでいる。
壁際の空調が送る風は、一定の周期で羽根の角度を変えていた。微かな風圧の差が、頬の皮膚を何度も撫でていく。
シーツが呼吸に合わせて胸元を擦るたび、繊維一本一本の感触がやけに鮮明に肌を刺した。

自分の鼓動。血液が流れる音。
肺へ空気が満ち、吐き出される音。
どれも本来なら意識の底へ沈んでいるはずの情報が、まるで耳元で囁かれているように途切れなく押し寄せてくる。

……っ」

耐えかねて眉を寄せ、逃げるように目を閉じる。
それでも、世界は少しも静かにならなかった。
むしろ、視覚という情報が失われた分だけ、それ以外の感覚がさらに輪郭を増していく。

(なんだ、これ……。)

最近になって、時折起こる奇妙な夜。
日中は気にならなかった。人の声も、足音も、工具の音も、瓦礫を運ぶ重機の振動もある。あらゆる刺激が混ざり合い、意識は自然と作業へ向いていた。
だが夜は違う。静かになればなるほど、世界が細かくなりすぎる。

『眠れませんか』

その瞬間、頭の奥で静かな声が響いた。
感情の起伏をほとんど削ぎ落とした、聞き慣れた声。
日向は小さく息を吐いた。

……起きてたのか」
『正確には、眠っていません』
「相変わらずだな、そういう言い方」

苦笑しようとして、途中で止まる。
いつもの軽口を返しそうになった喉元で、ふと、ある違和感が引っかかった。

「その……これ、お前のせいなのか?」

短い沈黙。
肯定とも否定ともつかない静寂が、意識の奥へ沈んでいく。
少し間を置いて、カムクラは淡々と答えた。

『正しくは、僕の影響です』
『あなたの脳は僕と統合されたことで、時折、僕が処理している感覚情報の一部を共有します。触覚、聴覚、温度感覚、圧覚。通常なら無意識下で整理される情報まで、あなたは受信しています』

日向は重い瞼を開け、暗い天井を見上げた。

……だから、こんなにうるさいのか」
『ええ』

返事は拍子抜けするほどあっさりしていた。
まるで「少し雨が降ってきましたね」とでも言うような、他人事の口調。

「お前……いつもこんな世界を見てるのか」

再び沈黙が訪れる。
今度は、先ほどよりもほんの少しだけ長い。

『ええ』

返ってきたのは、たった一言だった。
そこには誇りも、自慢も、卑屈さもない。ただ淡々と事実を述べるだけの、どこまでも起伏のない音。
日向は、その声音の奥にあるものを、初めて想像した。

世界が退屈なのではない。
世界が、あまりにも多すぎるのだ。
静かな夜ほど、その膨大な情報は逃げ場を失い、容赦なく降り積もっていく。
こんな世界を、カムクラはずっと――一人で見続けてきたのだ。

……いつも、平気なのか」

日向は天井を見つめたまま、小さく問いかけた。
返事はすぐには返ってこない。
カムクラは沈黙すら無駄なく選ぶ人間だ。その間にも何かを解析しているのだろうと、日向はもう知っていた。
しばらくして、静かな声が響く。

『平気ではありません』
「え?」

まるで予想していなかった返答に、日向は思わず聞き返した。

『正確には、慣れています。常時流入する感覚情報は、僕にとって前提条件です。処理能力で補っていますが、完全に遮断することはできません』
「そんなものなのか……
『例えば今も』

カムクラの声は少しも揺らがない。

『窓の外を飛ぶ昆虫の羽音が二種類。廊下の照明は〇・七秒周期で微弱な電圧変動を起こしています。あなたの左手は右手より一・二度ほど温度が高い。心拍は毎分七十二から七十五へ緩やかに変化しています』
「やめろ。聞いてるだけで頭がおかしくなりそうだ」

思わず遮る。

『その程度ですか』
「その程度じゃねぇよ」

日向は顔を覆って深く息を吐いた。
カムクラはそれ以上何も言わない。
否定もしない。慰めもしない。
ただ事実だけを並べるその態度が、かえって胸の奥へ重く沈んでいく。

……だから、お前は退屈なのか」

ぽつりと漏らした問いに、カムクラは静かに答えた。

『少し違います。情報量が多すぎる状態では、一つ一つの刺激は意味を失います。強い刺激も、弱い刺激も、次第に同じ情報として処理される。結果として、世界は均質化します。それを、あなた方は退屈と呼ぶのでしょう』

日向は目を閉じた。その説明は、いかにもカムクラらしい。
感情ではなく、現象として語る。苦痛ですら、解析結果の一つに過ぎないように。

……お前、本当に損な性格してるよ」
『性格ではありません。事実です』
「そこだよ」

思わず苦笑が漏れるが、その笑いも長くは続かなかった。
鼓動はまだ耳の奥で鳴り続けている。
シーツの擦れる音も、空調の風も、皮膚を流れる血液の感覚さえ消えない。

「これ……どうすれば静かになる?」

その問いに対し、カムクラはまるで待っていたかのように答えた。

『方法はあります』

日向はゆっくりと身体を起こした。

「本当か?」
『はい。脳は、一定以上に顕著な刺激を受けると、優先順位の低い感覚情報を抑制する傾向があります。言い換えれば、この膨大なノイズは、より明確な入力によって一時的に整理できる可能性があります』
……それ、お前が考えたのか?」
『いいえ。神経活動の性質から導き出した、ごく一般的な仮説です』
「その言い方だと、もう試したことがあるみたいに聞こえるぞ」

短い沈黙。そして、カムクラは淡々と言った。

『理論上は有効ですが、一人で検証するには効率が悪い』

その言葉の端に、ほんのわずかな間が生まれる。

『あなたが協力するのであれば、実験として成立します』
……またお前の思いつきか」

呆れ半分に呟くと、カムクラは即座に訂正した。

『思いつきではありません。検証です』

そのあまりにも真面目な返答に、日向は額へ手を当てた。
呆れたように息を吐きながらも、その溜め息に嫌悪や拒絶は混じっていない。
むしろ、こうして理屈だけを盾にこちらへ踏み込んでくるところまで含めて、ひどくカムクラらしいと思ってしまう自分がいた。

「そういうところだけは、本当に変わらないんだな……。で、その『検証』とやらは、具体的に何をやるつもりなんだ」

問いかけると、意識のすぐ隣にあるカムクラの気配が、ほんのわずかに揺れた。
それは迷いというより、説明のために最も無駄のない言葉を選び直した気配に近い。

『脳が処理する感覚の優先順位を、一時的に偏らせます。現在の雑多な入力を上回る、単一で明確な刺激を与え、意識をそこへ集中させる』

そこまで聞いたところで、日向はようやく言葉の意味に追いついた。
暗い部屋の中で、誰に見られているわけでもないのに、胸の奥へ微かな熱が灯る。

……おい。それって」
『あなたが想像している通りの行為です』

あくまで静かな解説だった。羞恥も、ためらいも、期待もない。ただ最も有効な方法を告げているだけの声。それがかえって、日向の意識へ奇妙な熱を残した。

「ったく……お前、本当にそういう言い方しかできないのかよ」

自嘲気味に笑いながら、日向はゆっくりとベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
拒めばそれで済む話だった。だが、カムクラが自分から協力を求めたという事実を、どうしても無視する気にはなれなかった。

……いいぜ。お前のその鬱陶しいノイズが少しでも静かになるってんなら、実験でも何でも付き合ってやる」
『わかりました。では、力を抜いてください』

返事が落ちた直後、意識の境目がゆっくりと溶け始めた。
身体を動かしているのは日向自身のはずなのに、そのひとつひとつの動作へ、内側から別の精度が恐ろしいほど滑らかに重なってくる。

迷いのない指使いがズボンの帯を解き、下着の隙間へと滑り込んだ。
呼吸が乱れ始めても、指先だけは不自然なほど正確さを失わない。
どこへ触れれば神経がもっとも鋭く跳ね、思考が白く焼き切れるのかを知り尽くした、残酷なまでに冷静な導きが、日向自身の手を支配していた。

「っ……あ」

熱を持った皮膚に自らの指先が触れた瞬間、日向の腰が跳ねるように強張った。
ただ刺激が強いのではない。カムクラの持つ解剖学的知識が、説明を経ずにそのまま身体の感覚へと直接流れ込んでくる。
自分では決して選べないほど正確な角度と力加減で、最も過敏な場所を執拗に擦られ、思考の逃げ道だけをあっという間に塞がれていく。

『力を抜いてください。抵抗すれば、余計な感覚情報まで拾います』
「くそ……っ、頭の中で、いちいち解説……すんな、っ……!」
『必要な共有です。……すでに副交感神経の優位を確認。粘液の分泌および心拍数が増加しています』

声には、わずかな熱も揺らぎもない。だが、その冷静さとは裏腹に、下腹部から内側へ積み重なっていく甘い熱は、日向の正気を容赦なく削りとっていく。
自らの指で、自らの最も過敏な部位を暴き立てる背徳。
荒い息を整えようとするたび、その呼吸の周期さえも先回りして読まれ、逃げようとした意識だけが快楽の頂点へと引き戻された。

カムクラが、ほんの少し間を置いて告げる。

――もう、秒針の音は聞こえていないはずです』

吐息混じりの脳内で言われ、日向は初めて気づいた。
あれほど耳元で鳴り続けていた時計の音も、皮膚を刺していたシーツの擦れも、いつの間にか遠ざかっている。

……あ、っ……本当に、消えてやがる……っ」
『理論上は有効だと言ったでしょう』
「こういう時まで……ほんと、可愛げが、ねぇ……ッ」

返事はなかった。たけど、意識の境界が薄くなった今、日向には分かってしまう。
自分の荒い呼吸も、溢れ出る体液の熱も、締め付けるような快感に震える身体も、すべてそのままカムクラへ流れ込んでいる。
そしてカムクラが拾い続けてきた無数の感覚もまた、日向の内側へ滲み出していた。

窓の外を渡る風の揺れ。壁を伝う微かな振動。
どれも完全に消えたわけではなく、ただ肉体を貫く強い感覚の向こう側へ押しやられ、輪郭を失っていた。
この一時的な静寂を、カムクラも同じ場所で受け取っているのだと思った途端、胸の奥が焼きつくように疼いた。

『息を吐いてください。余計なことを考えず、その刺激だけを受け入れなさい』

頭の奥へ響く声は、冷却された機械のように無機質だった。でも、ひとつの脳と身体を共有している今、その冷たさの底に沈むものまで完全には隠せない。

休む間もなく情報が流れ込み、世界は見えすぎるほど鮮明に、聞こえすぎるほど騒がしく開かれている。それなのに、すべてを理解できるがゆえに、どの刺激もやがて同じ重さへ均され、最後には果てのない静寂と退屈だけが残る。

……ずっと、こんなだったのか……っ」
『何を言っているのですか。……動作の精度が落ちます。集中を乱さないでください』
「うるせぇ……! 今くらい、聞いてろよ……っ」

日向は涙で滲む視界のまま、意識の奥底に潜むカムクラを、逃がさないよう強く引き寄せた。
理解したなどとは言えない。ただ一晩、カムクラが見続けてきた世界の一端へ触れただけだ。
だけど、その熱さを知ってしまった以上、もう知らないふりなんてできなかった。

「お前が……うるさいって思う時くらい……俺を、追い出すな……っ!」

日向がその言葉を吐き切るより早く、快楽は限界を超えて膨れ上がった。
カムクラは何も答えなかったが、日向の身体を愛撫していた指の動きが一瞬だけ乱れ、圧力が不規則に強まる。
わずかな乱れはすぐに修正された。
それでも日向にはもう、それを単なる計算の誤差だとは思えなかった。

「一人で……黙って、耐えてんじゃねぇよ……ッ!」

次の瞬間、甘く苛烈な熱の嵐が脳の奥で弾けた。
視界が一面に白く染まり、押し寄せた絶頂の波が、世界に残されていた最後の雑音まで根こそぎ奪い去っていく。
日向の喉から情けない鳴き声が漏れ、張り詰めていた身体が力を失って、ゆっくりとシーツへ沈んだ。

重なっていた二つの意識も、すぐには境界を取り戻せなかった。
激しい呼吸の音だけが暗い部屋へ重く響き、息を吐くたび、どちらのものとも判別できない濃厚な快楽の余韻が、二人の胸の奥深くへ沈殿していく。

やがて、静寂が部屋へ戻ってきた。

目を閉じたまま呼吸を整えていると、無数の情報はまだ完全には消えていないことに気づく。風の流れも、壁の向こうを走る配線の振動も、遠くで誰かが寝返りを打つ音も、意識を澄ませば確かにそこにあるが、先ほどまでのような苦しさはなかった。

……少しだけ、分かった気がする」
『何がですか』

カムクラの声は、いつもどおり平坦だった。
日向は天井を見上げたまま、少しだけ苦く笑う。

「お前が、どうして何を見ても退屈だって言うのか。世界がつまらないんじゃなくて、世界が多すぎたんだな」

長い沈黙が落ちた。
いつもなら、すぐに『正確ではありません』と訂正が返ってくるはずだった。
だが今夜のカムクラは何も言わない。
その沈黙を拒絶ではなく、言葉を探している時間として受け取れるほどには、日向ももう彼のことを知っていた。

「俺はお前にはなれないし、全部理解できるとも思ってない。でも、お前が『うるさい』って思う夜くらい、その隣で一緒に文句を言うことはできる」

それは理屈でも、才能でもない。何かを完全に救えるという約束ですらなかった。ただ、同じ場所に残ることだけを選ぶ、日向創という人間にしか口にできない不格好な言葉だった。

……理解に苦しみます』

ようやく返ってきた、いつもの返答に、日向は小さく笑った。

「だろうな」
『あなたの提案は、合理性に欠けています』
「だからって、撤回する気はないぞ」

再び静寂が落ちる。けれど先ほどまでとは違い、その沈黙はもう、日向を一人きりにするものではなかった。

『ですが』

カムクラはそこで言葉を切った。まるで、自分にも予測できなかった続きを探すように。

……こういう静けさは、悪くありません』

それは解析結果ではなく、初めてカムクラ自身が選んだ言葉のように聞こえた。日向は目を閉じ、小さく息をつく。

「なら、それで十分だ」

予測できないものが、この世界にはまだ残っている。今夜だけは、その事実が、静寂よりも確かな温度を持っていた。