eto_hina
2026-07-21 22:55:26
1550文字
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【口に合わない訳がない】と言う話

名前は出ないけどレノクラ
謎シチュエーション…

 トン。

 そんな小さな音を鳴らして踵が壁を打つ。次いで背中が冷たい壁に触れた。
「(あぁ、逃げられない)」
 逃げる。何から……目の前の男から。どうして?
「(どうして……この先は知らないから」
 下を向く。目に映るのは自分のつま先。土で薄らと汚れて小さな傷が出来ているのが見える。そろそろ買い換えないとかもしれない。頬を風が撫でた。

 トン。

 さっきよりも小さな音が鳴る。音のなる方へ視線を送ると男の腕が壁に。男の腕が?
 ヒュ、と喉がなる。怖い。見ていられなくて視線を下に戻すと、傷だらけのつま先に向き合うように革靴が。誰の……そんなの、目の前の男のものに決まってる。
「(ち、かい、のでは)」
 ぐるぐると頭の中が忙しい、のに。意味のある事は考えられてないのかもしれない。すり、と床を擦りながら革靴が近づく。視界の中に、黒いスーツが映る。やめてくれ。呼吸が上手くできない。は、と小さく吐いた息が震えている。吐く、吸う、もう一度。
 ぎゅ、と目を閉じてゆっくりと開ける。視界の端に男の手が。
 ゆらゆら。迷うように揺れる。腰に触れるのかと思ったら、ぎゅう、と握りこぶしを作ってから上に。そのまま俺の顔の横に置く。まるで逃がさないとでも言うかのように。閉じ込めるように。
「(怖い……苦しい)」
 すり、とまた革靴が動く。大きく開いたシャツ。そこから見える、呼吸と一緒に動く男の胸元。鼻をくすぐる汗と混ざる……香水、だろうか。くらくらする。吐いた息はまた震えていた。
 離れて欲しい。どうしてこんなに近くに来るんだ。視界に映る男の全てが苦しい。見ていられなくてキツく目を閉じる。暗闇の中で黙ったまま動かずにいたら、どこかに行ってくれないだろうか。頼むから。
「ッ、」
 ふ、と首筋に息がかかる。ぞわり。擽ったいような、震える感じがして顔を背けた。そこに触れる、柔らかい、それは。
「ッ、ゃ」
 すり、と男の唇が首に。口付けというには軽く、撫でるというには強い。首筋を辿るように動いてから、ゆっくりと後ろに向かう。ぞわぞわした感触。気持ち悪い……気持ち悪い? 本当に?
 耳の下を通ってすぐ、項《うなじ》に辿り着くギリギリの場所で唇が止まる。ふわりとした感触で開いたのがわかった。何を、と思う間もなく触れたのは生暖かく濡れたもの。
「ぅ、ぁ」
 ヌル、と這う感触がリアルだ。いや、リアルも何も今まさにだった。おかしい、まともな思考にならない。そのくせ舌が動くのはハッキリと感じている。濡れた舌で首をなぞりながら辿り着いた項を、唇が小さく食む。
「も、ゃ、め……
「うん」
「離、せ」
「ん……
 うん、と返事をするくせに。男の唇がゆっくり戻ってきて、顎を撫でる。カリ、と歯が当たり直ぐに舌が。やめてくれ。苦しくなる。顎のラインを唇が辿る。音もなく、一歩ずつ。ゆっくりとした散歩は、男の鼻先がこめかみに触れて終わった。すーと息を吸い、はぁ、と息を吐く。匂いを嗅がれたのに気づいて慌てて目を開くと、視界の端で唇が弧を描くのが見えた。少し開いた唇の奥には、今は見えないがさっきまで首を撫でていた舌が隠れている。
「匂い」
「うん?」
「嗅いだ、の……なんで、だ」
「んん……なんで。なんでかぁ……
 うんうんと唸る、男。もしかして意味がなかったのだろうか。そう思って顔を上げる。目の前には男の顔。ぎゅ、と心臓が掴まれた気がした。
「な、に」
「匂い、嗅ぐだろ」
「嗅ぐ、」
「うん。だって」
 いい匂いだと、美味そうだな、好きだなって思うだろ、と。そう言って口の端に吸い付く男になぜか成程これから美味しく頂かれるのかと納得してしまった俺は、小さな声で「口に合うかわからんぞ」と呟いた。