【松日】本日も、生存を確認

アルターエゴ松田と、強制シャットダウンから目覚めたばかりの日向の話

翌朝、日向が目を覚ますと、病室の壁面モニターから松田の姿は消えていた。
昨夜、眠りに落ちる直前まで残っていた青白い光も、記録を操作する微かな電子音もない。消灯したモニターの中央には、短い通知だけが表示されている。

《本日の定時問診は中止》
《旧式端末より回収した異常信号の解析へ、演算領域を優先的に使用する》
《食事、服薬、睡眠時間は通常どおり記録すること》

その下に、事務的な文面から外れた一行が残されていた。

《勝手に壊れるな、大馬鹿野郎》

……最後の一行、必要か?」

寝起きの掠れた声で呟く。
いつもなら、即座に「必要だから書いた」とでも返ってきそうなものだが、暗い画面は沈黙したままだった。

初めて通信を繋いだ日にも、松田は似たようなことを言っていた気がする。
あの時は、随分と勝手な言い草だと思った。
今も言い方自体は、そう変わっていない。
それなのに、画面に残された一文を、以前と同じように受け流すことはできなかった。

返事を待つように、日向はしばらく何も映していないモニターを見つめていた。
そこでようやく、本当に松田がいないのだと実感した。

「そうか。今日は休みなんだったな……

別に、返事を期待していたわけではない。
日向は誰にするでもなく言い訳し、ゆっくりと上体を起こした。
頭痛は残っているものの、昨日に比べればかなり軽い。身体を動かしたときの眩暈も大分治まり、左手の甲から点滴の留置針も外されている。

松田は昨夜、日向が眠ったあとも接続を維持していた。
いつ点滴を止めたのか。睡眠中の数値に異常はなかったのか。目を覚ましたことには、もう気づいているのか。
尋ねたいことが次々と浮かぶ。
日向は口を開きかけ、もう一度、何も映っていないモニターを見た。

……だから、いないんだって」

今度は自分へ言い聞かせるように呟き、ベッドから降りた。
洗面台で顔を洗う。冷たい水に触れると、頭に残っていた鈍い重さが薄らいだ。
着替えを済ませ、病室を出ようとしたところで、壁際の小型保管庫が短い電子音を鳴らした。

「なんだ?」

続いて扉が自動的に開く。
中には、栄養調整された朝食と水、それから服薬時間の印刷された紙が、逃げ道を塞ぐように並べられていた。
紙の下部には、乱暴な文字を模したフォントで、こう記されている。

《全部食え。残した場合は減点》

「いないのに、うるさいな……

本人は現れなくても、管理だけはきっちり残していったらしい。
日向は紙を裏返した。
今度こそ何も書かれていないことを確かめてから、朝食のトレーを持ち上げる。

「どうせ、残したら記録で分かるんだろ」

返事はない。

「分かってるよ。全部食えばいいんだろ、全部」

また、誰もいない画面へ話しかけていた。
そのことには気づかないふりをして、日向は椅子へ腰を下ろした。
朝食の蓋を開ける。
温かい湯気が立ち上る向こうで、壁面モニターだけが沈黙を守っていた。



「おっ、日向! 今日はちゃんと飯食ったか?」

医療区画を出た途端、工具箱を抱えた左右田に呼び止められた。

「ああ。パンと卵とスープを食べたよ」
「おお……
「なんだよ、その反応」
「いや、お前の口からゼリー以外の食い物が出てくるとは思わなくてよ」
「俺をなんだと思ってるんだよ」
「放っとくと、栄養剤だけで一週間くらい生き延びようとする奴」
「一週間はさすがに無理だろ」
「三日ならやるみてぇな言い方すんな!」

左右田の声が廊下へ響く。
日向は片耳を押さえながら、その隣へ並んだ。

「朝から大声出すなよ。頭に響く」
「だったら、響くような真似をする前に言え! 誰のせいで旧管理棟まで工具箱担いで行くことになったと思ってんだ!」

左右田は抱えていた工具箱を、日向へ突きつけるように持ち上げた。
これから昨日使用した旧式端末を回収し、焼けた接続部と、新世界プログラムへ繋がっていた経路を調べるらしい。

「しかし、あんな端末がまだ残ってたとはな。お前、よく見つけたよな」
「島の管理記録に載ってたんだ。俺も、まだ廃棄されてないとは思わなかった」
「だからって、使えるかどうかも分からねぇ旧式機器へ、いきなり自分の脳を繋ぐ奴があるか? 端子も絶縁処理も規格外、そのうえ接続部は半分焼けてたんだぞ!」
「悪かったって。あのときは急いでたんだよ」
「急いでたで済むか! 俺じゃなくて、お前の首に謝れ! 少しずれてたら、火傷じゃ済まなかったんだからな!」

さらに声を張り上げた左右田の肩越しに、前方の扉が開いた。

「朝っぱらからうるせぇぞ」

リハビリ室から顔を出した九頭龍が、露骨に眉を寄せている。

「聞いてくれよ九頭龍! こいつ、昨日のこと全然反省してねぇ!」
「反省はしてる。だから今日はちゃんと休むって言ってるだろ」
「なら、次はやらねぇって言え」

左右田に詰め寄られ、日向は返答に詰まった。

「同じやり方はしない。でも、また誰かが危なくなったとき、何もしないとは言えない」
「お前なぁ――
「それでいい」

九頭龍が、左右田の言葉を遮った。

「何もしないって約束はいらねぇ。昨夜の話を覚えてるなら、それでいい」

九頭龍は壁に片手をついたまま、日向をまっすぐに見た。

「次に何か起きたら、最初に誰を呼ぶ」
……お前たち」
「そのうえで、何ができるか一緒に決めるぞ」

九頭龍は、それ以上確かめる必要はないとでもいうように短く頷いた。
日向が受け入れたのは、動かないことではない。動くとき、自分一人の判断で仲間を選択肢から外さないことだ。
それが、昨夜交わした約束だった。

「そこまでにしてあげた方がよろしいかと存じます!」

張り詰めかけた空気へ、明るい声が割り込んだ。
振り返ると、ソニアが医療用品を載せたワゴンを押していた。その隣では、終里が積まれた栄養補助食品の箱を、物欲しそうに覗き込んでいる。

「日向さんは昨日から叱られ通しです。これ以上責め立てては、反省する前に心がぺしゃんこになってしまいます!」
「オレも腹がぺしゃんこだぞ。さっきの朝飯も、ここまで歩いたらもう消えちまった」
「歩いただけで、あの量が消えるか! 燃費悪すぎんだろ!」

今度は終里へ向かって、左右田が声を張り上げる。

「左右田さん、病室の前ではお静かにお願いいたします」
「なんでオレだけ怒られんだよ!」
「一番うるせぇからだろ」
「九頭龍まで乗っかるな!」

朝の医療区画へ響き渡る左右田の抗議に、日向は堪えきれず吹き出した。

「おい日向! 何笑ってんだ!」
「悪い。お前ら、朝から元気だなと思って」
「誰のせいで元気に怒鳴ってると思ってんだよ!」

あの島で交わしていたものと、よく似た騒がしさだった。
何もかもを忘れて、昔と同じように笑えるわけではない。全員の中には、消せない記憶も、自分たちが犯したことへの罪悪感も残っている。
それでも同じ場所へ集まり、食事のことで騒ぎ、叱り、余計な心配をする。
世界を救うほど大きなものではない。けれど、失いたくないと思うには、それで十分だった。

「日向、お前も昼、一緒に食うだろ?」
左右田に尋ねられ、日向は反射的に口を開いた。

「俺は、あとで――
言い終える前に、頭の中で松田の声がした。

『自分で決めた結果が、睡眠二時間と栄養ゼリー一個だろうが』

日向は一度、口を閉じた。
……いや、俺も一緒に食べるよ」
左右田たちが、一斉にこちらを見る。

「なんだよ」
「いや……お前、今、自分から飯食うって言ったよな?」
……言ったけど?」
「明日は嵐でしょうか?」
「槍が降るんじゃねぇか?」
「槍なら食えるか?」
「槍が降ってる時点で終わりだろうが!」
再び廊下へ響いた左右田の怒声に、日向はまた笑った。

「じゃあ、十二時に食堂な。来なかったら呼びに行くぞ」
「そこまでしなくても行くって」
「昨日の今日で放っとけるかよ。こっちだって、また探し回るのは御免なんだよ」
……ああ、分かったよ」


今度は条件をつけずに答えた。
左右田はまだ疑わしそうに目を細めていたが、旧管理棟での作業を思い出したらしい。工具箱を持ち直した。

「じゃ、あとでな」
「ああ。あとで」

左右田は旧管理棟へ続く廊下を歩いていった。
日向はその背中を見送りながら、先ほど交わした約束を思い返した。
昼になったら、食堂へ行く。
自分の予定に加わったのは、たったそれだけのことだった。
だけど、誰かと食事をする約束があるだけで、昼までの時間が昨日より少しだけ確かなものに思えた。



昼食を取りながら、日向は何度か携帯端末へ目を落とした。
画面は、朝から変わらず沈黙している。
当然だ。今日は問診を中止すると、通知にはっきり書かれていた。

「さっきから何見てんだ? 未来機関から連絡でも待ってんのか?」

向かいに座った左右田が、食事の手を止めてこちらを見る。

……そんなところだ」
「急ぎなら返せよ」
「いや、まだ来てない。届いたらすぐ対応できるように、確認してるだけだ」
「お前が画面睨んでたって、早く来るわけじゃねぇだろ。飯食ってる間くらい伏せとけ」
……分かってるよ」

日向は逃げるように携帯端末を伏せた。
重要な連絡を見落とさないためだ。
そう説明すれば、何度も画面を確認する理由としては十分だった。少なくとも、左右田に対しては。
本当に未来機関からの連絡を待っているのなら、画面に何も表示されていないことへ、これほど落ち着かなくなるはずがない。

自分でも、何を待っているのか分からなかった。
松田がいなければ、食事内容を採点されることも、睡眠時間を責められることもない。くだらない雑誌の記事を読み上げられ、理不尽な口論へ巻き込まれる心配もなかった。
一日くらい静かで、ちょうどいい。
朝は確かに、そう思っていた。
今日は、妙に一日の区切りが曖昧だった。
問診までに仕事を終わらせる必要もなければ、遅れた時間を一分単位で数えられることもない。
自由になったはずなのに、どこで作業を切り上げ、いつ一日を終えればいいのか、かえって分からなくなっていた。



午後、日向は罪木の病室を訪れた。
彼女は昨日と変わらず、静かに眠っている。
生命維持装置の数値は安定し、精神深層から引き上げた人格情報にも目立った欠損は見られない。指先の反応も一度きりではなく、ごく弱いながら一定の間隔で繰り返されていた。

「罪木」

日向はベッド脇の椅子へ腰を下ろし、眠る彼女へ呼びかけた。

「昨日、帰りたいって言ってくれたよな。急がなくていい。俺たちはここにいるから……今度は、お前の方から少しずつ戻ってきてくれ」

白いシーツの上で、罪木の指先が僅かに動いた。
日向の声に応じたものか、偶発的な筋収縮か。この動きだけでは断定できない。

……待ってるぞ」

声をかけると、罪木の人差し指がもう一度、小さく曲がった。
日向は携帯端末を取り出し、反応が現れた時刻と回数を記録した。保存を終えると、そのまま共有先の一覧を開く。
正常な回復反応なのか。精神領域と運動野の接続はどこまで戻っているのか。次に深層領域へ接触できるのはいつか。
聞きたいことは、すでに質問の形で頭の中へ並んでいた。
日向は迷うことなく、松田の通信領域を選びかけた。

……今日は休みなんだよな」

送信する直前で指を止める。
顔を上げると、病室の壁面モニターは暗いままだった。



午後十時。
いつもの時刻に個人端末を開いても、画面には何も現れなかった。
青白い待機表示だけが、一定の間隔で点滅している。
日向は椅子へ腰を下ろし、しばらくそれを眺めていた。

……本当に来ないのか」

誰もいない隔離室に、自分の声だけが落ちる。
問診がなければ、自由に時間を使える。
未来機関への報告書を仕上げてもいい。明日のリハビリ計画を確認してもいい。仲間の精神データも残っている。片づけるべき仕事なら、いくらでもあった。
ところが、どの作業画面を開いても、数行進めただけで手が止まる。

日向は諦めて、端末の通信履歴を呼び出した。
ほとんど同じ時刻に並んだ、松田との接続記録。
朝には睡眠時間を報告し、夜には食事内容を採点される。作業後には頭痛の程度を聞かれ、何かを隠せば即座に暴かれた。考え込みすぎれば、腹の立つ話題をぶつけられる。
鬱陶しいと思っていたはずだった。
それがいつの間にか、一日の終わりを知らせるものになっている。

……確認したいことがあるだけだ」

日向は誰にするでもなく言い訳し、松田の通信領域へ接続要求を送った。
応答はない。
数秒待ってから、もう一度送る。
今度は冷たい電子音とともに、拒否通知が表示された。

《現在、処理中です。緊急時を除き、接続を中断してください》

「緊急時……

日向は通信理由の入力欄を開き、指を置いたまま、しばらく考える。
頭痛は朝より軽い。食事は三回取り、薬も規定量を守っている。罪木の反応も、直ちに処置を要する異常ではない。
緊急性と呼べるものは、一つもなかった。
入力欄を閉じようとしたが、日向の手がしばらく迷った末、別の文字を打ち込んだ。

《被験者03の容体に変化あり》

送信とほぼ同時に、画面へ激しいノイズが走った。

――容体に何があった』

松田の姿が投影される。

普段より輪郭が薄く、白衣の裾や髪の先端には細かな映像の乱れが生じていた。背後には解析中らしい数値と波形が、幾重にも展開されている。
処理へ割ける領域が限られているのだろう。それでも松田は、罪木の容体を知らせた途端、即座に応答した。
表情だけは、いつもと変わらず不機嫌そうだった。

「罪木の右手に、また反応が出た。今日だけで何度か、呼びかけたときにも人差し指が動いたんだ」
『記録で確認してる。精神領域と運動野の接続が戻り始めてる。悪い兆候じゃねぇ』
「そうか」
『で、その報告のどこに緊急性がある』

日向は一瞬、言葉に詰まった。

「目覚めるに近づいたなら、重要な変化だろ」
『重要と緊急は別だ』
「ほかに連絡する方法がなかったんだよ」
『だから緊急通知を偽装したのか』
「偽装って……嘘は書いてないだろ。実際に容体は変化した」
『緊急性があるように見せかけた時点で同じだ。今日は問診を中止すると通知したはずだぞ』
「分かってる。でも、昨日の信号がどうなったのかも気になってたし……

日向は言葉を止めた。
画面の向こうで、松田は返答を待っている。

……今日は静かだった」
『良かったな』
「最初はそう思った。でも、なんかいつもの調子が出なくて」
『体調不良か』
「そう……かな。何なのか分からないから、繋いだんだよ」

沈黙が落ちた。
松田は答える代わりに、日向の生体情報を呼び出した。
心拍数、脳波、呼吸。いずれも大きくは乱れていない。
三回の食事を取り、鎮痛剤も規定量を守っている。接続制限に逆らった形跡もなく、日中は仲間たちと過ごしていた。
生活状態だけを見れば、ここ数週間で最も良好だった。

……今日の採点は十八点だ』
「低いな!? 三食食べて、薬も作業時間も言われたとおりにしただろ」
『緊急通知の不正使用でマイナス十点』
「引かれる前でも二十八点なのかよ」
『昨日が七点だ。十一点も上がった。奇跡的な改善だな』
「本当に合格させる気ないだろ、お前!」
『満点を取ったら、俺が不要になるからな』

何でもないことのように言った。
日向は反論しかけたまま、口を止めた。

「俺の脳が安定して、仲間たちが全員目覚めたら。お前の役目は終わるんだろ。そのあとは?」
『質問の意味が分からねぇ。それを考えるのは、役目が終わってからで十分だ』

松田は淡々と答え、解析画面へ視線を戻した。
会話を切り上げるための言葉なのか。本当に何も考えていないのか、日向には分からなかった。

「自分のことなのに、随分どうでもよさそうに言うんだな」
『お前は放っておくと、明日の自分を維持するより先に、他人の数年後まで考え始める。いまは自分のことだけ考えろ』
「それはお前も同じじゃないのか?」

解析画面を操作していた手が止まった。

「昨日から、ずっと解析を続けてるんだろ。今だって映像出力が安定してない」
『映像出力の優先度を下げて、演算領域を解析へ回してるだけだ。診断機能にもデータにも異常はねぇ』
「俺には、無理をしてるように見える」
『主観は処理を止める根拠にならない。俺には疲労も休息もない。止められる段階なら、最初から問診を中止していない』

日向はすぐには言い返せなかった。
松田が何を見つけ、どこまで解析を進めているのかは知らされていない。ただ、昨日の異常信号を追っていることと、その処理が日向のために行われていることだけは分かる。

……俺に関係する処理なんだろ? 俺のために、お前の方が壊れるのは違う」
『壊れる前提で話を進めるな。現時点で、俺のデータに損傷の兆候はない』
「いつもお前が俺に言ってることだろ」
『昨日から同じ言葉を使い回しやがって。腹が立つだけだ』
「それなら、俺の脳も少しは安定するんじゃないか」

日向が僅かに笑う。
口論を治療の一部として利用していることを、今では日向自身も理解している。実際、画面の端に表示された数値は、先ほどより穏やかな曲線を描いていた。
それが良い傾向なのか、悪い傾向なのか。
松田は数値を確認したものの、何も言わなかった。

……お前はもう寝ろ。予定外の通信へ、これ以上演算領域を割くつもりはねぇ』
「まだ繋いだばかりだろ。信号の解析は? 新世界プログラムの不具合なのか?」
『その可能性も含めて解析中だ。まだ断定できる段階じゃねぇ』
「ほかに隠してることは?」
『根拠のない推測を聞かせて、余計な負荷を増やすくらいなら黙ってる。医者として当然の判断だ』
「俺が何を知るか、その余地を残せって言ったのはお前だろ」
『覚えた言葉をすぐ使いたがるな。解析が終われば、必要な情報は伝える。それで満足しろ』

完全な回答ではない。
以前のように一方的に切り捨てられたわけでもなかった。

……分かった」
『なら切るぞ』
「ああ」

日向は端末の終了表示へ目を向けた。
今夜は問診ではない。次の通信についても、松田からは何も告げられていない。
けれど日向の口から出たのは、あまりにも自然な言葉だった。

「じゃあ、また明日」

松田の指が止まった。
日向も、自分が何を言ったのかに気づき、思わず目を見開く。
昨日まで、通信の終わりに交わしていたのは悪態ばかりだった。
また明日。そんな約束をしたことは、一度もない。

……なんだよ」
『別に』

松田はすぐに、いつもの不機嫌な表情へ戻った。

『明日、寝坊したら減点だ。次の問診は二十一時。遅れるな』
「そこは普通に、また明日でいいだろ。……お前、さっきから少し言い方が大人しくないか?」
『認知機能に異常が出たなら、追加で検査してやる』
「そういう返しをするなら、気のせいみたいだな。……まあ、分かったよ、先生」
『その呼び方はやめろ、馬鹿』
「また明日、松田」

今度は名前を呼ぶ。
松田は返事をせず、乱暴に通信を切断した。
画面が暗転する。
それでも日向は、朝から胸の内に残っていた奇妙な空白が、ようやく埋まったような気がした。

……十八点か」
明日はせめて、二十点を超えてやる。
誰に命じられたわけでもなく、そんなことを考えながら、日向は端末を閉じた。



松田はすぐに異常信号の解析へ戻った。
旧式端末から回収した生ログは、通常の接続記録より欠損が少ない。新世界プログラムから日向の神経系へ流れ込んだ信号の経路も、以前より鮮明に残されていた。

新世界プログラム内部で生じた偶発的な不具合。
停止しきれなかった旧機能の残骸。あるいは、外部から加えられた干渉。
現時点では、どれも可能性の域を出ない。

松田は信号の一部を隔離し、再現用の仮想領域へ流し込んだ。続いて、日向の神経活動を模した応答信号を返す。
すると、隔離領域で停止していた信号が、僅かに構造を変えた。

……反応しやがった」

ただの壊れたコードなら、入力に応じて自ら構造を変えることはない。
能動的な操作と断定するには、まだ証拠が足りない。だが、偶発的なノイズとして処理するには、変化が整いすぎていた。
松田は改変前後の信号を保存し、ここ数週間にわたる日向の生体記録と重ねた。

睡眠時間と食事回数は増え、鎮痛剤の過剰服用も止まりつつある。問診中に感情を抑え込むことも減り、精神状態が正常域へ戻るまでの時間も短くなっていた。
既知の悪化要因は、確実に減っている。
にもかかわらず、脳へ蓄積された異常負荷だけが、予測された速度で減少していない。
生活習慣の悪化でも、精神的な緊張だけでも説明できなかった。
睡眠不足なら眠らせる。栄養状態に問題があれば必要なものを摂取させる。緊張が原因なら、それを中断する方法を探す。
原因が分かれば、対処できる。
日向の場合は、考えられる原因へ一つずつ対処しても、説明のつかない負荷だけが残った。

「正常な悪化なんて、存在しねぇ」

症状が進むなら、そこには必ず原因がある。
少なくとも、これは日向の弱さや自己管理だけが招いた結果ではない。カムクライズルが自然に日向創を侵食していると断定できる記録もなかった。
原因が日向の内側にないのなら、探すべき場所は外にある。

松田は解析画面の端に残っていた通信記録へ視線を移した。

『じゃあ、また明日』

聞き慣れない言葉が、音声ログとして保存されている。

「勝手に明日を約束してんじゃねぇよ」

吐き捨てながら、松田は今日の日付が付された診療記録を開いた。
睡眠、食事、服薬、神経状態。
日向創、生活状態は改善傾向。元第77期生への過度な接触はなし。緊急通知の不正使用については、次回問診時に再確認。
必要な項目を入力し、記録を保存しかけたところで、松田の手が止まった。
所見欄の末尾に、短い一文を追加する。

《本日も、生存を確認》

医療記録としては大雑把な記述だったが、松田は削除しなかった。
明日の生存を保証する記録ではない。今日、日向創が確かに生きていたという、ただそれだけの事実だ。
松田は診療記録を保存し、再び異常信号の解析へ戻った。