【松日】カルテにない昨日

アルターエゴ松田と、強制シャットダウンから目覚めたばかりの日向の話

――っ、は……!」

現実へ戻った瞬間、日向の両脚から力が抜け、旧式端末の前へ膝から崩れ落ちた。
弾き出された勢いでずれたヘッドギアが頭から外れ、床へ乾いた音を立てて転がる。

胃の中身が逆流しそうな吐き気。床へ触れた手の感覚はあるのに、自分の身体がどちらを向いているのか判別できない。起き上がろうとするたび、平衡感覚だけが遅れて反対方向へ引かれた。
古いモニターの位置を目で追っても、焦点が合うまでに一拍の遅れが生じる。そこに映る松田の姿も、乱れたノイズによって何度も引き裂かれていた。

『おい、聞こえるか。自分の名前を言え』
……日向、創」

答えた自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
松田は返事が途切れたことには触れず、すぐに次の確認へ移る。

『右手の指を動かせ』

日向は床へついた右手の指を、一本ずつ曲げ伸ばした。

『視界の欠損は』
「ない……少し、霞んでるだけだ」
『吐き気』
「ある」
『立つな。そのまま横になれ』
「でも、罪木の身体状態を確認しないと……

安定領域へ退避する姿は見届けた。だが、現実側の身体がどうなったのかは確認できていない。
身体を起こそうと肘へ力を入れたが、腕と腹筋へ力を入れるタイミングが噛み合わず、上体は半分も持ち上がらなかった。日向は肩から床へ戻る。

『今のお前が行っても、処置には参加できない。途中で倒れて、医療区画の仕事を増やすだけだ』
「俺なら大丈夫だ」
『その台詞、禁止にするぞ』

低い声で押さえつけられ、日向は反論を引っ込めた。
床へ横たわったまま、上下の感覚が戻るのを待つ。右手の指先へ意識を集め、そこだけは確かに動くことを確認した。
こめかみに触れる代わりに、人差し指の爪先を床の継ぎ目へ押し込む。埃の溜まった細い溝が爪の隙間へ食い込み、別の痛みが生まれた。

『そこに爪を立てるな。前も、それで血を出しただろ』

考えるより先に、日向の指から力が抜けた。
言われるまま爪を離してから、遅れて、その一言だけが耳の奥へ引っかかる。

……前も?」

日向が顔を上げる。
画面の向こうで、松田の動きが一拍だけ止まった。映像の乱れとは違う、あまりにも人間らしい空白だった。

「今、『前も』って言ったよな。俺がこうするところを、前にも見たことがあるのか?」
『今までの問診記録に残ってる、それだけだ。口を動かす余裕があるなら、まだ死なねぇな』
「お前――

追及しようとした途端、胃の奥が一気にせり上がった。日向は咄嗟に口元を押さえ、床へ頭を戻すしかなかった。
松田は返事の代わりに、旧管理棟の設備へアクセスした。

止まっていた換気装置が低く唸り上げ、淀んでいた空気がゆっくりと動き始める。地下通路の奥では、消えていた非常灯が一つずつ点灯していった。
汗ばんだ首筋を、埃と潮気を含んだ冷たい風が撫でていく。
続いて画面の端に、医療区画への緊急通知が表示された。日向の居場所と、現在の身体状態が送信されている。

「待て。左右田たちに知らせるな。余計な心配をかけたくないんだ」
松田は操作を止めなかった。
『お前が無断でいなくなった時点で、もう十分心配はかけてる』
「でも、罪木の人格崩壊は止められた」

日向はもう一度床へ手をつき、膝を立てた。足裏の位置がうまく掴めず、腰を浮かせることすらできない。

『立つなと言ったはずだ』
「少しくらい無理をしたって、あいつを失わずに済んだなら、その方がいい」

その言葉を聞いた瞬間、松田の表情から動きが消えた。
「今の俺にしかできないんだ。カムクラの才能を使えば、仲間の精神深層まで辿り着ける。俺が少し痛いくらいで、誰かをこっちへ繋ぎ止められるなら――
『良くない』

低く、冷たい声だった。
これまでの悪態とも、問診中の皮肉とも違う。怒鳴ったわけでもないのに、そこには言い逃れを許さない拒絶があった。
日向は、床へついた手に体重を預けたまま動きを止めた。

『誰がいいと言った。結果が出たことと、お前の損傷を許容できることは別だ』
「言い過ぎだろ。俺はまだ壊れてない」
『起き上がれない時点で、その自己判断は無効だ』
「罪木を見捨てるよりはマシだろ!」
『助けるか、見捨てるか。その二択にした時点で、判断は破綻してる。お前は最初から、自分が戻ることを救出条件に入れてない』

ノイズ混じりの声なのに、一語も聞き逃せないほど鮮明だった。

「そんなつもりじゃ――
『意図は診断材料にならない。実際の行動を見てる』

日向は反論できず、唇を噛んだ。
自分にかかる負荷と、罪木の人格が失われる危険。日向にとって、それは比較するまでもない選択だった。だからこそ、松田が何に怒っているのか、すぐには理解できなかった。

「それでも、松田が来てくれたから――
『俺が追いつかなかったら、どうするつもりだった』

答えられなかった。
松田が来ない可能性を考えなかったわけではない。考えたうえで、日向は旧式端末へ接続した。
たとえ同じ問いを接続前に突きつけられていても、きっと同じ選択をしただろう。
その沈黙だけで、松田には十分だった。

……救いようがねぇな』

吐き捨てる声には、隠しようのない苛立ちが滲んでいた。
救出に失敗したからではない。制限を破ったからだけでもない。
日向が、自分自身だけを救出されるべき人間の中へ数えていなかった。そのことに松田は怒っているのだと、ようやく分かった。

「悪かったよ」
『何が悪かったのか分かってねぇなら、謝るな』

松田は日向から視線を外し、旧式端末から回収した接続記録を開いた。
安全機構も負荷分散処理も通していない、生のデータ。日向の神経活動、罪木の人格情報、二人を繋いでいた接続経路が、同じ時間軸の上へ展開されていく。

日向には、幾重にも重なる光の線が何を意味するのかまでは読み取れなかった。その膨大な情報を追う松田の目が、急に鋭さを増したことだけは分かる。
そこには、これまで何度も観測されてきた異常信号が、以前よりはるかに明瞭な形で残されていた。

信号の起点は、日向の脳内ではない。新世界プログラム側から送られた神経刺激に紛れ込み、接続経路を通って日向の神経系へ流れ込んでいる。
さらに、波形の一部には、一定の間隔で繰り返される短いパターンがあった。偶発的なノイズにしては、整いすぎている。
だが、それが未登録の処理機能なのか、古いプログラムの残骸なのか、それとも別の何かなのか。現時点の記録だけでは、まだ断定できない。

松田は異常信号を含む生ログを切り出し、改変不能の検証用データとして退避させた。
日向は床へ片手をついたまま、汗ばむ顔を伏せていた。松田が何を見つけたのか尋ねる余裕は残っていない。

地下通路の奥から、複数の足音が近づいてきた。

『迎えが来たぞ』
「左右田たちには、余計なことを言うなよ」
『お前に口止めされる筋合いはねぇ』
「松田」
『俺の存在は隠す。無断接続まで隠すとは言ってない』

松田が画面上で何かを操作する。
直後、日向の胸元に入っていた携帯端末が短く振動した。

『逃げるんじゃねぇぞ。医療区画、管理棟、通信室――お前が逃げ込める場所は、全部診療圏内だ』
「そんな診療圏があるか」
『いま作った』
「本当に何をしたんだよ……

日向は胸元で振動した携帯端末へ手を伸ばしたが、指先は一度その縁を滑った。
指先が端末を引き出しかけたと同時に、旧管理棟の扉が勢いよく開いた。

「日向ァ! こんなところで何してやがる!」

左右田の大声が地下室へ響く。その後ろには、険しい顔をした九頭龍の姿もあった。
日向が反射的に振り返る。再び画面へ目を戻したときには、松田の姿はすでに消えていた。
秘密の通信を、二人に悟らせないためだった。

「おい、日向! なんで床に倒れてんだよ!?」
「だから言っただろうが。こいつ、絶対また何か隠してやがるって」

左右田と九頭龍が駆け寄ってくる。
日向は立ち上がろうと床へ手をついたが、左右田に肩を掴まれ、九頭龍にも腕を押さえられた。

「平気だって。少し眩暈がしただけで――
「少しの眩暈で床に倒れるかよ!」
「大人しくしてろ。話はあとで全部聞く」

二人に身体を支えられながら、日向は先ほど取り出しかけた携帯端末へ目を落とした。
画面には、見覚えのない予定が一件、有無を言わさず追加されている。

《本日二二〇〇時 緊急問診》
《無断欠席・通信切断・虚偽申告、すべて不可》

事務的な文面は、そこで終わっていなかった。
余白を埋めるように、不機嫌な神経学者からの警告が一行だけ追加されている。

《覚悟しろ、大馬鹿野郎》

日向は携帯端末を握ったまま、深い溜息をついた。
左右田と九頭龍からの追及だけでも、当分は解放されそうにない。そのうえ今夜は、島のどこへ逃げても追ってくるらしい神経学者が待っている。
どうやら今度ばかりは、栄養ゼリーを食事と言い張る程度の誤魔化しでは、済ませてもらえそうになかった。



罪木蜜柑の精神同期率は、五十六パーセントでどうにか安定した。
一度は七十パーセントを超えていた数値には戻らなかったものの、人格情報の断片化は止まり、深層領域への沈降も収まっている。
目覚めるにはまだ遠いが、彼女の人格そのものが失われるという最悪の事態だけは、ひとまず回避できた。

一方、旧式端末を使って無理な直接接続を行った日向は、左右田と九頭龍によって医療区画へ連れ戻されていた。
左手の甲には点滴の留置針が固定され、額からこめかみにかけて頭部冷却用のパッドが装着されている。首の後ろには、直接接続によって生じた小さな火傷の痕まで残っていた。
こめかみの奥には鈍い拍動が残り、急に顔を動かすと平衡感覚がわずかに遅れる。吐き気だけは、点滴が半分ほど減った頃から、ようやく治まり始めていた。

「これのどこが大丈夫なんだよ!」

病室のベッドへ押し込まれてから、左右田には散々怒鳴られた。何度も掻き回したらしい髪はいつにも増して乱れ、その下の顔はまだ青ざめている。
その隣では、九頭龍がベッドの脇に立ち、険しく細めた片目で日向を見下ろしていた。

「次は俺たちに言え。いいな」
……でも、お前たちだって、目覚めたばかりでまだ体が――
「それをテメェが決めるんじゃねぇ」

逃げ道を塞ぐような低い声に、日向は言葉を飲み込んだ。

「起きたばかりだろうが、端末くらい運べる。見張りも、連絡もできる。勝手に俺たちを何もできねぇことにして、一人で片づけようとするんじゃねぇ」
「また同じことが起きたら、今度も時間があるとは限らない」
「だから呼べっつってんだ。一緒に走るか、別の方法を探すか、断るか――それを決めるのは俺たちだ」

九頭龍は、日向が言い逃れを探すより先に言い切った。

「守るつもりで何も知らせず、一人で全部決めるってのはな――俺たちから選ぶ権利を奪ってんのと同じだろうが」

仲間を危険から遠ざけるために、自分だけで判断する。それは相手を守ることではなく、共に背負うか、拒むかを選ぶ機会さえ、最初から与えないということだった。
自分が傷つけば済むのだと考えるたび、日向は仲間の意思まで勝手に引き受けていたのだと、ようやく気づいた。

……分かった。次は先に呼ぶよ」
「忘れんなよ」
「ああ」

九頭龍は短く頷くと、まだ日向へ文句を言いたそうな左右田の肩を押し、連れ立って病室を出ていった。
引き戸が閉まる。静かになった病室には、点滴の落ちる規則的な音だけが残った。

壁のデジタル時計は、午後九時五十八分を示していた。

枕元に置いた携帯端末には、松田夜助によって強制登録された予定が、赤い文字で残されている。
その備考欄には、先ほど送りつけられた脅し文句まで、予定の一部であるかのようにきっちり保存されていた。

……本当に、出たくないな」

尋問はごめんだ。先に問いただしたいことがあるのは、むしろ俺の方だ。
日向は溜息をつき、端末を画面が下になるようシーツへ伏せた。残された二分くらいは、見なかったことにしても罰は当たらないはずだ。
ベッド脇の生体情報モニターが、間髪を容れず短い電子音を鳴らした。
表示されていた心拍数と脳波のグラフが画面の端へ押しやられ、空いた領域に通信画面が強制的に展開される。

「うわっ!?」

青白い光が、薄暗い室内へ広がる。
ノイズとともに現れた松田夜助は、いつものアームチェアにも座らず、画面の中央に立っていた。白衣の胸元で腕を組み、冷えた目で日向を睨んでいる。
画面越しでも、まだ怒りが収まっていないことだけはよく分かった。

『二十二時だ』
「まだ五十八分だろ。二分早いぞ」
『端末を裏返した時点で、逃亡の意思ありと判断した』
……二分くらい待てよ、せっかちだな」
『今日一日で、お前を待つことがどれだけ命取りになるか、学習したからな』

痛いところを突かれ、日向はベッドへ背中を預けた。

……分かったよ。それで、問診だろ。頭痛はまだ残ってるけど、さっきよりはマシだ。吐き気も治まったし、視界の歪みも――
『今夜やるのは問診じゃねぇ、尋問だ』

先に症状を並べてしまえば、いつもの問診へ持ち込める。そんな日向の浅い目論見を、松田は冷ややかに遮った。

……言い方が物騒すぎるだろ。医者のくせに」
『無断接続、安全機構を通さない旧式端末の使用、通信の意図的な切断。最初から順に説明しろ』
……その前に、俺からも聞きたいことがある」
『却下だ。質問してるのは俺だ。最初から説明しろ』
「旧管理棟で、お前は言ったよな」

――前も、それで血を出しただろ。

病室へ戻されてから、目を閉じるたびに、あの一言が蘇った。

頭痛に霞む意識の中で、日向は現在の問診記録を一つずつ確かめた。面談映像も、自分の医療記録も、検索できる範囲はすべて調べた。
日向は松田の制止を無視し、伏せていた携帯端末を拾い上げる。そこに残しておいた検索結果を、生体情報モニターの通信領域へ転送した。

《該当記録なし》

無機質な文字が、二人のあいだに表示される。
松田は組んでいた腕をほどいた。表示を消そうとはせず、ただ目だけを細める。

「病室へ戻されてから、これまでの問診記録を調べた。お前との面談映像も、俺の医療記録も全部だ」
『そんな無駄なことへ脳みそを使う暇があるなら、一秒でも早く寝ろ』
「話を逸らすな、松田。俺は、お前と話し始めてから一度も、床に爪を押しつけて血を出したことなんかない」
『記録の要約から抜けただけかもしれねぇだろ』
「お前はいつも言ってるだろ。俺が何を言おうが、記録まで一緒になって嘘をついてはくれないって」
松田は唇を引き結び、答えなかった。
日向は、点滴の繋がっていない右手を持ち上げた。人差し指の爪先には、旧管理棟の床へ押しつけた赤い痕が残っている。

「記録を読んだだけなら、お前は『前にも同じ記録がある』と言うはずだ。でも、あのときは『前も、それで血を出した』と言った」
『言葉の綾だ』
「俺の言葉の誤差を毎回細かく追及するお前が?」
松田の眉間に、深い皺が刻まれた。
「お前は、あの仕草を記録として知ってたんじゃない」
心拍数を示す数字が上がり始める。それを見られていると知りながら、日向は画面の向こうの青年から目を逸らさなかった。
「実際に見たことがあるんだろ」

点滴筒の中で、次の雫が落ちた。
生体情報モニターは一定の間隔で電子音を刻み、日向の動揺だけを律儀に画面へ描き続けている。

……それで? そのくだらない推測に答える義務はない』
「否定しないんだな。なら、もっと単純に聞く」

日向は冷却パッド越しの鈍い拍動を無視し、画面の中央にいる松田だけを見据えた。

「生前のお前は、俺がカムクラになる前――希望ヶ峰の予備学科にいた頃の俺に、会ったことがあるのか?」

画面の端で生体ログを繰っていた松田の指が止まった。答えは返ってこない。
沈黙だけでは、肯定の証拠にはならない。だが、まったくの見当違いなら、松田は鼻で笑って即座に切り捨てているはずだった。

「昔のカルテを読んだだけなら、そう言えば済む話だろ」
『それを知ったところで、現在の症状は改善しない』
「症状の話じゃない。俺の過去の話をしてるんだ」
『いま掘り返す必要のない記録もある』
「それを決めるのは、お前じゃないだろ」

松田の口元が硬くなった。
日向は、数日前に仲間への接し方を相談した夜のことを思い出していた。

――治療する側が、患者の望む人格まで勝手に決めるな。
――目覚めたあと、どう生きるかを選び直せる余地くらい残してやれ。

他ならぬ松田自身が、日向へ言い放った言葉だった。

「俺が何を知って、それをどう受け止めるか。その余地くらい、俺にも残せよ」

しばらくして、松田は忌々しそうに息を吐いた。

……随分と口が回るようになったな』
「誰かさんの治療のおかげだよ」
『なら、その高尚な治療の成果として、今すぐ目を閉じて眠れ』

小さな電子音が鳴り、病室の天井照明が落ちた。
枕元の常夜灯だけが、ベッドの周囲を淡く照らしている。

「待て。まだ何も答えてないだろ」
『今夜はもう終わりだ』
「『今夜は』ってことは、いつかは答えるのか?」
『勝手に解釈しろ』
「本当に、都合が悪くなるとすぐ誤魔化すな」
『お前にだけは言われたくねぇよ』

答えではない。否定でもなかった。
松田は画面の端に残された生体情報へ視線を戻し、心拍数、脳波、点滴の滴下速度を順番に確認していく。
過去を語る口は閉ざしたまま、現在の日向から目を離すつもりもないらしい。

『このまま接続は維持する。今夜はお前が眠っているあいだも監視するからな』
「もう逃げないって言ってるだろ。点滴まで繋がれて、病室に閉じ込められてるんだぞ」
『数時間前、お前は同じ顔で俺の通信を切った。信用できる根拠がない』
「俺もそこまで馬鹿じゃない」
『今日の行動を最初から思い出してから言え』

日向は何か言い返そうとしたが、返事の代わりに、こめかみの痛みだけが強く脈打った。
手を伸ばすより早く、モニターの明度が一段落ちる。松田は何も言わず、画面の端で冷却パッドの出力を調整した。

日向は諦めて、枕へ頭を預けた。明度を落とした青白い光の中に、松田の姿は残っている。
現在の問診記録だけでは説明できない過去を、松田は知っている。
最後まで「会ったことはない」と言わなかった。その事実によって、日向の疑いはほとんど確信へ変わっていた。

……なぁ、松田」
『今度は何だ』
「いや。何でもない」
『なら黙って寝ろ』

名前を呼べば、間を置かずに返事がある。それを確かめて、日向は素直に瞼を閉じた。
静まり返った病室には、医療機器の低い駆動音と、画面の向こうで松田が記録を操作する小さな音だけが残った。

問いの答えは、まだ霧の彼方だ。
すぐ近くには、自分を繋ぎ止めてくれる誰かがいる。その気配を感じながら、日向の呼吸はゆっくりと深まり、やがて穏やかな眠りへ落ちていった。