『紫』

俳優パロ、誰かの手のひらの上で踊らされてるような人生だけど、乗っかってみるのもいいかと思う話

「役作りで。こんなに殴られたのは予想外だったけど」とのたまう口の端の怪我を応急手当てしながら、呆れて物が言えなかった。
 だからってあんな路地裏で倒れているやつがあるか、と松田は怒ったが、本人は澄ました顔で意に介さず、ただ殴られた腕をさすっていた。後々それはあざになるだろうとわかりながら、松田は戒めとして腕の手当ては適当にしかしなかった。見えない部分にしてやったのをむしろありがたいと思ってほしい。腹いせに「反省せえ」と言うと、ようやく拗ねた顔を見せたところは素直だと思えた。
 役作り、とは言っていたが、松田は山田のような顔の俳優を知らない。なんの、どの役をもらっているのかもわからない──なにも情報を得られないまま、男は松田の家の物置代わりにしている部屋で、じっと静かに大人しくしていた。暗闇で目を開いている様はさながら猫のようだった。
 スマートフォンで調べてみても、男の顔は出てこない。舞台公演前なのか、映画出演予定なのか。そんな大々的なものでなく地方の小さな巡業か、下手をすれば、大学の無名の演劇サークルの可能性だってある。松田の疑念をよそに、ポンと小さな音が鳴って、マネージャーから連絡が入った。
『やっぱりどこの事務所かわかんないですね、他に聞いてもピンと来る人はいないです』
 トークアプリに広がる、精一杯調べ尽くした結果の落胆を受け止め、松田は顎に手を当てた。そこまで取り憑かれたように、役のために体を張るだろうか? 一見なにに対しても無気力そうな彼が。
「病院行くぞ」と言っても話を聞かない。「バレたら困る」の一点張り。なにに、誰に、どこに、どう。質問をしても沈黙だけ。松田の堪忍袋の緒が切れそうなころ、男は一言だけ漏らした。
「ごめんなさい。でも明日になったら動けるだろうし、一人でちゃんとするから」
 今はとてもじゃないけど歩けそうにない。そう言って、男は身を縮こめる。どこかが痛むのだろう、体は熱を帯びて震えていた。
 ──役者仲間というのはろくな奴がいない。期待を胸にこの世界に入ってドラッグに浸けられた奴、金が足りずに消費者金融を頼ってボロ布のように捨てられた奴、女を食い物にしたせいで身を滅ぼした奴。華々しい舞台裏で、陰口も暴力もハラスメントも、なにもかも時代錯誤なことが続けられている世界。松田がどこにも引っかからずに生きているのは、ひとえに付き合いを限りなくいで、人を信用してこなかったからだろう。だからそんな松田が、行きずりの男の「明日になったら」を信じられるはずがない。
「だめや、今から行く」
 男の腕を取った。異様に細く頼りなかった。男は諦めた眼差しで、そこからは大人しく松田に従った。割れたスマートフォンがポケットから出ている。
 車を出すと、助手席に男を乗せた。男は「わ、席広いね」と無邪気な素振りをするが、本心かはわからなかった。車を発進し、しばらくしてから松田は尋ねる。
「殴られて、どうやった」
 なにか感触、掴めたか。
 リアリティの追求は時として役者が必要とする部分だ。男はまた猫のような目を見開いた。そしてそれを半月状に細めると、んはは、と特徴的な笑い方をする。
「痛いし、骨が軋む感じ。特に顎が辛いね。頭にくる」
「そうやろうな。脳震盪のうしんとう起こさんかったか」
「んー……どうだろ」
 おいおい、と松田は内心冷や汗をかく。こうして運んでる最中に倒れられたら困る。
「事務所か、マネージャーは?」
 先ほどまでは固く閉ざしていた口も、今は開くのではと期待して声をかける。男は窓の外に顔を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「マネージャーはいる……けど、今回のは僕の独断」
「やろうな」
 こんな無茶を通してくる奴がいたら大問題だ。松田はそれ以上の情報をもらいたかったが、また男の心は閉じかけそうだ。ハンドルを握る指をカツカツと鳴らし、質問を変える。
「で、どんな脚本やねん」
 殴られるまでになにかしら、ルートがあってのことだろう。まさかなんの理由もなしに殴られるような物語でもあるまい。それならこんな臨場感を試さなくても、ただ殴られるフリくらいで終わればいいはずだ。
 男はようやくこちらを向く。
「罪を犯した人間が、出所した後どう生きていくかっていう話だよ」
 男は淡々と、脚本を思い出し、なぞるように少しずつ話す。
「刑務所を出た後、行く宛がなくて……それで絡まれて殴られて、適当に放り出されるんだ」
「ほお」
 ヒューマンドラマか、そこからアンダーグラウンドに繋がるか。薄暗いはいくちの脚本ではありそうだ。そういうのを好む監督は知り合いにいただろうか。さり気なく転がるヒントを頼りに、松田は頭を回転させる。
「それで、お人好しの人間が偶然通りかかって、拾われて」
 松田はピタリと相づちをやめる。
「その後は……どうなる、んだったかな」
 喋った反動で口の傷が沁みたのか、男はじわりと滲んだ血を拭う。白いパーカーは土と血の飛沫でもう着られないだろう。
 夜間救急病院のライトは煌々と光り、車から降りた男はひょこひょこと足を引きずりながら歩いた。車のドアを閉めることすらできず、全身をもたつかせながらよろめいている。松田は手を貸すか貸さないか悩んだ。普通なら、ここまで送った手前病院内まで入り、手続きくらいはしてやっただろう。
 けれど、この状況は逸脱している。いびつに曲げられているのではないか、と錯覚する。もしかしたら誰かがこの世界を上から覗いていて、松田がこうなるように仕組んでいるのではないかと──そう思いながら男の後ろ姿を見ていると、男が道端で折れるようにくしゃりと倒れた。おい、と松田は声を出した。周りにはもちろん誰も通らず、松田しか男をすくい上げることができない。
 お人好しが通りかかって、拾われ──手を伸ばして肩を貸す。
……んはは。うわ、脚本通りのこと、する人いるんだ」
「目の前で息絶えそうな奴がおったら誰でもするやろ。お前のやるシナリオなんか知らんねん」
 やりたいようにやっただけ。自分にも言い聞かせるように声を張り上げ、「声デカっ」と驚かれながらも男と病院の入り口までゆっくり歩く。
「拾われて、助けられたらどうなるんや」
「ええと」
 男は逡巡しながら、青ざめた顔を笑いに変える。自嘲の色が見て取れた。
「言わない。でも、ありきたりだよ」
 先を想像できるストーリーで、話ぶりから、大きなスクリーンでやるわけではないらしい。もしかしたら配信でやるドラマか? とも思ったが、あれはある程度の知名度のある俳優を使うことが多いから、彼のように誰も知らない者を使うとなると、宣伝広告を始め、多くのハードルが一気に高くなる。
……でも、僕の初めての出演作なんだ。もうすぐ公開になる」
 松田さん、見に来てくれる? と男は願った。名乗っていないのに顔が割れたのは、ひとえに松田がそれなりに有名人だからだ。だから余計に世話になりたくなかったのだろう。
「なんてタイトルや」
「『紫』だよ」
 そう言って、男は山田と名乗った。やはり仲間内では聞いたことのない名前だった。

『紫』は全国数ヶ所のミニシアターで上映された。松田は変装用のメガネ越しに広がるスクリーンが、やはりどうにも脚本としてはいまいちで、見る価値があったかと問われると微妙だった。総評も大して良くはないだろう。山田の俳優生活の第一歩を見れたことが唯一の収穫だろうか──そう言ってしまえるくらいには、あの晩出会った山田という男の、曲がった猫背から放たれる雰囲気に惹かれた。惹かれてしまった。けれどこちらも相手も、芸能を生業として、マネージャーがつき、事務所があって、活躍を期待されている。特に山田は事務所側でずっと隠されていたらしい。若すぎる内にデビューさせるのは味が出なくてもったいないと、下積みを長らく経験した男だったようだ。
 あの夜、あんな危険な行為をしてまで映画の成功を夢見た男のワンシーンは、やはり想像以上の出来栄えだった。松田はそこだけは、この『紫』の気に入っているところだ。いや、気に入っていると言ってしまうのは、少々居心地が悪い。
 追いかけ回され、足を取られて転倒する山田が、痣のある腕で地面を這い、決して命乞いをしないで歯軋りをする。痛烈で執念深い、生へのしがみつきだ。醜い人間の悪し様を演じ切った山田には、きっと多くの監督が目をかけるだろう。
 そして山田が最後までストーリーを明かしてくれなかった部分──お人好しに拾われた後の展開を、松田は苦い顔で見るしかできなかった。
 お人好しの相手役が、山田を好きになっていく。
 ──ありきたりだよ。
 いつかの山田の言葉がはっきり浮かぶほど、お決まりの展開だ。脚本家は今後、この調子では売れるかどうか。
 映画の最後に映し出される、相手役の侘しい部屋に飾られた、山田から送られた紫色の花が、松田の脳裏に色濃く焼きついている。柄にもなく、松田は花屋によって同じ花を買った。季節的にちょうど売っていたのが幸いだった。飾るには花瓶も必要で、少し重いビニール袋をぶら下げて帰宅する。
 花の手入れなどわからない。わからないなりに、毎日水を替え、茎を一センチほど切り、生活する上でぶつからないよう、花瓶を離れた位置にずらす。無機質な男の部屋に、不自然な紫は、あの日やってきた傷だらけの男の猫背に似ていた。
 ──珍しく松田がカメラアプリを開き、撮った写真をSNSに載せたのはそれからしばらく経ってからだ。ミニシアターの位置情報と、花の写真だけを載せたそれは、多くの人の目と『紫』の制作会社の目に留まり、感謝された。ただ、その反応の中に山田のSNSはなかった。事務所の秘蔵っ子は、まだ自由には振る舞えないらしい。

 それから数年後だ。揃いの白いセットアップを着た全員で、同じ幕の前に立ち、劇場での舞台挨拶を終えて一礼したのは。その視線を少し横に動かせば、山田の視線とかち合って、高揚した顔で微笑まれた。その手には紫色の花で作られた花束を持っている。すっかり紫は山田のイメージカラーになったらしい。今回のこれは全く違う趣旨の映画なのに、一人だけ花に紫を使われているから、よほどあのミニシアターで上映された『紫』に、インパクトがあったのだろう。『紫』に出ていた花と──松田が買った品種と同じだ。
 この後山田が家に来て、あの花瓶だけが片付けられずに残っているのを見られたら。「らしくないね、なに飾ってたの?」と聞かれたら。共演したときのように、眉間にしわを寄せて突っぱねてしまうか。
 ──時間をかけて口説くかとにじり寄った矢先の共演の報に、山田と他の共演者との関係値を気にして情けなく酒を煽ったのもいい笑い話だ。距離を縮めた際に慣れたふうな口で食事に誘ったのを、山田は複雑な思いで「モテそうだもんね、松田さん」と寂しげにした。
 この花を活けた器が、一途の証明であると知られたらどうなるか。面子は丸潰れだが、惜しむものでもないのかもしれない。家に来て、花瓶を見た山田に、本来の自分をさらけ出して、「実はな」と告げてやるのもいい。
 松田は純白で彩られている自分の花束に視線を落とした。もう一つ花瓶を買って帰らなくてはならない。柄は山田に選んでもらえばいい。