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苦味

輝(←)薫



 ページを捲る。薄い紙が手元で擦れ、壁にかかった時計の秒針は絶え間なく動いている。クーラーがまた音を立てて冷気を吐き出し始めた。向かいの椅子で、ピリリと包装を破く音がする。
「薫さんも食べませんか?」
 ぱくりと大きな一口で、おにぎりの三角形の一角が消えた。
「さっき弁当を食べたばかりだろう」
「リハーサルの前ですよね?」
 小首を傾げながら、もう一口をかぶりつく。おにぎり一つは、柏木にとってはつまみ食い程度のものだろう。
「それをさっきと言うんだ」
 歌番組のリハーサルを終えてから、本番まで一旦の自由時間を過ごしていた。僕は勧められたそれの代わりに、半分ほど残ったペットボトルの水を呷る。
「こっちには昆布もありますよ」
「そうか」
 柏木は残りのおにぎりの味を一つ一つ確認しているようだった。その手が次はどれを、と彷徨っているのは明白だ。
「直前に食べて収録に支障を出すんじゃないぞ」
「はい! 残りは終わってからにします!」
 言いながら、手にはもう一つのおにぎりがある。この程度なら、柏木の胃には許容範囲内だろう。
「輝さんは、何味が良いですかね?」
……あの男の分は要らないだろう」
 でも、と言葉を続けながら、柏木はまた一口を食べ進めた。この場にいない人間に気など遣う必要はない。手元の本に目を落とす。柏木はまだうーんと唸っている。
「百歩譲って、君が選んだ後の残りで十分だ」
「残り……
 そう言って真剣に並んだおにぎりを見つめだす柏木に、思わず口元が緩んだ。
「君にかかれば、残りなど出ないか」
 ちゃんと残しますよ、と慌てる柏木の背後で、楽屋のドアが開いた。赤毛が覗く。柏木も音につられて振り向いた。
「あ、輝さん」
「ん?」
「ちょうど輝さんの話してたんですよ」
 天道は机に置いたままだった自分のペットボトルを手に取った。そのまま何口か含み、キャップを締める。机に置いたペットボトルの中で小さく水が揺れた。
「俺の?」
「はい。何味がいいかって」
 柏木が机の上を指し示す。言わんとすることを理解した天道は、並べられたそれを一瞥した。
「んー……鮭かな。後で貰うよ」
 そう言って、一つを少し端に避けた。
「桜庭は?」
 一呼吸遅れて上げた顔を、天道の視線が掬う。もう選んだのか、どれがいいのか。目でそう問いかけながら、天道は柏木の隣に一つ席を空けて腰を下ろした。
「僕は必要ない」
「無いことないだろ」
「食事は取っている」
「夜食えるの何時だと思ってんだよ。食べなかったら俺か翼で貰うからとりあえず取っとけって。なぁ、翼」
「はい!」
 二人分の視線を受けて、渋々並んだ味を見比べる。
……梅」
 天道がまた一つ、脇に避けた。これで文句はないだろうと、また紙の上の文字を追う。
 集合の時間が早かったので、中途半端に拘束時間があった。この後司会のタレントとのトークを撮ってから、歌唱収録は更にもう少し後だ。仕方のないこととはいえ、一日が長い。
「もうご挨拶は終わったんですか?」
「あぁ。直接会うのは久しぶりだったから、少し話し込んじまったな。悪い」
 そう二人が話すのは、楽屋に戻るタイミングが天道だけ遅くなった理由のことだ。今回共演する歌手と、天道は面識があった。バラエティ番組で、何度か共演の経験があったはずだ。僕と柏木が挨拶程度でその場を離れた後も、天道はその場に残って談笑していた。
 連絡を取ったことはあったのだろうか。天道の言葉尻を捉えた穿った見方だ。浮かんだ疑念を口にすることはしなかった。ズレてもいない眼鏡を押さえる。画面越しにならよく見る相手なのだから、ただそれだけの意味だろう。
「やっぱりお互いこっちが本業だからさ、こういう場で会えるのはいいよなって」
 天道の声音は明るく、それを受けて相槌を打つ柏木の目にも光が宿っている。天道の視線が僕と柏木とを行き来した。
「勝負事じゃないけど、負けられねえなって気合い入ったぜ。俺達もやってやろうな、桜庭、翼!」
「はい、もちろんです!」
「無論だ」
 言った後、自分のペットボトルに手を伸ばす。一口水分を含んで口を潤したところで、天道に視線を向けられていることに気がついた。彼はどこか不服そうに眉をひそめていて、僕と目が合うと探るように瞳を覗いた。思わず横の柏木の方に目線を逃がすと、彼も彼で眉を下げている。僕は空になったペットボトルの蓋をきつく締めた。
「って言ってんのに、何か締まらねえな。どうしたんだよ桜庭は」
 天道は首を捻りながら、そう言った。僕の向かいで、二人がちらと目を見合わせる。そうしてまた僕の方へと四つの目が戻ってくる。これではまるで二対一だ。
「何の話だ」
「んー……体調悪いってわけじゃないよな?」
「リハーサルの時は問題なく動けてると思いましたけど……
 僕を疑ってかかる目はともかく、柏木の不安そうな視線はいただけない。何も不安要素などないはずだ。リハーサルはきっちりこなしたし、今日のために準備もしてきた。
「当たり前だ。僕に何も問題はない」
 問題があるとすれば、君の。……君が。うろ、と迷った視線は結局向かいの天道の上で留まった。あくまで純粋に僕の様子を気にかけているのだとでも言いたげな、曇りのない瞳がひどく神経を逆撫でた。
「君が、……喧しいからだ」
「はぁ?」
 天道の語気に苛立ちが混じった。片眉が上がり、不格好に大きく開いた口の端が歪む。
「なんだよ、今日は今初めてちゃんと喋ったくらいだろ」
「君はどこにいてもうるさいんだ」
 いつも、どこにいても。視界の端にその赤毛がチラつくだけで目に留まる。よく通る声は離れた場所にいても耳につく。
 天道の交友関係は広い。そこに天道がいると分かっても、誰と何を、ということまでは分からない。僕がそれを知る理由も権利もない。
 よく表情を見なくとも、天道が苛立ちを滲ませているのは明らかだった。怒りに任せて席でも立つかと思ったが、天道の口から出たのはそれとは全く違うものだった。
「じゃあ、俺が静かにしてたらいいんだな」
 呆れを含んだ声音で言うと、天道は自分の鞄から本を一冊取り出してきた。それを少し掲げると、柏木に向かって声をかける。
「翼も、いいか?」
「はい。オレもドラマの台本を持ってきてるので」
 二人のやり取りは柔らかく、柏木も少し遅れて台本を手元に広げて読み始めた。僕の手元には元々読みかけの本がある。沈黙に促されるようにして目線を落とした。それぞれのタイミングで、ページを捲る音だけが重なっている。
 不意に天道が席を立った。部屋を出ていくわけではないということは、彼が足を向ける方向を見れば分かる。楽屋の奥、僕の視界を出て行った数秒後、ペットボトルが二本、机に置かれる。彼は一つを手に取ると、自分で開けて口をつけた。残りの一本は僕の前に置かれたままだ。数ページを読み進めた後、僕は自然それを手に取った。
 しばらく経って、天道が最終チェックをしないかと言って本を閉じた。是非もなく僕と柏木も席を立つ。軽い発声とストレッチをしながら、練習用の動画を再生する。この番組の収録用に、多少変えた振りがある。激しく動くことはしないが、何度も反復した動きを再度頭の中で反芻した。
 番組スタッフが楽屋をノックする。その頃にはすっかりステージに立つ準備は整っていた。
「機嫌直ったな」
 楽屋を出る直前、天道の笑顔が僕の横を掠めていった。彼はもう涼しい顔で数歩前を歩いている。その一言が気に食わないのだと、僕は苦虫を噛み潰した。そうしてやっと、口の中の苦い味は今の今まで消えていたことを思い出した。