【松日】処方された口喧嘩

アルターエゴ松田と、強制シャットダウンから目覚めたばかりの日向の話

仲間への接触方法について相談した、数日後。
日向が個人端末の隔離領域へ接続したのは、普段の問診時刻を一時間近く過ぎてからだった。
画面が起動し、青白い光の中へ松田夜助の姿が投影される。
アームチェアへ腰掛けた松田は、挨拶より先に日向の顔を一瞥し、露骨に眉をひそめた。

「遅い」
「悪い。未来機関への報告が長引いた」
「四十八分の遅刻だ。謝る気があるなら、まず正確な遅刻時間を認識しろ」
「わざわざ数えてたのか?」
「接続ログに残ってる。お前を待ちながら時計と睨み合ってたわけじゃねぇ」
「分かってるよ。そこまで必死に否定しなくても、変な期待なんかしてないって」

日向は疲れたように笑い、端末の前へ腰を下ろした。
冗談めかして返したつもりなのだろう。だが、その笑い方まで普段どおりに整えられていることが、かえって不自然だった。
松田の眉間に刻まれた皺が、一段と深くなる。

「それで、今日も問診だろ」

日向は返事を待たず、指を折りながら項目を並べ始めた。

「睡眠は四時間。食事は朝と昼の二回。鎮痛剤は規定量以内。プログラムへの接続は、予定より二十七分超過。頭痛はあるけど、作業に支障が出るほどじゃない」

……聞いてもいねぇことまで、よく喋るな」
「毎日同じことを聞かれるからな。先にまとめて答えたほうが、問診も早く終わるだろ」
「俺が何を聞くかまで、お前が決めるな。今のは報告だ。問診じゃない」
「同じようなものじゃないのか?」
「まるで違う。報告は、お前が他人に見せてもいい情報だけを並べる行為だ。俺が診るのは、お前が自分から出したがらない部分だ」

松田の指先が動き、画面の隅へ生体情報が展開される。
日向の声は明るく、受け答えにも淀みがない。端末の前へ現れたときの姿勢も、未来機関の担当官へ報告するときと同じくらい整っている。
しかし、表示された数値は、その外面とはまるで噛み合っていなかった。

心拍数は高いまま下降せず、呼吸も浅い。脳の活動領域は異常なほど広がり、すでに終了したはずの査問に対する応答を、何度も頭の中で反復している。
松田との通信を始めても、張り詰めた状態がまったく解除されていない。

「本島の連中に、何を言われた」
「別に。いつもと同じだよ」
「質問の内容が同じだったかどうかは聞いてねぇ。何を言われて、その結果、いまも何を考え続けてるのかと聞いてる」
「そんな大げさなものじゃない。仲間の精神復旧率と、プログラムの進捗を確認されて……あとは、カムクラの表出兆候がないか、念入りに調べられただけだ」
「一四二七時、心拍数が急上昇してる。直前に何を聞かれた?」

日向は一瞬言葉を止めた。
誤魔化す言葉を探すように机へ視線を落としたが、松田が急かすことなく待っていると、やがて諦めたように口を開いた。

「未来機関から更生計画を打ち切られたら、抵抗する意思はあるか。それから、仲間の中に絶望状態へ戻る人間が現れた場合、俺はそいつを庇うのか、とか」

淡々と答えながら、日向は机の上で両手を組んだ。
互いの指が、痛いほど強く絡み合っている。

「最後に、カムクライズルとして世界を見ていたときの感覚を、いまも覚えているかって」
「何と答えた」
「覚えてる。でも、いまの俺は日向創だ。カムクラの判断に支配されることはない。世界の復興と、仲間を救うために必要な才能だけを使ってる、って」
「模範解答だな」
「ああ。それで納得してくれたよ」
「嘘をつけ」

鋭い声が、日向の言葉を途中で切り落とした。

「その数値で『納得した』は成立しない。査問後から、同じ答えを頭の中で反復してる。相手が納得したと判断したなら、自分へ言い聞かせる必要はない」
……そこまで分かるのか」
「文章そのものを読んでるわけじゃねぇ。発話記憶を処理する領域が、同じ周期で活動してる。四十八分の遅刻と同じく自動記録だ」
「便利だな、お前の自動記録」
「お前にとって都合が悪い機能ほど、医者にとっては有用なんだよ」

日向は組んでいた両手を解き、誤魔化すように肩をすくめた。

「それでも、報告は問題なく終わった。いまさら考えたって結果は変わらないだろ」
「査問が終了したことと、反芻が止まったことは別だ。さっさと力を抜け」
「抜いてるって」
「歯を食いしばったまま言う台詞じゃねぇな」

指摘され、日向はようやく奥歯へ力が入っていることに気づいた。
意識して顎を緩めても、思考までは止まらない。
あの答えで本当によかったのか。疑いを深める言葉を口にしなかったか。担当官が最後に見せた沈黙には、何か意味があったのではないか。

もし、次の報告までに仲間の数値を改善しなければ。
もし、打ち切りの判断が下されたら。
もし、日向の中に残るカムクラの存在を理由に、全員が処分対象へ戻されたら――

「おい、目を閉じろ」

松田の声に、日向は顔を上げた。

「急になんだよ」
「呼吸を整える。四秒かけて吸って、八秒かけて吐け。俺が数えるから、お前は呼吸だけに集中しろ」

日向は納得のいかない顔をしながらも、渋々目を閉じた。
松田の声に合わせて息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
一度。二度。三度。繰り返すうちに、日向の肩には先ほどより余計な力が入っていた。

「八秒って、思ったより長いな。途中で何秒まで数えたか分からなくなる」
「俺が数えてる。お前まで数えるな」
「でも、間違えたら意味がないんじゃないか?」
「その『正しくやらなきゃ意味がない』って思考を止めろと言ってる」

さらに数回、深呼吸を繰り返す。
波形は改善するどころか、決められた秒数どおりに呼吸しようとする緊張によって、別の乱れを生じさせていた。

「もういい。目を開けろ」

日向はすぐに目を開き、不満そうに松田を睨んだ。

「なんだったんだよ。さっきより疲れた気がするぞ」
「一般的な鎮静法では、かえって緊張が上がると確認した」
「やっぱり実験台にしたな?」
「有益なデータが取れた。喜べ、被験体」
「患者を番号で呼び始める一歩手前みたいな言い方をするなよ」
「番号のほうが聞き分けがいいなら、明日からそうしてやる」

不満を口にしながらも、日向は机へ手をつき、立ち上がろうとした。

「とにかく、今日はもう大丈夫だ。問診が終わったなら、プログラムの確認に戻る」
「何を根拠に大丈夫だと判断した?」
「作業をしてたほうが気が紛れるんだよ」
「不安から逃げるために、考える対象を作業へ置き換えてるだけだ」
「それでも、何もしないよりはマシだろ」
「戻れると思ってんのか?」

嫌な予感とほぼ同時に、端末の画面へ警告表示が現れた。

《新世界プログラムへの接続権限が一時停止されました》

「またか! 今度は何時間だよ!」
「六時間だ。日付が変わるまでは作業禁止だ」
「待て。明日の接触に備えて、罪木の精神データを調整しないといけない。少し遅れたせいで、あいつがまた深い領域へ沈んだら――
「いまの脳波で触れば、必要のない領域まで弄る。接触が一日遅れる危険より、処置ミスの危険の方が高い」
「でも、まだ考えることが――

そこまで言いかけ、日向は口をつぐんだ。
何かを考えていなければ、不安だった。思考を止めた瞬間、未来機関から浴びせられた疑念も、仲間たちの処遇も、すべてが自分の手を離れてしまうような気がする。

……考えるのをやめたら、本当に何もできなくなる」

かすかな声だった。

「次に何が起きるか分からないのに、何もせずに寝てろって言われても無理なんだよ。考えて、準備して、できることを一つずつ潰していかないと……俺が止まった間に、取り返しのつかないことが起きるかもしれない」
「だから、お前は休むことまで仕事に変えるのか」
「何だよ、それ」
「呼吸一つまともに任せられねぇ。正しく休めてるか、何秒眠れたか、その間に何が遅れたか。休息まで管理項目に変えて、失敗しないよう自分を監視してると何か違う?」

日向の唇が引き結ばれた。返す言葉は出てこない。
休めと命じるだけでは休まない。
呼吸法の治療すら新しい義務として処理し、さらに自分を追い詰める。

松田は数日前の問診記録を呼び出した。
罪木への接し方を相談していた最中、古い雑誌のプロポーズ特集を見せたときのデータ。日向が反論を始めた時点で、高止まりしていた数値は正常域へ戻っている。
記録にはまだ、《要検証》という注記が残されたままだった。

「日向」
「なんだよ」
「プロポーズのことはどうなった」
「してない。というか、あれを本気の助言として教えるなよ」
「医者の指示を無視したのか。だからお前は、いつまで経っても二点なんだ」
「生活習慣の点数と、プロポーズに何の関係があるんだよ!」

予想どおり、日向が即座に食いついた。
松田は前回の記録と現在の波形を並べ、表情を変えないまま、アーカイブの中から例の流行雑誌を引っ張り出す。

「ちょうど昨日、関連記事を見つけた。プロポーズが不満なら、別の方法を選べ」
「まさか、そのためにわざわざ探したのか?」
「検索履歴から関連項目が自動表示されただけだ。お前のくだらねぇ相談へ、追加でリソースを割くわけねぇだろ」
「絶対に嘘だ。お前、俺が怒るのを面白がってるだろ」
「被害妄想まで始まったか。安心しろ。そいつも問診記録へ追加しておいてやる」

日向側の画面へ、新しい特集ページが強制的に転送される。
派手な文字と原色の装飾に囲まれた見出しには、こう書かれていた。

【運命の恋を始めるために! 初対面の女性を必ずときめかせる七つの行動】

……嫌な予感しかしないんだけど」
「内容も読まずに判断するな。お前が知りたがってた、最初の接触方法が七種類も載ってる」
「その見出しの時点で信用できないんだよ。人間の感情に『必ず』なんてあるわけないだろ」
「文句は編集部に言え。読むぞ。その一、相手の目を見つめ、名前を呼ぶ」
……まあ、それくらいなら普通だな。」

日向の警戒が、ひとまず緩む。
松田は何の抑揚もなく、次の項目を読み上げた。

「その二。偶然を装って、相手の前へ何度も現れる」
「待て。急に怪しくなったぞ。仮想空間で何度も接触するのは必要だけど、偶然を装う意味はないだろ」
「相手に運命を感じさせるためらしい」
「こっちが仕組んでる時点で、運命でも何でもないじゃないか」
「その三。相手の帰り道をあらかじめ調べ、先回りして待つ」
「完全に駄目だろ!」

日向が机へ手をつき、勢いよく身を乗り出した。

「それ、恋愛じゃなくて尾行だからな! 偶然を装って何度も会うのも、帰り道を調べるのも、普通に怖いぞ!」
「記事には『思いがけない場所で再会する、ロマンチックな驚き』と書いてある」
「驚くのは間違いないけど、別の意味だ! 被害に遭った側が真っ先に考えるのは、ロマンチックじゃなくて通報だからな!」
「古い資料だ。時代によって恋愛観や社会通念は変化する」
「時代へ責任を押しつけるな! いつの時代でも、帰り道に先回りされたら怖いだろ」

画面の隅で乱れていた波形が、ひととき揺れを収める。
前回と同じく、変化は記事の提示ではなく、日向が反論を始めたあとに現れた。
松田はその時刻を記録し、次の項目へ指を滑らせる。

「その四。相手の逃げ道を塞ぎ、壁際へ追い込む」
「なんで段階を踏むごとに犯罪性が上がるんだよ?」
「相手を強く動揺させることで、心拍数を上昇させる。その生理反応を恋愛感情によるものだと誤認させる手法らしい」
「それはときめきじゃなくて、身の危険を感じてるだけだろ! 神経学者なら、恐怖と恋愛くらい区別しろよ」
「心拍数の上昇、発汗、呼吸の乱れ。生理反応だけを比較すれば、共通する部分は多い」
「本人が恐怖だと感じてるなら、どれだけ数値が似てても恋愛にはならないだろ。相手の意思を無視して、身体の反応だけ都合よく解釈するな」
「なるほど。ずいぶん熱心な反論だな」
「お前が本気で推奨してるような顔で読み上げるからだ!」

日向の声が隔離室へ響き渡る。
先ほどまで机の前で硬く縮こまっていた身体は、いつの間にか真っ直ぐ起き上がっていた。
未来機関との査問を反芻していた思考も、いまは目の前にある馬鹿げた記事への反論で埋め尽くされている。

「では、その五。出会ったその日に将来を約束する」
……待て。またプロポーズじゃないだろうな」
「指輪を差し出し、『初めて会ったときから、あなたと結婚すると決めていました』と伝える」
「またそれかよ! 何日前に却下した案を、別の記事で正当化しようとするな」
「俺の提案じゃねぇ。旧世界の一般的な恋愛観だ」
「記事を選んで読み上げてるのはお前だろ? それに、お前が言ったんじゃないか。目覚めたあと、誰を頼って、誰を拒んで、どう生きるか――その人自身が選び直せる余地を残せって」

日向は机へ身を乗り出し、画面の中の松田を真っ直ぐに指差した。

「出会ったその日に将来まで決めたら、その余地を最初から全部潰すことになるだろ? 俺の中にカムクラの才能があるからって、相手の気持ちまで何もかも分かるわけじゃない。こっちが勝手に『これが最適解だ』って押しつけたら、それは治療じゃなくて操作だ」
「カムクラは、プロポーズする前に相手の了承を取るのか?」
「なんで俺にカムクラの求婚手順を聞くんだよ! そもそも、プロポーズが了承を取るためのものだろ!」
「お前の中にいるんだろ。俺よりは詳しいはずだ」
「同じ身体にいたからって、あいつの恋愛観まで分かるわけないだろ」
「使えねぇな」
「そもそも、あいつが誰かにプロポーズする前提で話を進めるな」

声を荒らげた直後、日向の言葉が不意に途切れた。
松田の背後では、日向の精神状態を示す波形が、緩やかな曲線を描いている。
査問を終えてから高止まりしていた数値は正常域へ近づき、同じ答えを反復していた神経活動も止まりかけていた。

……おい」
「なんだ。まだカムクラの結婚観について話したいのか?」
「違う。お前、もしかして……

日向は、画面に表示された雑誌と松田の顔を交互に見た。

「この記事を参考にさせるつもりなんて、最初からなかったんじゃないか?」
「ようやく自分が参考資料にも劣る理解力だと気づいたか。こんな記事を真に受ける患者なら、別の検査が必要だ」
「話を逸らすな! お前、わざと俺が腹を立てるようなものを選んで、反応を見てただろ」
「自意識過剰だな。俺がお前一人を怒らせるために、わざわざ旧世界の雑誌を探し回ったとでも思ってんのか?」

図星を突かれても、松田の表情は微動だにしなかった。

前回と今回の波形を重ねてみた。
異なる不安を抱えた、別の日の記録。それでも、日向が自分の言葉で反論し始めた直後から、過剰な神経活動は同じ傾きで下降している。

「被験体の反応を観察するのが俺の仕事だ。そして結果は良好。今日の問診はこれで終わりにする」
「待て。勝手に結果だけ出して終わらせるな。俺を怒らせたことと、この数値に何の関係があるんだ?」
「呼吸法を試していたときより、心拍数も脳波も安定してる。前回の一例だけなら偶然で済んだが、今回は同じ条件で再現した」
「だからって、患者をわざと怒らせて休ませる医者がどこにいるんだよ」
「一般的な治療法が効かねぇ患者には、別の手段を使うしかないだろ。結果として、お前の脳は休んでる。さっきより、ずいぶんよく声が出てるじゃねぇか。呼吸も深くなった。少なくとも、死体から騒音源くらいには回復したな」
「処方する側が一番腹の立つ言い方を選ぶのか?」

日向は釈然としない表情のまま、画面の中の二つの波形を見比べた。
反論の材料を探しても、先ほどまで胸を押さえつけていた息苦しさが薄れていることだけは否定できない。
未来機関の担当官が見せた表情も、査問で自分が選んだ言葉も、いまはもう頭の中を埋め尽くしてはいなかった。
代わりに残っているのは、くだらない雑誌を大真面目に読み上げた松田への苛立ちと、散々声を張り上げたあとの気怠い疲労だけだ。
張り詰めていたものが解けたせいか、不意に大きな欠伸が漏れた。

日向は慌てて口元を手で覆う。

……今のは違う」
「何が違うんだ」
「別に、眠くなったわけじゃない。ただ、喋りすぎて酸素が足りなくなっただけだ」
「欠伸一つに、よくそこまで見苦しい言い訳を組み立てられるな」
「お前に治療が成功したみたいな顔をされたくないんだよ」
「成功したかどうかを判定するのは医者だ。患者じゃない」

松田は呆れたように鼻を鳴らすと、画面上へ日向の服薬記録と接続権限を並べた。

「作業領域への接続権限は、朝まで戻さねぇ。鎮痛剤も追加するな。水を飲んで寝ろ」
「子供じゃないんだから、それくらい自分で決める」
「自分で決め続けた結果が、睡眠二時間と栄養ゼリー一個だろうが。作業権限を戻すのは、最低限の判断力を取り戻してからだ」
「今日は二食食べた。睡眠だって四時間は取っただろ」
「それを考慮して、今日の生活習慣は百点満点中七点だ。前回より三点も上がり、改善率は七十五パーセントだ。驚異的な進歩だな」
「数字を使えば馬鹿にしてないことになると思うなよ」

日向が画面を睨みつける。
松田はその視線を正面から受け止め、わずかに口角を歪めた。
笑ったようにも見えた。
日向がそれを確かめるより早く、通信終了の表示が画面へ現れる。

「待て。まだ、わざと俺を怒らせたことについて話が終わってない」
「脳波は正常域へ戻った。査問への反芻も止まった。今日の目的は達成した」
「目的って……やっぱり最初から、これを治療として試すつもりだったのか――

最後まで言わせることなく、松田は通信を切断した。
青白い光が消え、隔離室が静寂へ沈む。
しばらく動けないまま、黒い画面の中の自分と向き合う。やがて日向は視線を伏せ、肺の底に溜まっていた息を細く吐き出した。

……本当に、腹の立つ医者だな」

吐き捨てた声には、もう先ほどまでの張り詰めた響きは残っていなかった。
日向は松田に言われたとおり水を飲み、念のため新世界プログラムへ接続できないことを確かめてから、重い身体をベッドまで運んだ。
目を閉じると、未来機関の査問ではなく、例の雑誌に書かれていた馬鹿げた文面が浮かんでくる。

――出会ったその日に将来を約束する。

「そんな奴、信用できるか……

誰へともなく呟いてから数分も経たないうちに、日向の意識は深い眠りへ落ちていった。



通信を終えた松田は、問診中の数値を改めて同じ時間軸の上へ並べた。
一般的な鎮静法では、日向は自分を休ませることさえ、新たな義務として処理する。その結果、「正しく休まなければならない」という緊張が生じ、かえって脳への負荷を増やしてしまう。

一方で、反論している間だけは、未来機関が求める「希望」として振る舞う必要も、仲間を導く存在でいる必要もない。相手を不安にさせないよう、言葉や表情を選ぶ必要さえなくなる。
ただ、腹が立ったから言い返す。そこには計算も、演技も、自己犠牲も存在しない。

治療に利用できるのは、怒りそのものではない。
反論させることで、日向が背負い込んでいる役割と、出口のない思考を一時的に中断させることだ。
前回の記録で見つけた反応は、今回の問診で再現された。仮説のまま残しておく理由はない。
松田は《要検証》の注記を消し、精神管理方針の記録へ新しい項目を追加した。

《過剰な思考負荷および感情抑制を確認した場合、反論を誘発する話題を提示》

入力を終えたあと、松田は手元に不審なシグナルの解析ウィンドウを展開した。
日向の数値そのものは、すでに正常域へ戻っている。
だが、新世界プログラムへ接続した直後に発生する異常な神経刺激だけが、ほかの負荷から切り離されたように残っていた。
睡眠不足でも、未来機関から受けたストレスでもない。日向が仲間の精神深層へ接続するたび、同じ領域へ集中して蓄積されていく、ごく微弱な異常信号。

これまでに隔離してきたログを重ね合わせ、松田の指が一度止まった。
不規則なエラーに見えていた波形の中に、微かな反復パターンがある。発生する座標も、神経活動が跳ね上がるまでの間隔も、完全な無作為ではなかった。

……やっぱり、余計なものが混じってやがるな」

何者かが意図的に隠したコードなのか。それとも、プログラムの奥に残された別の機能なのか、まだ断定できるだけの材料はない。
少なくとも、その信号は日向の神経系へ向けて負荷を流し込んでいる。

松田は該当するログに識別タグを付け、未解析データの保管領域へ回した。
それから、先ほど閉じたはずの流行雑誌を再び開く。
次回の問診で使えそうな、より腹の立つ記事を探すために。