しゅう as 猫田しゅうぞう
2026-02-15 13:45:01
2299文字
Public GQX
 

遅刻する男

GQX シャアシャリ
遠距離恋愛中のバレンタイン

 シャリアは困惑する男と、彼の持つ一輪の薔薇を交互に見た。
 なにしろカフェのテラス席だ。それでも携帯端末に示されている情報と自分を見比べている配達員は、店の住所とそこにいる人物宛にと指定を受けたというのである。
 テラス席でマグカップをちびちび啜っている、涼しげな青みがかった緑の髪の紳士――そこまで指定されれば間違いようもないだろう。
「いえ、大丈夫です。心当たりがありますので。すみません、ご迷惑をおかけしましたね」
 シャリアは配達員に微笑んでチップを渡すと、進んで花を受け取った。花びらの色で差出人は示されたようなものだった。
 棘を落としてラッピングされ、カードの添えられたそれは今朝摘まれたばかりだろう。みずみずしい花びらに鼻先を寄せるまでもなく、芳しい香りがただよう。添えてある二つ折りのカードを開けば、電話番号が滑らかな筆致で書いてあった。
 シャリアは溜め息を薄くこぼしながら端末を取り出して、その番号を呼び出す。
 呼び出し音は長く続かなかった。数秒の空白の後に「お急ぎですか」と先んじて平坦に尋ねれば、電話の向こうで相手が笑みをこぼした気配があった。無音にノイズが少し乗っていて、クリアな通信とは言えない。それにすこしばかりタイムラグもあるらしいことはすぐにわかった。それでも相手がくつろいだ様子であるのはたしかなようだ。古い符丁が返ってくる。
「“別に急いでいませんよ”――いまも使われているのか?」
「まさか。もう民間に広まってますよ。それで?どうしてこんな贈り物を?」
「うん、君の声が聞きたくなった。それにこれぐらいのことはしたくてね」
「これぐらい?」
「HappyValentineというやつだ」
「ああ」
 そうでした、とシャリアは腕時計に目を落とす。盤面では十五日だ。だが電話口の向こうではまだ日付変更線を越えていないのだろう。
「いまはどちらに?」と尋ねるとわずかな空白を挟んで、電話口で「しまった」と声がした。
「時差か」
「ええ、そのようですね」とシャリアは小さく笑みを零して電話口をからかう。「あなたらしくない失敗では? そんなにお忙しいのですか」
「まあ――少し、トラブルを巻き取っていてな」
 椅子の背もたれに体を預けたのか、軋むフレームの音が遠くに聞こえる。息を吐く声音に瞼を下ろし、シャリアは彼の姿を想像した。
「君こそ馬車馬のように働いているそうだが」
「そんなことは。私は毎日家に帰れていますからね」
「それはいい。私はまあ――うん、いいんだ。そのことは。それより君、いささか気が抜けているように見えるが」
「見えるとは――
 シャリアはふいに直感に引き寄せられるまま視線を近くの建物の角へ向けた。設置されたカメラに、そこではじめて気がついた。すぐそばに鳥を迎える巣箱があるので、監視カメラの類いではないだろうそれが、どうしてか、こちらのほうへ向いている。
「まさか」
「うん、それだ。それの映像を見ているよ」
「犯罪ですよ」
「ウェブカメラだ。世界中に公開されてる」
「でもあなた、カメラを動かしているでしょう」
 電話の向こうを見つめるようにシャリアはカメラを見つめながら「早く戻して」と子供を諭すように言った。そしてカメラのレンズが巣箱のほうへ戻るのを見届けてから、テーブルに置いたマグカップに口を付けた。先ほど嗅いだ薔薇の甘さとは対称的に香ばしいスパイスの香りが鼻先に立ち上る。
「ネタばらしが早すぎたか」
「顔が見たいのならビデオ通話でもしてくださればいいでしょう」
「だめだ。会いたくなりすぎる」
 苦々しげな言葉にシャリアはもう一口チャイを啜った。席に着いたときは熱々で舌を火傷させそうだった湯気は穏やかで、チャイの味を素直に楽しめる程度には冷めていた。
 電話口の男は遠くから見るぐらいがいい、ウェブカメラ程度の解像度でないと諦めがつかないなどと言う。
「しかしそれさえ取り上げるとはな」
「だって、あなたばかりずるいでしょう。私もあなたの姿が見たいです」
 シャリアは言い返した。電話口の向こうの男が息を飲み、それから深いため息を吐いて「いつもと違う事を言う」と恨めしげに言った。
「見せられる顔じゃない」
「あなたが? 信じられませんね。何徹目なのです」
「たぶん三日かな」
「なら、こんな手配をしている場合じゃないでしょう」
「いや。君の声が聞きたかった。口実だよ。本当なら会いたい」
 シャリアは返事を聞きながら、テーブルに置いた一輪の薔薇に視線を落とした。寝る間も惜しんでいる男が手配した、その美しく、芳しく、情熱的な贈り物に目を細める。透明なフィルムごしに残された葉のふくらみと茎を指先でなぞれば「花を贈られるのははじめてです」と素直な言葉がこみ上げた。それから「すてきな贈り物をありがとう」と唇が緩むのに任せて続けた。
「来月にお礼をしても? 日付を決めたら連絡します。だからこの番号は残しておいてくださいますか」
……君がかけてくれるのなら」
「必ずかけます。だからそれまでは良い子にしていてくださいね」
 柔らかくシャリアが言うと、電話の向こうではたっぷり十秒は無言が続いた。
 今すぐ顔が見たい、と思って待っていると「うん」と子供じみた声で返事が返った。それから「覚悟しておけよ、シャリア・ブル。俺にそんな予告をするからには」と掠れるような低い声が続いたものだから、シャリアは興奮に染まっているだろう相手の頬の色を思い浮かべて「なら、期待してうかがいましょう」と笑って返してやるしかなかった。