まさか軍服を着たまま髭剃り用に石鹸を泡立てる日が来ようとは夢にも思わなかった。それも他人の髭剃りのためなどとは、考えつきもしなかった。
だいたい、どうしてこういう話になったのだかをシャリアはどうしてもうまく思い出せなかった。言いくるめられたことだけは確かだが――。
クラシックな道具は見事に揃えてあったが、理容室のような設備があるわけでもない。呼び出された大佐の私室だ。
備え付けの洗面所で鏡を覗き込みながら自分の髭を手入れするのとはまるで話が違っている。
しかし石鹸を泡立てる手を止めると現実に立ち戻らねばならないような気がしてならず、それでしばらくの間はボウルの中でもこもこと形を成した石鹸の泡を丹念にブラシで泡だてている。
もちろん、いつまでもそれを続けられるわけではない。きめ細やかな泡はすっかり濃密なものに変わっている。さすがにここまで泡が仕上がってしまえば、泡立ちが悪いので待ってくれなどという言い訳も立たない。それに今、上官の口元を覆っている蒸しタオルだって冷めてしまう。いや、これについては手遅れかもしれない。
諦めてボウルとブラシを脇の机の上に置き、シャリアは膝をついた。目の前で背もたれのない椅子に座り、自分を待っている上官の顔を覗き込むためだ。彼は俯いたまま、冷え始めているだろう蒸しタオルに顔を埋めている。眠りに落ちかけているのかもしれなかった。
「大佐」と、呼びかけながら肩にそっと手を添える。
思えば、常日頃は手袋ごしであるため、素手で触れるのははじめてのことだ。そのためもあってか、即座に彼の意識が浮上するのがわかった。ニュータイプの感応は、接触のひとつさえ必要としない。シャアは違うらしいが、少なくともシャリアにとっては視線一つで拾い上げてしまうぐらいなので、左目にかかるように前髪を下ろして焦点をずらしさえしているほどだ。
しかしそんな小手先も、そうして触れてしまえば意味はない。接触ほど強い繋がりはない。
だから避けていたのだが――とシャリアは少しばかり暗い気持ちになる。この年若い上官が本当にこれを楽しんでいることがわかってしまうせいだった。
しかし髭剃りをするのに手袋をしたままというのは難しい。水にも濡れることだし、他人の髭剃りともなれば、指先の細かな感覚はどれほどあっても安心できない。それこそ避けようもなかった。
シャアは常日頃かぶっている仮面もヘルメットも外していた。抑え込まれている時間が長いからなのか、彼の金髪は少し癖がついている。しかし室内灯のぼけたような灯りでさえ輝いて見えた。前髪の隙間から、切長の青い瞳が何度か瞬くのが見える。
目が合うのを恐れて、シャリアはわずかに目を細めた。ほんのわずかに視線を落とし、視線が合うのを避ける。
「うん、すまない。すこしぼうっとしていた」
「構いません。私も手間取っておりましたので」
シャリアは案の定冷めかけているタオルを受け取り、これも机の上へよける。そして乾いた大判のタオルをシャアの首元にかぶせると、ようやく角が立つほど泡だったボウルを手に取り直した。
それからすでに泡をしっかり蓄えているブラシを無意味にぐるりと回した。
「大尉、遠慮しなくていいんだ。わたしが頼んだことだからな。貴公が責任を負うことは何もない」
シャアは微笑んで瞼を下ろした。そして部下が自分の顎先をそうしてまじまじと見たところで、髭剃りの必要があるようにはほとんど見えない。しかし言われてみれば、うっすらと金の髭がまだらに伸び始めているかもしれなかった。だがどうにも産毛のようなものだなとシャリア・ブルには思えた。髪のように光できらきら輝いて、輪郭を淡くは見せるかもしれない。必要があるのかは疑問が残った。だがしっかりと剃って欲しいと頼まれ、あまつさえそれを断れなかったからここに至っているのだ。
意を決したシャリアには「失礼します」と口にして言えたか自信がなかった。
幸いにもまだ暖かさを残している泡を、無駄な肉も脂肪もない青年の口元に手早く、しかししっかりと撫でるようにして乗せていく。支えるために首筋に添えた指先から、襟先ごしだが心地よさがじんわりと泡の熱のように伝わってきていた。
「ああ、これはなかなか」
「喋らないで。口に泡が入ります」
注意をすれば、「心地いい」という感想が言葉ではなく思念としてぶつけられる。シャリアはそのこそばゆさに耐えるべく眉根を寄せた。
鼻下ではブラシの毛先を指で潰すように持ち直し、鼻先に泡がつかないように慎重に泡を乗せる。顎下まで乗せ切ってしまえば、泡が消えるまでが勝負になる。手早くカミソリに持ち替えると、シャリアは力を抜いて少しずつ、しかし手早く泡ごと肌を剃り上げてやった。
空いた手で頬上の皮膚をわずかに持ち上げながらも、力を入れずにカミソリで肌を撫でていく作業は集中を要する。泡がどんどんなくなっていく中でも、手先を誤って切り傷でもつけやしないかという緊張が彼の感覚を研ぎ澄ませるようだった。手早く、しかししっかりと。一度下から上へと剃り上げた箇所を、念入りに上から下へと剃り上げてやる。一通りを剃り終えると、あとは顎下だけだ。
ただ、顎下を剃るには明確に喉元を曝けてもらう必要がある。詰襟を緩めずに首をあげさせれば苦しいだろう。
「よろしいですか」とシャリアは改まって聞いた。
瞼を下ろしてされるがままになっていたシャアは「緩めてくれて構わなかった」と目を開いた。
そうするとシャリアは集中のために顔を寄せていたので、自然と二人はかつてないほどの至近距離で見つめ合うことになった。それこそ下ろした前髪さえ透かすような眼力の、シャア・アズナブルその人と。
思わず固まるシャリア・ブルを見透かすようにシャアは目を細めた。ふ、と唇も嬉しそうに緩む。
もしかすると仮面の下でも時折、こういう表情をしていたのかもしれないとシャリアは思い当たった。伝わってくるのは好意だった。それも混じり気無しの、心地よさがある。思わず緊張が解けると、シャアは嬉しそうに言った。
「貴公は実に真面目な男のようだ」
シャリアは目を細めて返した。
「からかうのはやめてください。私は刃物を持っているのですよ」
「もちろん、わかっている。だが君に対して心配する必要はない」
シャアはシャリアが巻いたタオルの下で自分で詰襟を緩め、首元を寛がせた。それから「喉元ぐらい、これからいくらでも預けることになるのだから」と自信満ちた言葉とは裏腹に従順そうな仕草でもって、しかめ面の部下へ喉元を曝け出した。
「二度とはごめんです」
シャリアはとうとう隠さずにはっきりとそう言い捨てたが、消えかけている泡を追うように再び上官の肌へ優しくカミソリを滑らせてやった。
おしまい
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クラシックな髭剃りしないだろしなーとか思ったがこれまでだって趣味を優先して書いてきただろ!と自分を叱咤して書いた おれは満足だ
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