しゅう as 猫田しゅうぞう
2021-10-10 14:51:37
1394文字
Public ソーロキ
 

邂逅

弟に何度も出会う兄上(本人不在)

もともと芸術に興味はなかった。もちろん、わかりやすい技巧の凝らされたものなら美しいと思う。けれどそれ以上はない。美しいと感じるものをものを愛でること、思想をくみ取ること、そうしたことの煩わしさと静けさに耐えがたいほど幼稚であったと言い換えることもできるかもしれない。
その日だって付き添いだった。別段眺める気はなく、その頃にいい仲になった相手とのデートの口実に過ぎなかった。何の展示会なのかだってわかっていなかった。
探していたわけじゃない。だがお前を見つけてしまった。
ずいぶん昔、それこそおれたちと賭けをして遊んでいたような遠い昔から、あちこちに足跡を残してきたのだろう。
それほど大きくはない絵だった。幅だって片腕の長さほどもない。
描かれていたのは草に覆われた崖に一人佇み、暗い海を眺める男。後ろ姿で、ほとんど影のような姿。顔など見えない。だが絵に写し取られたその姿は間違いなくお前だった。
丁寧な筆だが、絵の具を厚く重ねるその時だってきっとお前が誰なのか知らずにいたのだろう。神々しくも、仰々しくもない。
天井画のようにアスガルドで描かれたものとは違う。神話として描かれたものとも、おれと敵対してミッドガルドに残された記録ともまた違う。ニューアスガルドに残っているだろうものとも似つかないはずだ。
けれどわかる。確かにわかる。
おれはまるで考えたこともなかった。お前がそうして誰かの記憶に残るということを。
お前の写真はない。今となってはアスガルドの消失でなにひとつ当時のものはない。残された民がニューアスガルドで新たに創ったものはあるだろうが、像でも絵でも、もはや本人を前に作られた物は一つだって残っていないと思っていた。
それがどうだ。あるではないか。
おれは本当に心底驚いた。そんなことは考えたこともなかった。
だがいざ探そうにも探すのは難しかった。特徴を伝えたところで、そんなのはありふれているし、最初に見つけた絵だって弟だと言って誰がわかるのだろうかとおれも思わないではない。厄介なことにお前はそもそも男の姿とも限らず、それがまた探すことを難しくした。結局人任せにできなくて、おれはどんどん宇宙じゅうで美術界隈を好む人間と知り合い、親交を深めることになった。
それでもお前を見つけるのは年に何度もあるようなことじゃなかった。
一つ絵を見つけて作家を辿ろうにも、大成した者は少なく、その上寡黙な作家が多かった。さらにはお前がいるものはひとつかふたつ。銅像なんかにしてもそうだ。写真では何枚も見つかったが、それは例えば報道写真家の撮った場面に居合わせているだとか、そういった、お前が認識していたかもあやしいものばかりだった。
だが探すほどにわかるが、お前はあちこちに居た。痕跡を残した。様々な時代、様々な惑星に。
おかげでおれは今さらになってお前を見つけられる。
その頃のお前がどんな風に過ごしていたのかはわからない。いつ頃のことなのか、それが自分たちの生きた時代のいつにあたるのかだって照らし合わせるのはひどく億劫なことだ。
けれどお前がいたという証拠を見つける度、おれは嬉しくなる。他人の目に映ったお前を見つける度に、その存在のたしかさを喜んでしまう。
たぶん、いつか、おれはあの夜のあと、おれの知らないお前の痕跡を見つけることだろう。
いつか。たぶん。きっと。