前回
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「右手がどうかしたのか?」
ソーが顔を上げると、カウンターの向こうに陣取ったのは常連の老人だった。何紙かの新聞を手に、長いときには朝から晩までのんびりと過ごす常連客だ。銀のようにも見える白髪はいつも短く整えられ、清潔感にあふれる彼は背もまだ丸くなく、若々しさがあった。ダイナーよりも街中のカフェなんかが似合うだろう彼は、数年前に先立ったという妻と一緒に都会からこちらに越してきたのだという。まだ十年も経たない新参者さと挨拶をしたときからソーに親しみを持って接してくれる。庭木の管理が大変だと言うので、枝切りの手伝いをしたこともある。ブランデー入りのアイスティーはそこで初めて飲んだのだった。
自分で初めて作ったときはブランデーを入れすぎたが、と前置く老人が妻を思い出しているだろうことに、ソーは苦く笑みを浮かべるしかなかった。
なにも知らなかったと気づきを得るのはソーの記憶にも新しかったからだ。
それからソーは彼と話すたびに、庭木を整えたその夏の午後の記憶がよぎる。
アスガルドで暮らしたころとは違う友人のもてなし。そして覚えのある苦い気づき。
ソーが記憶に目細めているあいだにも、老人は目尻の皺を深めて「いやに真面目な顔で見ているじゃないか」とソーの視線を落としていた右手を視線で示す。
二人分の視線を受ける右の手のひらには傷一つない。
「
――なにも」
ソーは微笑んでみせた。
「なにも残っていないのを確かめているだけだ」
ソーは時折女々しい感傷に捕らわれる。その自覚はあった。なにしろダイナーは四六時中忙しいわけではなく、ふいにぼんやりと物思いに耽ってしまうタイミングは多い。
もちろん、なにも残っていない手のひらを見つめても、傷が浮かび上がることはない。なにも起きない。ソーはダイナーに一人、鎧もなく人間のように暮らしているだけで、何一つ変わらない。
わかっていても、視線を落とす。
傷は残らず、あっさり癒えたそれを惜しんでいるのだとソーが自覚するには、季節が一巡りするほど時間を要した。
いっそ刃こぼれした刃だったなら、あるいは手入れもされずに錆さえ浮いていたのなら、傷の一つぐらい残ったかもしれなかった。繰り返しそんなことを恨みがましく考えているという自覚さえも、その運命の日のように唐突に訪れるものであった。そのままならなさに、その晩は酒に酔うことすらできなかった。
幾度思い返したところで、それはソーにとっては何の変哲もない一日だった。
手のひらを切り裂いた刃だって、いつもそうであったように手入れが行き届いていた。なんの代わり映えもしなかった。目の前の弟の態度以外は。
短剣はあまりに滑らかだった。皮膚も肉も、触れたことに気づかずすんなりと受け入れてしまったのかもしれない。
冗談めかして向けられた刃を払うでもなく掴み返せば、ロキの手はあっさりと短剣を手放した。だから刃はソーの手のひらを浅く傷つけただけで落ちた。
そのように行き先を失った短剣は二人の間に虚しく音を立てて落ち、いつも通りよく磨かれた床に血が意味もない柄を残した。
ロキは短剣を拾わなかった。一瞥すらしなかった。
別れを向けた兄をそうしたように、抜き身の短剣は捨て置かれた。
だから一緒に地球の田舎町に飛ばされたそれは、いまや唯一ソーが持つアスガルドの代物だ。
身につけていた鎧も装飾品も、短剣以外はすべて質屋に売り、車と当面の現金に替えたのでもう残っていない。地球のどこかにはあるだろうが、もはや取り戻すことはオーディンが置き忘れたテッセラクトよりもずっと難しいことだろう。
いまやソーがヘイムダルの名を呼んでも虹はかからない。
それでソーは持ち主のかわりに、今も時折短剣の刃を研ぎ、時折薄く油を引いては磨いている。
それなりに金に困ることはあったが、この短剣だけは手放せなかった。細かな細工があるわけでもない、魔術の一つだってかかっていない代物だ。売り払ったところで正当な対価が手に入るわけもない。
あの日、驚きに膝をついたソーを見下ろす弟の瞳は、雨に濡れた木々の葉を思い出させた。つややかに雫が光る、雨上がりの夕暮れ時だ。
言葉なく視線がぶつかっても、その瞳を揺らしもしないロキは、ひとしきり恨み言を述べ追えると、もう口を開かなかった。
たびたび絵に写し取られてきたあの皮肉っぽい歪みさえ唇には浮かんでいなかった。冷たくて、何を考えているのだかわからない。
弟の唇からは、別れの代わりに呪いがひとつ。吹き荒れる魔力の渦に飲まれる一瞬、ソーは短剣を掴んだ。
それでも、深く手のひらには食い込む刃の痛みの記憶はない。
傷ももはやない。すぐに癒えたそれは薄い痕さえ残らなかった。
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あと2パートほどある 予定
ソーロキになるのは次の次かも知れない(おそい)
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