しゅう as 猫田しゅうぞう
2020-03-12 22:17:15
1289文字
Public ID:INVADED
 

ドアを開ける

ID:INVADED
酒井戸と鳴瓢

呼吸、瞼、それからようやく意識が芽生える。
視界に入る一つの死体に、オレは自分の名前を思い出す。下の名前はない。酒の井戸と書いてサカイド。誰かに説明するように、そう物語る。世界にオレを定義するように。あるいは世界がオレをそう定義したと理解するために。
腰まで伸びる黒髪に真っ白なワンピース。人となりは知らないが、しかし誰だか知っている。カエルちゃん。糸の切れた人形みたいな不自然さで横たわるカエルちゃんは死んでいた。見開いたままの瞳は動かず、その目元は涙の痕がある。きっとたくさん泣いたのだろう。力を入れることもなく落ちたような腕には拘束された跡があり、握りしめられ固まったその両手には何もない。何かを握っていた痕跡さえなかった。
殺されたのだ。オレは彼女の開いた口からあふれた血だまりまで距離を詰めて見下ろす。血が乾き始める頃の匂いがした。
口の中をのぞき込もうと膝をつき、手をついたその時、背後で音がした。

認識に対して痛みは遅い。いつだってそうだ。
衝撃に肉体がコントロールを失う。意識は弱い。瞬きさえ出来ずに床に転がる。カエルちゃんの血だまりに強かに打ちつけた額が濡れる。その感触にようやくオレは腕を動かした。まるでそのやり方を思い出したみたいに思考が肉体を引き上げる。背後の誰かの、腕かなにかを必死に掴んで引き寄せる。
それは腕に自信がなくてもできることだが、うっすらと覚えてる。オレにはわかる。咄嗟に体が反応し、排除しなければと思考するまでもなく、肉体が意思を呼び起こし、おぼろげな輪郭は確信になる。
できると、どこかでわかってる。名探偵であるならばと酒井戸は答えを持っている。
自分が誰かわからなくても、そこがどこかわからなくても、オレの感傷とはまるで無関係にそんな確信が残ってる。べつにミズハノメに文句があるわけじゃない。ただ事実として、オレは酒井戸でも、あいつはオレに成り得ない。オレの覚えているべきことをあいつはいつだって忘れる。忘れられる。

忘れてしまえるのだ。
手がドアノブに張り付けばいいとさえ願うあの瞬間を。
静まりかえった家の、あの空気、あの匂い。湿って不快な金気臭さ――
もちろんそんなのは二度とないはずだ。幻想だ。妄想だ。錯覚だ。きっとそうだ。繰り返し思い出すたびに塗りつぶされる誇張された記憶に過ぎない。全部終わってしまったことじゃないかとオレ自身わかってる。わかりきっている。妄想だ。もうあんなことは起きない。起きたことが繰り返されることはない。夢じゃないのだから。だが今目の前のドアノブにオレは躊躇わず手を伸ばすことはできないだろう。ドアを開けることを躊躇い、足を止めるだろう。

だが酒井戸には何もない。ドアを開いた先におびえる必要なんかない。
誰かのイドで名探偵になり、すべてを失いようやくできるそれを、しかし酒井戸はまるでなんとも思わない。思えやしない。なにしろ何も覚えていない。

あの匂い、あの空気、静まりかえった誰もいない我が家。

呼吸、瞼、それから意識。そうしてオレはすべて忘れる。ドアノブにだって触れられる。