しゅう as 猫田しゅうぞう
2019-09-11 22:06:44
1868文字
Public ソーロキ
 

いかづち駆けて

逃げる男と落雷

彼は窓辺が定位置だった。時折窓の向こうに目をやって、それからなんでもなかったように本へ視線を落とす。そういう癖がある人だった。
「うちの犬、雷を怖がるんだ。こわがりだから」
絵の説明を求められてそう教えると、その人は神妙な顔で「気持ちはわかる」と言った。
「なんで? 大人なのに?」
「大人でもこわいものはこわい」
その人はそう言って、窓の外を見た。時折そうするのとまったく同じ仕草で。
「音も、眩しさも――慣れても好きになるわけじゃない」
つられて僕も木を塗る手を止めて、窓の外を見る。今日は曇りだ。雨雲は分厚くて、すでに遠くが光っているようだった。今に雨が降り出しそう。
同じように思ったのか、その人は立ち上がり、椅子にかけていたコートを羽織った。テレビでみたスパイみたいなトレンチコートだ。その人はコートを羽織っても真っ黒だった。タートルネックも、ジーンズも、薄いトレンチコートも、髪の色も、机の下の足元まで覗いても、みんな黒! 今日が特別じゃなく、いつもそうだ。今日みたいな日はとくに、電灯の影にだって紛れちゃいそうな真っ黒な身なり。
「帰るの?」
「雷が怖くてね」
その人はふふと目を細めて笑った。嫌な気持ちにはならないけど、瞳の色が青だか緑だかよくわからないのと同じように、冗談なのか本当なのか判断がつかない笑い方だ。
「これから帰るなら傘を差した方がいい。傘はあるか?」
「借りるつもり」
「そうしろ。油断せずお前も早く帰った方がいい」
僕が頷くと、彼は胸元から出したスカーフを首もとに詰め込むみたいに巻いた。つやつやした、僕が塗りたい葉っぱみたいな緑色は暗い色だからすんなり黒い服に埋もれてしまう。
この人はこのところ毎日この図書館で会う。僕はお母さんのパートが終わるまでの時間つぶしに。この人は――実はまだ何をしている人なのか知らない。でも僕が学校帰りに立ち寄ると、決まって同じ席にいるのだ。大きな本を開いていることもあれば、文庫本のこともある。でも必ず二冊、机に乗せている。毎日。少なくとも僕が立ち寄る開館日はいつも!
この図書館はそんなに空いているわけじゃないから、いつも同じ席を取るのは難しい。しばらく続いて、こっそりコツを聞こうと声をかけたから、顔見知りになった。僕が本を読まずに絵を描いてるのが気になったらしくて、次に喋るようになったのはあっちから声をかけてくれたからだ。それから時々、僕の絵をみて感想をくれる。絵は好きだから、興味を持たれるのはうれしい。
でも名前も知らない。
「ではお先に」
それからその人はいつもみたいに、僕をこどもじゃなく一人前みたいに扱うふりで別れを告げて去っていった。カウンターを通りがてら二冊の本を返却して。
それはいつもどおりのことだった。
彼がいつも立ち去るビルの角を見ようと窓を覗き込んだ瞬間、雷が近くに落ちるまでは。
ものすごい音だった。それに、思わず目を閉じる眩しさが、窓の向こうから差し込んで――停電が起きた。
図書館のなかの照明が全部落ちて、あちこちから起こる悲鳴と、「慌てないで!」という声が混じる。外の方が明るくて、僕はちかちかする目をこすった。ぼんやりとよく見えるようになってくると、見慣れた角で、彼は足を止めていた。いつもすぐにいなくなってしまうのにめずらしい。そう思ってよく見ると、彼の目の前は木が倒れていた。街路樹が斜めに割れて、煙をあげている。焼けてしまったのだ。落雷をはじめてみた。大丈夫だったのかなと思ってみていると、彼はくるりと踵を返して走り出した。慌てた様子ははじめてみる。何だろう、と角にもう一度目をやると、男の人がいた。逃げていった(そう、その男の人に気付いて僕ははじめて、彼はただ走っただけじゃなく、逃げたんだと気付いた)彼を、その人が見つめているのがわかった。その人からは青白い光がはじけているように見えた。友達のパパみたいな普通の格好なのに、まるでスーパーヒーローみたいだった。でもその人は逃げていった彼を追いかけたりはしなかった。走ったり飛んだり――そんなことはしなかった。
ただ、あの人が逃げていった道の先をじっと見つめて肩を落としている様子はなんだか迷子になったみたいだった。
しばらく釘付けになっているうちに、図書館の照明が戻って瞬いた。その明るさに瞬きしている間に、ビルの角には誰もいなくなっていた。ただそこは街路樹が倒れているだけで、もう誰もいなくなっていた。
そしてそれきり、彼は図書館に現れなくなってしまった。