Hnyanko
2026-07-19 10:25:03
18669文字
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ろくでもない世界にひとつの祝福を

2026年HappyBirthday悠真


 浅羽悠真は、自分の誕生日を忘れているふりが上手かった。

 忘れているわけではない。日付を見れば分かるし、朝から届く通知の数で嫌でも思い出す。端末の画面には、日付が変わった瞬間から祝いの言葉が積もっていた。短いもの、長いもの、少し砕けたもの、かしこまったもの。友人と呼ぶには距離が遠く、他人と呼ぶには近すぎる相手からのメッセージが、ひとつ、またひとつと増えていく。

 悠真はそれを眺めて、いつも通りの顔で返信をした。

 ありがとう。嬉しいよ。今度ご飯でも。

 自分で打った言葉なのに、どれも不思議なくらい軽かった。嘘ではない。祝われれば嬉しいし、相手が好意で言ってくれていることも分かっている。分かっているからこそ、悠真はきちんと笑う。画面の向こうに相手がいなくても、そういう文面を送るときは自然と口角が上がる。そうした方がうまくいくと、随分前から知っていた。

 けれど、誕生日というものを自分のものだと思ったことは、ほとんどなかった。

 生まれてきてくれてありがとう。

 その言葉を、悠真は上手に受け取れない。

 言われたことがないわけではない。むしろ、何度も言われてきた。けれどその言葉は、いつもどこか自分から少しだけ離れた場所に落ちた。目の前にいる浅羽悠真ではなく、誰かが見たいもの、誰かが期待したもの、誰かが安心したいものに向けられている気がした。

 それは、もしかするとただの思い込みなのかもしれない。

 けれど悠真は、そういう思い込みとずっと一緒に生きてきた。

 赤ん坊だった頃の記憶など、当然ない。親の顔も声も知らない。自分がどう泣いたのか、どんな手で抱き上げられたのか、何を理由に手放されたのかも知らない。残っているのは記録だけだった。病名。検査結果。引き取り先。移送の日付。書類の中で、自分は最初から人間というより、扱いに困る症例のようだった。

 物も言えない赤ん坊が、大きな病院の待合で置き去りにされる。

 その光景を、悠真は覚えていない。覚えていないのに、事実として知っている。知らなくてよかったことを知っている。知ってしまったものは、もう知らなかった頃には戻せない。

 それでも、悠真はもう恨んでいない。

 恨み続けるには、あまりにも時間が経ちすぎた。幼い頃は、どうして、と考えたこともある。自分のどこが悪かったのかと、答えの出ない問いを何度も喉の奥で転がしたこともある。けれど、いくら考えても赤ん坊だった自分に何かができたはずもなく、何かを変えられたはずもなかった。

 だから悠真は、いつの間にか考えるのをやめた。

 研究所の白い天井、消毒液の匂い、足音の反響。あの場所で過ごした時間は、今でも時折、夢の底から浮き上がってくる。悪夢と呼ぶには淡々としていて、思い出と呼ぶには冷たすぎる。目を覚ましたあと、胸の奥に薄い氷が張るような感覚だけが残る。

 それでも、あの場所のすべてが憎かったわけではなかった。

 そこには、確かに優しい人もいた。

 医師であり、師匠でもあった人。悠真に知識を与え、名前で呼び、必要以上に子ども扱いせず、それでいて子どもでいることを許してくれた人。体調が悪い日には眉をひそめ、無茶をすれば本気で怒り、検査の合間にくだらない話をしてくれた人。弓の使い方を教えてくれた人。生きる術を、まだ小さかった悠真の手にひとつずつ持たせてくれた人。

 悠真は、あの人の声を今でも覚えている。

 名前を呼ばれるときの、少し低くて、穏やかな響き。もう少し休め、と言うときの呆れたような息。よくやった、と褒めるときの、ほんのわずかな笑み。あの場所で、悠真は初めて、誰かを信じてもいいのかもしれないと思った。

 けれど、その人もいなくなった。

 優しかったからだ。

 優しい人は、優しくない場所では長生きしにくい。そんなこと、子どもの頃の悠真に分かるはずもなかった。けれど、大人になった今なら分かってしまう。あの人はきっと、見逃せなかった。切り捨てられる誰かを、黙って見ていられなかった。研究所の中で起こる、名前のつかない小さな歪みや、大きすぎる不正や、誰かが誰かを道具にすることを、ただ仕方ないと片づけられなかった。

 だから、巻き込まれた。

 そして、行方不明になった。

 いなくなった、ではなく、行方不明。死亡も確認されず、帰還もない。最も残酷な空白だけを残して、その人は悠真の前から消えた。

 その空白を抱えたまま、悠真は大人になった。

 なくしたものを数え始めるときりがない。最初から持っていなかったものも、持ちかけて奪われたものも、守れなかったものもある。自分の体のことだってそうだ。エーテル適性減退症候群。名前だけはひどく整っている。まるで、それが何か説明可能で、管理可能で、受け入れ可能なもののように聞こえる。

 けれど悠真にとって、それは頭上に吊り下げられた刃物だった。

 細い糸で吊られた刃が、いつ落ちてくるのか分からない。今日かもしれない。明日かもしれない。十年後かもしれない。あるいは、落ちてこないまま終わるのかもしれない。誰にも分からない。分からないまま、見上げることも、見ないふりをすることも覚えてしまった。

 そんなふうに生きることに、悠真は慣れていた。

 慣れてしまっていた。

 だから、誕生日も同じだった。

 また一年、刃が落ちなかった日。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 端末が震える。新しい通知が来る。悠真は画面を見て、軽く笑った。何人かへの返信を済ませ、最後に届いたメッセージには少しだけ砕けた調子で返す。

『ありがとう。僕くらいしぶとい男になると、誕生日もだいぶ板についてくるね』

 送信して、悠真はひとりで少し笑った。

 しぶとい。

 自分で言っておいて、よく似合う言葉だと思う。

 数日前まで、死にかけていた体で仕事に戻っているのだから、我ながら本当にしぶとい。冗談めかしていなければ、笑えないくらいには。

 師匠だったものを眠らせた感触は、まだ手の奥に残っている。最後の一撃を放った瞬間の痛みも、視界がぼやけて音が遠くなっていく感覚も、イアスが殴られそうになった時に体が勝手に動いたことも、はっきり覚えている。

 あの時、自分は本当に限界だった。

 目も耳も、体の境目も曖昧になっていく中で、それでもイアスの前に出た。アキラくんを守ろうとした。約束したからだ。あんたにメーワクはかけない、と。

 それから、もうひとつ。

 ひどい頼みごともした。

 もし僕に発作が起きて、エーテリアスになったら。

 僕を殺してくれないかな。

 なるべく軽く言ったつもりだった。そういう頼みごとは、重く差し出したら相手が受け取れなくなる。だから冗談の端に引っかけるみたいにして、平気な顔をした。

 それでも、アキラがどんな顔をしたのか、悠真は覚えている。

 忘れられない顔だった。

 あの頼みは、今でも取り消せない。もしその日が来てしまったら、ホロウの中で何も分からないまま彷徨い続ける自分を、悠真自身が許せないだろう。誰かを傷つけるものに成り果てる自分を、見逃してほしいとは思えない。

 けれど、取り消せないことと、そればかりを見て生きることは違う。

 そのはずだ。

 端末の画面が、もう一度震えた。

 悠真は何気なく視線を落とし、表示された名前を見て、指を止めた。

『今夜、少しだけ出てこられるかい?』

 アキラからだった。

 文字列は短い。絵文字もない。飾り気もない。いつものアキラらしい、柔らかくて、少し拍子抜けするくらい簡単な誘い文句だった。けれどその短さが、悠真の胸の奥を指先でつついた。

 アキラは、今日が何の日か分かっているのだろうか。

 分かっているに決まっている、とすぐに思う。アキラはそういうところを外さない。いつも何も考えていなさそうな顔をして、見ていないような顔をして、実際は驚くほどいろいろなものを見ている。

 悠真が気にしていないふりをしていることも。

 祝われ慣れている顔で、ほんとうはどこにも触れられたくないと思っていることも。

 たぶん、あの頼みごとの重さを、まだ手の中に持っていることも。

 きっと、見透かしている。

『いいよ。どこに行けばいい?』

 送信してから、悠真は小さく息を吐いた。

 すぐに返ってきたのは、洒落た店の名前でも、予約制のレストランでもなかった。街外れの高架下。昔、ふたりで一度だけ雨宿りをした場所だった。

 その場所を見た瞬間、悠真は思わず笑ってしまった。

 アキラらしい。

 派手なものを選ばない。人目のある場所も選ばない。美しく整えられた祝福ではなく、少し埃っぽくて、夜風が通って、たまたま居場所になってしまうような場所を選ぶ。悠真が一番逃げやすくて、同時に一番逃げにくい場所。

 ずるいな、と思う。

 ずるいくらい、優しい。

 外へ出ると、夜の空気は少し冷えていた。昼間の熱がまだ地面のどこかに残っているのに、風だけが先に季節を進めたような温度をしている。街灯の光が歩道に薄く伸び、建物の窓にはまばらに明かりが灯っていた。

 悠真は上着のポケットに手を入れたまま歩いた。特別な服に着替えることもしなかった。アキラに会うのに、格好をつけないわけではない。ただ、今日だけは、飾り立てた自分で行きたくなかった。

 高架下に近づくにつれて、車の音が大きくなる。頭上を走る車両の振動が、コンクリートを伝って足元に落ちてくる。夜の街のざわめきから少し外れたそこは、明るすぎず、暗すぎず、誰かに忘れられた休憩所のように静かだった。

 ベンチのそばに、アキラがいた。

 黒い上着の前を少し開けて、片手に紙袋を提げている。もう片方の手には、温かい飲み物らしい紙カップが二つ。悠真に気づくと、アキラはいつもの調子で軽く手を上げた。

「悠真」

 名前を呼ばれただけで、胸のどこかがほどける。

 悠真はそれを顔に出さないように、ゆっくり近づいた。

「こんな時間に呼び出すなんて、アキラくんも悪い子だね」

「そうかな。日付が変わる前に捕まえたかっただけさ」

「捕まえるって言い方、ちょっと物騒じゃない?」

「逃げそうだったから」

 何気ない声で言われて、悠真は一瞬言葉に詰まった。

 アキラは、責めるような顔をしていなかった。ただ事実を言っただけ、という顔で紙カップを差し出してくる。悠真はそれを受け取りながら、わざと肩をすくめた。

「僕が? 逃げるわけないだろ」

「うん。逃げるわけないって顔で、逃げる準備するタイプだよね」

「ずいぶんな言われようだ」

「違う?」

 アキラの目は穏やかだった。

 穏やかなまま、逸らしてくれない。

 悠真は紙カップに口をつけた。中身は甘くないミルクティーだった。熱すぎず、ぬるすぎない。飲みやすい温度。こういうところが、アキラは本当にずるい。何でもない顔で、悠真の好みを覚えている。覚えていることを大げさにしない。大切にしていることを、恩着せがましく渡してこない。

「寒くない?」

「平気だよ」

「一応、これも持ってきた」

 紙袋の中から出てきたのは、薄手のブランケットだった。

 悠真は目を瞬かせてから、ふっと笑った。

「至れり尽くせりだね。アキラくん、僕のこと好きすぎない?」

「うん。好きだよ」

 あまりにも普通に返されて、悠真は言葉を失った。

 茶化したつもりだった。いつものように、軽く投げて、軽く返ってくると思っていた。なのにアキラは、何でもないことのように肯定した。空が暗いとか、風が冷たいとか、今日は少し眠いとか、そういうことと同じ温度で、好きだと言った。

 悠真は思わず目を伏せた。

……そういうの、心臓に悪いんだけど」

「知ってる」

「知っててやってるの?」

「少し」

「ひどいな」

「今日は悠真の誕生日だから」

「誕生日だと、ひどいことしていいんだ?」

「誕生日だから、ちゃんとする」

 アキラはそう言って、ベンチに腰を下ろした。

 悠真も隣に座る。ブランケットを膝にかけられ、紙袋の中から小さな箱が出てくる。白い箱。コンビニか、遅くまで開いている店で買ったのだろう。箱の端に少しだけついたクリームの跡が、妙に現実味を帯びていた。

「ケーキ?」

「うん。大きいのは食べきれないと思って」

「僕、甘いものもわりと食べる方だよ」

「知ってる。でも今日は、量より火をつけたかった」

「なるほどね。合法的にケーキが食べられる日だ」

「それだけ?」

「それだけでも十分でしょ。僕くらいになると、誕生日のありがたみも実利で測るからね」

 悠真がわざと軽く言うと、アキラは少しだけ目を細めた。

「悠真は、重たい空気を軽くするのが上手いね」

「褒めてる?」

「半分」

「もう半分は?」

「少し怒ってる」

「おっと」

 悠真は肩をすくめた。

「誕生日に怒られるの、なかなか新しい趣向だね」

「悠真は、自分の命を軽く扱うのが上手すぎる」

 その言葉は、静かだった。

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 悠真は紙カップを見下ろした。湯気はもうほとんど立っていない。手のひらに残る温度だけが、じわじわと皮膚に染みている。

「ひどいなあ。僕ほどしぶとく生きる気満々の男、なかなかいないと思うけど?」

「知ってる」

 アキラはすぐに言った。

「だから怒ってるんだよ」

 悠真は、今度こそ黙った。

 アキラはそれ以上責めなかった。責めないまま、紙箱を開ける。中には、小さなチーズケーキが二つ入っていた。片方の上に、細いろうそくが一本立てられている。

 悠真はそれを見て、喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。

 ろうそく。

 たった一本の、頼りない火。

 研究所で見た明かりは、いつも白かった。蛍光灯、モニター、検査機器のランプ。どれも冷たくて、正確で、消えることを許されていない光だった。火の揺らぎとは違う。生き物のように震えて、少しの風で傾いて、それでもそこにある小さな明かりとは違う。

 アキラがライターを取り出す。

 火が灯った。

 ろうそくの先で、小さな炎が揺れる。

 悠真は、その光から目を離せなかった。

「命綱って言ったの、覚えてるかい?」

 アキラがふいに言った。

 悠真は瞬きをして、隣を見る。

「覚えてるよ。僕、けっこう名言多いからね」

「二人には、僕の命綱になってほしいって」

「うん。あの時は本当に助かった。プロキシどのの腕前には、いまも感謝してるよ」

「じゃあ今日は、僕にも少しだけ命綱を持たせて」

 悠真の口元に浮かべていた笑みが、ゆっくり止まった。

 命綱。

 あの時は、事件を追うために必要な言葉だった。信頼できるプロキシ。ホロウでの案内役。自分が追いかけていた真実へ辿り着くための協力者。

 けれどアキラは、今それとは違う意味でその言葉を差し出している。

 悠真を、終わりではなく来年へ繋ぐものとして。

「アキラくん」

「うん」

「そういうの、重いよ」

「重くなるよ」

 アキラは、悠真を見た。

「悠真の命の話だから」

 悠真は、何も言えなかった。

 アキラの声がした。

 いつもと同じ声なのに、ほんの少しだけ改まっている。改まりきれず、けれど茶化すこともできない、そんな声だった。

「誕生日おめでとう」

 悠真は笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。

 口元が動く。いつもの顔を作ろうとする。ありがとう、と軽く返せばいい。そうすれば、この場は綺麗に進む。ケーキを食べて、少し話して、寒くなったねと言って帰る。何も傷つけず、何も暴かず、誰も泣かずに済む。

 でも、アキラが見ている。

 悠真が上手に笑うところではなく、その奥で何かを飲み込もうとしているところを、じっと見ている。

……ありがとう」

 やっと出た声は、思ったより低かった。

 アキラは頷いた。

「願い事、する?」

「ろうそく一本で?」

「一本のほうが都合のいい時もあるさ」

「アキラくんって、そういうの信じるんだ」

「信じるというか、やりたい」

「僕に?」

「悠真に」

 悠真は息を吐いた。

 願い事、と言われて、悠真は一瞬だけ別の約束を思い出した。

 もし僕に発作が起きて、エーテリアスになったら。

 あのとき、自分はひどく軽い声でそう言った気がする。そういう頼みごとは、重く差し出したら相手が受け取れなくなる。だから冗談の端に引っかけるみたいにして、なるべく平気な顔をした。

 僕を殺してくれないかな。

 言葉にした瞬間、アキラがどんな顔をしたのか、悠真は今でも覚えている。

 あの頼みは、今でも取り消せない。もしその日が来てしまったら、ホロウの中で何も分からないまま彷徨い続ける自分を、悠真自身が許せないだろう。けれど、取り消せないことと、そればかりを見て生きることは違う。

 終わりの約束だけを、アキラに持たせたくはなかった。

 ろうそくの火が揺れている。

 小さくて、頼りなくて、けれどまだ消えていない。

 悠真はその火を見つめたまま、ゆっくり息を吸った。

「願い事ね」

 悠真はわざと軽く言った。

「病気が治りますように、とか?」

 言った瞬間、空気がほんの少しだけ沈んだ。

 自分で言っておきながら、ひどい冗談だと思った。ひどい、というより卑怯だ。先に自分で傷に触れてしまえば、相手はそれ以上踏み込めない。笑って流せる形にしてしまえば、深刻になる必要がない。

 悠真はそうやって何度も、自分の痛みを他人の手から取り上げてきた。

 けれどアキラは、笑わなかった。

 怒りもしなかった。

 ただ、炎を見つめたまま、静かに言った。

「それも、願っていいよ」

 悠真は瞬きをした。

……否定しないんだ」

「しないよ」

「無責任な願いだよ。叶う保証もない」

「保証があるなら、願い事じゃなくて予定だよ」

 あまりにもまっすぐな言葉だった。

 悠真は少しだけ目を見開いた。それから、どうしようもなく笑いそうになって、けれど笑えなくて、紙カップを両手で包んだ。指先に温度が移ってくる。体の外側から、ゆっくり温められていく感覚があった。

「アキラくんは、時々ひどく単純なことを言うね」

「難しくしても、しんどいだけのときがあるから」

「僕のこれは、単純じゃないよ」

「うん」

 アキラは頷いた。

「でも、悠真に生きていてほしいっていうのは、単純なことだよ」

 その言葉で、悠真の中の何かが静かに止まった。

 音が遠くなる。

 頭上を走る車の音も、夜の街の気配も、どこか遠い。目の前には小さな火がある。隣にはアキラがいる。膝にはブランケットがあって、手の中には温かいミルクティーがある。

 ただそれだけのことが、どうしてこんなに苦しいのだろう。

 悠真は、冗談を探した。

 いつものように軽く返せる言葉を探した。アキラくんはほんとに僕のこと好きだね、とか、そんなに言われると照れるな、とか、いくらでもあるはずだった。いつもなら、何も考えなくても出てくるはずだった。

 けれど、そのどれもが喉の手前で崩れていった。

 アキラは続けた。

「今日、祝いたかったんだ」

……うん」

「悠真が生まれたことだけじゃなくて」

 アキラの声は、少し低くなった。

「捨てられても、失っても、怖くても、ここまで来たことを」

 悠真は息を吸った。

 吸った息が、胸の途中でつかえる。

「アキラくん」

「うん」

「ほんとに重いよ」

「うん」

 アキラは悠真を見た。

 その目に、かわいそうだという色はなかった。哀れみも、同情も、安っぽい慰めもない。ただ、悠真を悠真として見ている目だった。強いところも、弱いところも、茶化すところも、逃げるところも、笑うところも、泣けないところも、全部を見た上で、そこにいることを許すような目だった。

「僕は、悠真をかわいそうな人だと思って祝いたいんじゃない」

 悠真は、ゆっくりアキラを見た。

「悠真が、何もかも嫌になってもおかしくない世界で、それでも前を向いてるから。子どもたちに、いつかきっといいことがあるって信じたいって言ったから。風が好きだって、自由って感覚をくれるからって言ったから」

 アキラの声が、ほんの少し揺れた。

「あんなに限界だったのに、イアスの前に立ったから」

 悠真の指先が、紙カップを握りしめる。

「あれは、約束したからだよ。メーワクはかけないって」

「それが怒ってるところ」

「怒られてばっかりだな、今日の僕」

「悠真は、誰かを守るためなら自分のことを後回しにしすぎる」

「そうかな」

「そうだよ」

「でも、それで助かったものもある」

「知ってる」

 アキラは言った。

「だから、余計に怒ってる」

 悠真は、何も返せなかった。

 アキラは悠真の無茶を否定しているわけではない。あの時、悠真が動いたことで守れたものがある。悠真が差し出したことで救えた子どもたちがいる。悠真が止まらなかったから、霧島の手に渡らずに済んだものがある。

 それを、アキラは分かっている。

 分かった上で、怒っている。

 悠真が生きる気でいることを、アキラは知っているから。

 しぶとく生きていくと言ったことを、覚えているから。

「僕はさ」

 悠真は、火を見つめたまま言った。

「誕生日って、苦手なんだよね」

「うん」

「生まれてきたことを祝われるのが、たぶん少しだけ苦手だ。だって、その日から始まったものがろくでもなかったから」

 言葉にした途端、胸の奥にしまっていたものが少しずつ形を持ち始めた。

 赤ん坊だった自分。

 捨てられた自分。

 研究所のベッドで目を覚ます自分。

 白い部屋。番号。検査。薬。記録。大人たちの声。

 師匠の手。

 弓を教えてくれた声。

 その人を、自分の手で眠らせた日。

「別に、毎日それを考えてるわけじゃないよ。そんなに暇じゃないし、僕はけっこう前向きで優秀だからね」

「うん」

「でも、誕生日って言われると、どうしても最初に戻るんだ。僕が生まれた日。僕が捨てられる前の日。僕がまだ何も知らなかった日。そういうものが、全部つながってる気がする」

 悠真は笑った。

 今度は、少しだけ本当に笑えた。

「おめでとうって言われるたびに、何を祝ってるんだろうって思う。僕が生きていること? 僕がまだ壊れていないこと? それとも、今年も何とか役に立てそうなこと?」

「悠真」

「うん」

「僕は、悠真がここにいることを祝ってる」

 アキラの言葉は、ゆっくり落ちてきた。

「生まれた瞬間に何があったか、僕は見てない。悠真が赤ちゃんの頃に、どういうふうに泣いたのかも知らない。研究所で過ごした全部も、師匠さんといた時間も、僕は横にいなかった」

 アキラは、少しだけ悔しそうに目を伏せた。

「でも、今ここにいる悠真が、その全部の先にいることは分かる」

 悠真は、何かを言おうとして、やめた。

「だから祝いたいんだよ。悠真が、僕に会うところまで生きてきてくれたこと」

 火が揺れた。

 今度は本当に、消えそうなほど大きく傾いた。悠真は無意識に手を伸ばしかけたが、アキラが箱を少しだけ庇うように動かした。小さな炎は、細いろうそくの先でまた立ち上がる。

 消えない。

 消えなかった。

 悠真は、その小さな火を見ながら、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 泣きそうだ、と思った。

 けれど、涙は出なかった。昔からそうだ。本当に泣きたいときほど、涙はうまく出てこない。体が先に警戒する。泣いている場合ではないと判断する。泣いたら視界が歪む。呼吸が乱れる。判断が遅れる。だから、泣けない。

 その代わりに、胸の奥だけがひどく痛んだ。

「アキラくんは、ずるいね」

「そうかな」

「ずるいよ。そんなこと言われたら、僕はもう誤魔化せない」

「誤魔化さなくていいよ」

「そう言われるのが、一番困るんだけど」

「困ってもいいよ」

 アキラは、あまりにも自然に言った。

「今日は、悠真が困ってもいい日」

 悠真は思わず笑った。

「何それ」

「誕生日特典」

「もっと楽しい特典がよかったな」

「じゃあ、ケーキもある」

「急に雑」

「センブリ茶もある」

「うん。かなり手厚い」

「ブランケットもある」

「至れり尽くせりだね」

「僕もいる」

 悠真は黙った。

 アキラは少しだけ首を傾げた。

「これは特典にならない?」

……なるよ」

 声が小さくなった。

 悠真は、自分でも驚くほど素直にそう言っていた。

「一番、なる」

 アキラは、安心したように笑った。

 その笑顔を見て、悠真は胸の奥がまた痛むのを感じた。アキラの笑顔は、時々ひどく無防備だ。こちらが手を伸ばせば届く場所にある。だからこそ、悠真は触れるのが怖くなる。触れてしまえば、自分のもののように錯覚してしまいそうで。失うときに、今度こそ立ち上がれなくなりそうで。

 でも、もう遅い。

 アキラはとっくに、悠真の人生の内側にいる。

 頭上の刃の下で、悠真がそれでも前を向こうとするとき、その先にいてほしいと思ってしまうほどには。

「願い事」

 アキラが言った。

「火、短くなってきた」

「ああ、ほんとだ」

 ろうそくは、いつの間にかだいぶ短くなっていた。溶けた蝋が白いケーキの上に少し垂れている。炎は小さいまま、しかし確かに燃えている。

「願い事、しないと」

「アキラくんがそんなに言うなら」

「うん」

「でも、何を願えばいいかな」

 悠真は考えるふりをした。

 治りたい。

 生きたい。

 師匠に会いたい。

 親を恨まないでいたい。

 誰かを守れる自分でいたい。

 怖くないと言えるくらい強くなりたい。

 いつか刃が落ちても、悔いがないと思えるように生きたい。

 願い事はいくらでもあった。いくらでもありすぎて、どれか一つを選ぶことができなかった。どれも重すぎて、小さなろうそく一本に預けるには申し訳ない気がした。

 それなら。

 悠真はアキラを見た。

 アキラは急かさず待っている。願い事を覗き込むでもなく、聞き出そうとするでもなく、ただ隣に座っている。

 それが、悠真にはたまらなかった。

「来年も」

 声が出た。

 思っていたよりも、ずっと小さい声だった。

「来年も、アキラくんに祝ってほしい」

 言ってしまってから、悠真は自分の言葉に少し驚いた。

 それは、あまりにも普通の願いだった。

 治療法でも、奇跡でも、失った人の帰還でもない。世界を変えるような願いではない。ただ、来年も同じ人に誕生日を祝ってほしい。それだけだ。あまりにもささやかで、あまりにも欲深い。

 なぜなら、その願いは来年があることを前提にしている。

 悠真が生きていることを。

 アキラも隣にいることを。

 ふたりが、この先も会えることを。

 そんな保証はどこにもないのに、まるで当然のように願っている。

 アキラはしばらく黙っていた。

 悠真は少し不安になった。

……重かった?」

「ううん」

 アキラは首を横に振った。

「来年だけ?」

 悠真は瞬きをした。

「え?」

「来年だけでいいの?」

 アキラは真面目な顔で言った。

 悠真は、その顔を見て、どうしようもなく胸がいっぱいになった。笑いたいのか、泣きたいのか、自分でも分からなかった。ただ、体の中で何かが崩れて、同時に何かが結び直されていくような感覚があった。

「アキラくん」

「うん」

「欲張りだね」

「うん」

 アキラは、今度ははっきり頷いた。

「悠真のことだから」

 悠真は片手で目元を覆った。

 涙は出ていない。

 出ていないのに、そうしないと顔を見られたくなかった。

「じゃあ」

 悠真は、手のひらの陰で息を整えた。

「一生分、予約していい?」

 言った瞬間、自分の声が少し震えているのが分かった。

 アキラは笑わなかった。

 茶化しもしなかった。

 ただ、とても静かに答えた。

「いいよ」

 悠真は目元を覆ったまま、動けなくなった。

「簡単に言うね」

「簡単じゃないけど、答えは決まってるから」

……そう」

「うん」

 アキラの手が、悠真の手首にそっと触れた。無理にどかそうとはしない。ただ、そこに触れているだけだった。悠真の体温を確かめるように。ここにいることを確かめるように。

「悠真」

「何」

「火、消す?」

 悠真は指の隙間からろうそくを見た。

 炎はもうかなり小さい。あと少しで自然に消えてしまいそうだった。けれど、消える前に自分で息を吹きかけることには、何か意味がある気がした。

 悠真は手を下ろした。

 アキラが見ている。

 夜風が吹く。

 頭上で車が走る。

 遠くで誰かの笑い声がした。

 この世界は相変わらずろくでもない。明日になれば、また何かが起きる。病気は治っていない。師匠はもう戻らない。親の顔も知らない。頭上の刃は消えない。自分の命に保証などない。未来はいつだって曖昧で、残酷で、時々ひどく無責任だ。

 それでも。

 悠真は、小さく息を吸った。

 生きていたいと思った。

 来年も、この人に祝われたいと思った。

 再来年も、その先も、同じように馬鹿みたいに小さなケーキを前にして、誕生日おめでとうと言われたいと思った。もっといい店に行ってもいい。家で祝ってもいい。任務の合間でも、雨の日でも、疲れきった夜でもいい。ただ、アキラがいて、悠真の名前を呼んでくれるなら、それでいい。

 悠真は、ろうそくの火を吹き消した。

 ふっと、暗くなる。

 けれど完全な暗闇にはならなかった。高架下の明かりがある。街灯がある。アキラがいる。

 消えた火の匂いが、ほんの少しだけ漂った。

「おめでとう」

 アキラがもう一度言った。

「悠真。生きててくれて、ありがとう」

 今度こそ、悠真は何も返せなかった。

 ありがとう、も。

 嬉しい、も。

 そんなこと言われると困る、も。

 どれも足りなかった。

 代わりに、悠真はアキラの肩に額を預けた。

 それだけで、アキラは何も聞かなかった。驚くこともせず、受け止めるように少しだけ体を寄せてくれる。肩越しに伝わる体温が、ブランケットよりもずっと温かかった。

「アキラくん」

「うん」

「僕は、たぶん怖いんだと思う」

「うん」

「いつまで生きられるか分からないことも、誰かを失うことも、また信じた人がいなくなることも。怖くないふりはできるし、実際、いつも怖がってるわけじゃない。でも、怖いんだと思う」

「うん」

「生きたいって思うと、余計に怖い」

 アキラの手が、悠真の背中に回った。

 ゆっくりと、そこに置かれる。叩くでも撫でるでもなく、ただ支えるように。

「生きたいって思うの、怖いよね」

 アキラの声は、少しだけ掠れていた。

「失うものが増えるから」

「うん」

「それでも、僕は悠真に生きたいって思ってほしい」

……勝手だね」

「勝手だよ」

 アキラは認めた。

「僕が、悠真に生きていてほしいから」

 悠真は目を閉じた。

 その勝手さが、どうしようもなく愛しかった。

 これまで、悠真の命は何度も誰かの都合に巻き込まれてきた。症例として、戦力として、期待として、責任として。誰かの都合で手放され、誰かの都合で利用され、誰かの都合で守られもした。

 でも、アキラの勝手は少し違った。

 アキラは悠真に何かをさせたいわけではない。役に立てと言っているわけでも、強くあれと言っているわけでもない。ただ、生きていてほしいと言う。そこに理由をつけるなら、アキラがそう願うから。それだけだった。

 それだけの願いが、どうしてこんなに重く、温かいのだろう。

「ねえ、アキラくん」

「うん」

「もし僕が、いつか急に動けなくなったり、何かを忘れたり、今みたいに笑えなくなったりしたら」

「うん」

「そのときも、誕生日を祝う?」

 アキラの呼吸が、ほんの少しだけ止まった。

 悠真はその沈黙を感じ取った。ひどいことを聞いている自覚はあった。けれど、今日は聞きたかった。聞いてしまいたかった。綺麗な約束ではなく、刃が落ちる可能性を含んだまま、それでもアキラが何を言うのか知りたかった。

 アキラは、ゆっくり息を吐いた。

「祝うよ」

「即答だ」

「うん」

「僕が、僕じゃなくなっても?」

「悠真がそう思うくらいつらい状態になっても、僕は悠真のことを悠真って呼ぶよ」

 悠真の喉が詰まった。

「それは、残酷かもしれないよ」

「そうかもしれない」

「僕が嫌がるかも」

「そのときは、嫌がられながら考える」

「雑だなあ」

「未来の悠真のことまで、今の僕が勝手に全部決めたくない。でも、祝いたいって気持ちは変わらないと思う」

 アキラは少しだけ体を離し、悠真の顔を見た。

「悠真がどんな状態でも、生まれて、ここまで来たことはなくならないから」

 その言葉で、悠真はとうとう笑った。

 ひどく頼りない笑いだった。いつもの余裕はなかった。かっこよくもなかった。けれど、たぶん本当に笑っていた。

「アキラくんは、本当に僕を逃がさないね」

「逃げたい?」

「どうだろう」

 悠真はアキラの目を見た。

 逃げたいと思うことは、これからもあるだろう。怖くなって、軽口を叩いて、距離を取ろうとして、何でもないふりをする日もある。アキラの優しさが眩しすぎて、手で遮りたくなることもある。幸せになりたいと思うほど、幸せを失う未来を想像してしまうこともある。

 けれど今は。

「今は、逃げたくない」

 そう言うと、アキラは少しだけ目を細めた。

「そっか」

「うん」

「じゃあ、ケーキ食べよう」

 あまりにも普通に言うから、悠真は吹き出した。

「この流れで?」

「この流れだから」

「情緒ってものがあるだろ」

「あるよ。だから、ケーキ」

「どういう理屈?」

「誕生日だから」

 アキラは真面目な顔でフォークを取り出した。

 悠真は笑いながら、それを受け取った。小さなチーズケーキは、ろうそくを抜いた跡が少しだけ崩れている。完璧な見た目ではない。けれど、なぜかひどく美味しそうだった。

 フォークを入れると、柔らかい感触が指先に伝わる。一口食べる。甘さは控えめで、少し酸味があって、夜の冷たい空気によく合った。

「おいしい」

「よかった」

「アキラくん、選ぶの上手だね」

「悠真が好きそうだと思って」

「僕のこと好きすぎない?」

「うん」

「そこはもう少し照れてもいいんじゃない?」

「照れてるよ」

「分かりにくいなあ」

「悠真が分かりやすいだけ」

「僕?」

「うん。今、嬉しい顔してる」

 悠真はフォークを止めた。

……してる?」

「してる」

「そっか」

 隠しきれていなかったのなら、それはそれでいいかと思った。

 今日は、そういう日なのだろう。

 悠真がうまく隠せない日。

 うまく笑えなくてもいい日。

 困っても、怖がっても、生きたいと言ってもいい日。

 誕生日というものが、もし本当にそういう日になり得るのなら、悪くないと思った。生まれたことを無条件に祝われるのは、まだ少し怖い。それでも、生きてきた時間を誰かが見つけてくれるなら。ここまで歩いてきたことを、よく来たねと言ってくれるなら。

 少しだけ、受け取れるかもしれない。

 ケーキを半分ほど食べたところで、アキラがふと思い出したように紙袋を探った。

「あと、これ」

「まだあるの?」

「プレゼント」

「十分もらったけど」

「これは別」

 差し出されたのは、小さな包みだった。

 綺麗に包装されているわけではない。シンプルな紙に包まれて、細い紐で結ばれている。悠真はそれを受け取り、指先で紐をほどいた。

 中に入っていたのは、小さなキーホルダーだった。

 金属製の、シンプルなプレート。表には何もない。裏返すと、小さく文字が刻まれていた。

『来年の予約済み』

 悠真は固まった。

 それから、ゆっくりアキラを見た。

……これ、いつ用意したの」

「少し前」

「僕が願う前だよね」

「うん」

「来年も祝う気満々だったんだ」

「うん」

「僕が断ったら?」

「そのときは、来年まで持ってる」

「強いなあ」

 悠真は、プレートの文字を親指でなぞった。

 来年の予約済み。

 馬鹿みたいな言葉だ。

 何の保証にもならない。病気を治す力も、刃を取り除く力もない。師匠を連れ戻すことも、過去を書き換えることもできない。ただの金属片。ただの約束。ただの願い。

 けれど悠真には、それがとても強いものに思えた。

 未来を信じるための、大げさではない証拠。

 明日を予定にするための、小さな重し。

 いつか終わらせてくれと頼んだ自分に、アキラは終わりとは別の約束を持ってきた。

 殺してくれ、ではなく。

 来年も祝うよ、と。

「一生分じゃないんだ」

 悠真が言うと、アキラは少し笑った。

「毎年更新する」

「商売みたい」

「その年の悠真に、ちゃんと渡したいから」

 悠真は、また何も言えなくなった。

 その年の悠真。

 来年の自分がどうなっているか、悠真には分からない。再来年も、その先も。体調が今よりいいかもしれない。悪いかもしれない。笑っているかもしれない。笑えないかもしれない。強くなっているかもしれないし、弱さを隠せなくなっているかもしれない。

 アキラは、そのどれか一つだけを選んで愛すると言わない。

 毎年、その年の悠真に会いに来ると言う。

 祝うと言う。

 悠真はプレートを握りしめた。

「ずるい」

「今日、何回目?」

「何回でも言うよ。アキラくんはずるい」

「うん」

「でも、ありがとう」

 その言葉は、今度はきちんと出た。

 アキラは少しだけ驚いたように瞬きをして、それから柔らかく笑った。

「どういたしまして」

 しばらく、ふたりは並んでケーキを食べた。

 会話は多くなかった。けれど沈黙は苦しくなかった。頭上を車が通るたび、低い振動が足元を震わせる。遠くの街灯がちらつき、夜風がブランケットの端を揺らす。アキラの肩が時々触れる。そのたびに、悠真はここにいるのだと思った。

 生きている。

 今、自分は生きている。

 その事実は、普段あまりにも当たり前の顔をしていて、時々ひどく重い。けれど今夜だけは、その重さが少しだけ温かかった。

「アキラくん」

「うん」

「来年は、もう少し大きいケーキでもいいよ」

「食べきれる?」

「アキラくんも食べるでしょ」

「食べる」

「じゃあ平気」

「再来年は?」

「気が早いなあ」

「一生分予約されたから」

「律儀だね」

「悠真のことだから」

 悠真は笑った。

 来年の話をする。

 再来年の話をする。

 それは、思っていたよりずっと勇気のいることだった。未来を口にするたびに、頭上の刃がかすかに光る。そんな保証はないと囁く。約束なんて脆いと笑う。お前は何度も失ってきただろうと、過去のどこかから声がする。

 それでも、悠真は言った。

「じゃあ、再来年はアキラくんの手作りでもいいよ」

「え」

「今、ちょっと怯んだ?」

「ケーキは、難しい」

「練習する時間はあるよ」

「悠真、急に厳しい」

「一生分予約したからね。期待してる」

 アキラが困ったように笑う。

 その顔を見て、悠真は胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 生きていたい。

 もう一度、そう思った。

 それは劇的な決意ではなかった。涙ながらの誓いでもない。夜の高架下で、食べかけのチーズケーキを前に、来年のケーキの話をしながら、ふと湧き上がっただけの小さな気持ちだった。

 けれど、悠真には十分だった。

 小さな願いを積み重ねることでしか、長い未来は作れないのかもしれない。今日のケーキ。来年の予約。再来年の冗談。その先の、まだ形のない約束。そういうものを一つずつ拾い上げて、刃の下を歩いていく。

 怖くないわけではない。

 でも、怖いままでも歩ける。

 隣にアキラがいるなら。

「そろそろ帰るかい?」

 アキラが聞いた。

 紙カップの中身は、もうほとんど残っていなかった。ケーキの箱も空になっている。ろうそくは小さな白い棒になって、箱の隅に転がっていた。

 悠真は少し考えてから、首を横に振った。

「もう少しだけ」

「うん」

「今日が終わるまで」

 アキラは端末で時間を確認した。

「あと少しだね」

「うん」

 誕生日が終わる。

 また普通の日が来る。

 祝福も、痛みも、記念日も、日付が変われば過去になる。けれど、今夜受け取ったものは、たぶん消えない。完全には消えない。苦しい日が来たら忘れるかもしれない。怖くなったら疑うかもしれない。それでも、どこかには残る。

 高架下のベンチ。

 小さなチーズケーキ。

 一本のろうそく。

 アキラの声。

 生きててくれて、ありがとう。

 悠真はポケットの中で、キーホルダーを握った。金属の冷たさが指に触れる。その冷たさすら、今は確かなものに思えた。

「アキラくん」

「うん」

「僕、来年も生きてるつもりでいるよ」

 アキラは、息を止めたようだった。

 悠真は前を向いたまま続けた。

「保証はないし、病気も治ってないし、正直どうなるか分からない。でも、来年も祝ってもらうつもりでいる」

「うん」

「再来年も、その先も。アキラくんに手作りケーキを作らせるくらいまでは、生きてるつもり」

「それ、かなり長生きしないと駄目かも」

「そんなに下手なの?」

「可能性はある」

「じゃあ、ますます生きないとね」

 悠真は笑った。

 アキラも笑った。

 その笑い声は、高架下の夜に小さく混ざって消えていった。世界を変えるほど大きな音ではない。誰かに記録されることもない。けれど悠真にとっては、ひどく大切な音だった。

 日付が変わる少し前、アキラが静かに手を差し出した。

 悠真はその手を見た。

 手を取ることは、簡単なようで難しい。誰かを信じることは、いつも少し怖い。握った手がいつか離れることを、悠真は知っている。手の温度が消えたあとに残る冷たさを、よく知っている。

 それでも、悠真は手を伸ばした。

 アキラの手を握る。

 温かかった。

 その温かさに、悠真は目を細める。

 頭上の刃は、まだ消えていない。

 でも今夜だけは、それを見上げなくてもよかった。

 アキラが隣にいる。手を握っている。来年の予約済み、と刻まれた小さなプレートがポケットに入っている。誕生日が終わっても、明日が来る。明日が来たら、また歩く。怖くても、面倒でも、痛くても、たぶん軽口を叩きながら歩く。

 生きていく。

 生きていきたい。

 そう思えたことが、今夜、アキラからもらった一番大きな贈り物だった。

 日付が変わった。

 端末が小さく震え、画面の隅で数字が一つ進む。

 悠真の誕生日は終わった。

 けれどアキラは、手を離さなかった。

「悠真」

「何?」

「来年も、おめでとうって言うよ」

 悠真は、少しだけ目を伏せた。

 それから、今度は逃げずに笑った。

「うん」

 夜風が吹く。

 高架下の明かりが、ふたりの影を足元に落とす。

 ろくでもない世界は、明日もたぶん、ろくでもないままだ。優しい人が傷つき、正しいことが報われず、病気は都合よく消えたりしない。失ったものは戻らないし、吊り下げられた刃の糸がいつ切れるかも分からない。

 けれど、その世界の中で。

 悠真は確かに、生まれてきた。

 捨てられても、失っても、怖くても、歩いてきた。

 いつかきっといいことがあると信じたいから、と誰かに言った。その言葉を、今夜は自分自身にも少しだけ信じさせてやってもいいと思った。

「アキラくん」

「うん」

「ありがとう」

 アキラは、握った手に少しだけ力を込めた。

「どういたしまして」

 短い返事だった。

 けれど悠真には、それで十分だった。

 生まれた日を、祝福として受け取るには、まだ時間がかかるかもしれない。過去は簡単には変わらない。胸の奥の空白も、頭上の刃も、明日になればまたそこにある。

 それでも。

 来年の予約は、もう済んでいる。

 悠真はポケットの中の小さなプレートを握りしめ、アキラの手を離さないまま、夜の街へ歩き出した。