yoAi_mochii
2601文字
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第106回狛日版週ドロライ

お題「訪問」「無気力」で書かせていただきました
未来機関パロ

未来機関の宿舎は、夜になるとひどく冷えた。
空調は一定に保たれているはずなのに、白い壁と無機質な照明のせいか、どこにいても人の暮らす温もりが感じられない。

日向は薄暗い廊下を歩きながら、手元の端末へもう一度目を落とした。

――明朝七時、神経反応検査。
食事は禁止。服薬は通常どおり。

それだけを伝えればよかった。わざわざ自分が出向く必要はない。
端末へ通知を飛ばせば済む話だし、実際、これまではそうしてきた。
それでも、今夜は直接顔を見ようと思った。
付き合い始めたからだ。

そう意識した途端、足取りがわずかに鈍る。

付き合い始めた、と言っても、何かが劇的に変わったわけではない。
査問の場では、狛枝は今も「元・絶望残党」であり、日向はその管理を任された未来機関の人間だ。業務中の会話は必要事項ばかりで、報告書の上では互いの名前すら記号に等しい。

二人きりになれば多少は違うが、狛枝は相変わらず皮肉ばかり口にするし、日向も素直に甘えられるような性格ではなかった。
恋人になったはずなのに、その実感だけが、どこかに置き去りにされている。

狛枝の部屋の前で立ち止まり、日向は二度ノックした。

「狛枝。起きてるか?」

返事はない。
もう一度、少し強めに叩く。

「明日の検査について伝えることがあるんだ。すぐ済むから――

そのとき、部屋の内側から布が擦れる音がした。
いる。
聞こえていないだけだろうか。

ドアノブへ手をかけると、鍵はかかっていなかった。
しかも、扉は完全には閉まりきっておらず、ほんのわずかな隙間を残している。

「狛枝?」

用件だけ伝えようと、日向は扉を数センチ押し開けた。

その瞬間、言葉を失った。

狛枝は、こちらに背を向けた状態だった。
未来機関から支給された黒いシャツの裾を引き上げ、ちょうど頭から脱ぎ去ろうとしている。
硬い布地が、白い背中を滑り落ちていく。
普段は厚手のコートや制服に覆われている身体。線が細いことは知っていたし、細すぎるほどだとも思っていた。
けれど、実際に露わになった背中は、日向が漠然と想像していたものとは違っていた。

華奢ではある。病的なまでに白い肌も、浮き上がった背骨も、触れれば簡単に壊れそうな危うさを孕んでいる。
それなのに、腕を持ち上げる動作に合わせて肩甲骨がくっきりと浮き、その周囲の筋肉が静かに躍動した。
細いだけではない。その身体には、間違いなく一人の男として生きてきた硬さがあった。
布の下に隠されていた、骨と筋肉の質量。
呼吸に合わせてわずかに上下する背。薄暗い照明を受けた肌の表面には、いくつもの傷痕が走っていた。

古く白く褪せたもの。まだ生々しい色の残っているもの。
刃物で裂かれたような細い線もあれば、何かに強く打ちつけたような歪な痕もある。

新世界プログラムの内部には存在しなかったもの。
報告書という無機質な文字の羅列でしか、知らなかったもの。
狛枝凪斗という人間が、現実の世界で背負ってきた痕跡がそこにあった。

日向は、声をかけることすら忘れていた。
覗くつもりなどなかった。すぐに扉を閉めればいい。
頭では分かっているのに、どうしても目を逸らせなかった。

狛枝の身体は、一見すると冷たそうに思える。けれど、シャツを脱いだ直後の肌には、確かに人間の熱が残っているはずだった。
その温度まで見えてしまいそうな気がして、日向の呼吸が音もなく詰まる。

……ずいぶん熱心だね」

不意に落ちてきた声に、日向の肩が跳ねた。
狛枝は背を向けたまま、脱いだシャツを片手にぶら下げている。

「な……
「入ってくるなら、もう少し堂々とすればいいのに」

ゆっくりと振り返る。
慌てて隠す様子は微塵もなかった。
むしろ日向の反応を確かめるように、狛枝はわざと緩慢な動作で身体の向きを変えた。

正面から見据えられると、背中よりもさらに逃げ場がない。
白い胸元。細い鎖骨。腹部へ続く薄い筋肉の陰影。
シャツに覆われていたはずの肌が、容赦なく日向の視界へ突きつけられる。

「違う、俺は……明日の検査の予定を伝えに来ただけで」
「へえ。未来機関では、検査予定を伝えるときに着替えを覗く決まりになったのかな」
「覗いてない!」
「じゃあ、どうしてまだ扉を閉めないの?」

言われて初めて、日向は自分が扉へ手をかけたまま立ち尽くしている事実に気づいた。
慌てて引こうとした指より先に、狛枝がこちらへ歩み寄る。

裸足が床を踏む音。
一歩。また一歩。
そのたびに、狛枝の身体が現実的な質量を伴って近づいてくる。

画面越しでも、報告書の中でもない。
息をして、傷を持ち、体温を帯びた生身の男。日向は後ずさることさえできなかった。
狛枝は扉の隙間へ顔を寄せ、逃げ場を失った日向の目を覗き込んだ。

……そんなところで息を潜めて、ボクを解剖でもしているのかい、日向クン」

唇の端が、ゆっくりと弧を描く。

「ボクみたいなゴミクズの破廉恥な着替えを覗き見するなんて……あはは、どんなお仕置きよりも興奮しちゃうな」
「お前、最初から気づいて……
「もちろん」

即答だった。狛枝は楽しげに目を細める。

「日向クンの視線って、意外と熱いからね」
……っ」

狛枝の指が、扉にかかった日向の手へ重なった。
肌が触れたのは、ほんのわずか。だけど、想像していたよりずっと温かい。
その温度が指先から腕へと伝わり、逃げ遅れた心臓を直接掴んだように、ドク、と脈を速めさせる。

「それで?」

狛枝が囁く。

「明日の検査の話をするだけなら、そんな顔になる必要はないよね」

日向は何も答えられなかった。

恋人になった実感がないなどと、ついさっきまで考えていた自分が馬鹿らしくなる。
こんなにも近い。こんなにも生々しい。嫌でも分からされる。
狛枝凪斗は、記録の中にいる監視対象でも、プログラムの向こう側にいた幻でもない。
自分と同じ場所に立ち、同じ空気を吸っている、触れれば熱を返す男だ。

狛枝は日向の沈黙さえ玩ぶように笑い、重ねた指へわずかに力を込めた。

「入っていく?」

閉じかけた扉の隙間から、剥き出しの肩と、甘く歪んだ笑顔だけが覗いている。

「それとも、覗くだけで満足したのかな。日向クン」