【松日】恋愛相談、非生産的につき

アルターエゴ松田と、強制シャットダウンから目覚めたばかりの日向の話

――本日一四〇〇時、第4リハビリ棟における各被験者の精神復旧進捗、および新世界プログラムの修正状況です。本島での査読をお願いします」

端末の向こうにいる未来機関の担当官へ、張りついた事務的な笑みを浮かべ、日向創は通信を切断した。
通信が途切れた途端、張り詰めていた力が抜ける。
日向は支えを失ったように、椅子の背もたれへ深く沈み込んだ。

……疲れた」

誰にも聞かれない暗闇で、ようやく本音の溜息が漏れた。

最初に目覚めた仲間たちも、少しずつ現実での生活を取り戻し始めている。
だけど、彼らの精神状態は未だ薄氷の上だ。九頭龍や左右田自身のリハビリだけでも手一杯で、眠り続けている他の仲間を起こす作業まで任せるわけにはいかなかった。
新世界プログラムの残骸を利用して再構築した、仮想空間での精神リハビリ。
かつて自分たちを地獄に閉じ込めた南の島を、今度は仲間を現実へ連れ戻すために使う。その皮肉に胸を痛める余裕すら、今の日向にはない。
連日、システムの改修と精神深層への接続を繰り返し、彼の脳は確実に摩耗していた。

個人端末の回線を、隔離領域へ繋ぎ直す。
画面が青白い光を取り戻した直後、スピーカーから聞こえてきたのは、労いとは程遠い冷酷な舌打ちだった。

「その喋り方はやめろ。端末越しでも、脳波が限界域に近いのは分かる。その状態で、よくあれだけ平然と報告できたな」

画面の向こうでは、松田夜助がアームチェアの奥へ腰掛けていた。
肘掛けへ片腕を預け、温度のない目でこちらを睨んでいる。

……うるさい。あれくらい気を張ってないと、本島の連中に余計な疑いを持たれるだろ」
「気を張るのと、通信を切った瞬間に死体みてぇな顔を晒すのは別の話だ」
「誰が死体だ」
「姿勢を見ろ。半分液状化してるぞ」

言われて、日向は自分が椅子からずり落ちかけていることに気づいた。
身体を起こす気力すら湧かず、机へ両肘をついたまま、乱暴に髪を掻き上げる。

「外では、こんな顔できないんだよ」
「知るか。俺の前でまで取り繕ってんじゃねぇよ。余計な演算を増やされると、観測する側のリソースの無駄だ」
「普通はそこで、『俺には弱いところを見せてもいい』くらい、気の利いた台詞を言うもんじゃないのか?」
「そんな低レベルな慰めで安心できる脳なら、最初から苦労してねぇだろ」
……それもそうだな」

日向は自嘲気味に小さく笑った。
松田との通信が始まってから、すでに数日が経っている。
最初の頃にあった、一言ごとに互いの神経を逆撫でするような緊張は、いつの間にか薄れていた。
松田の物言いが改善されたわけではない。日向が慣れたというより、悪態の裏にある意図を、いちいち考えなくても肌で分かるようになってきたのだ。

「昨夜の睡眠時間は二時間五十分。昼食は栄養ゼリー一つ。新世界プログラムへの接続時間は、規定より一時間二十二分超過」

松田が淡々と、まるで欠陥品のパーツリストでも読み上げるようにログを告げる。

「おまけに、さっきの報告中から脳波の高緊張状態が続いてる。今日の生活習慣、暫定評価は二点だ」
「前回より下がってるじゃないか。食事の回数は変わってないだろ」
「採点基準を修正した。改善しない項目は、日数に応じて減点を増やす」
「お前、最初から俺を合格させる気ないだろ」
「ようやく気づいたか」

松田は取り合わず、日向の精神状態を示す波形グラフを手元へ引き寄せた。

「採点への苦情はあとで聞き流してやる。それより、頭の中に溜め込んでるものを吐け」
「いきなり何を言い出すんだよ」
「報告中から自律神経の数値が下がってねぇ。理由が肉体疲労だけなら、通信を切った時点で多少は落ち着くはずだ。まだ別のことを考えてるだろ」
……別に、大したことじゃない」
「大したことかどうかを判断するのは俺だ。テーマは問わねぇ。愚痴でも懺悔でも、好きな形で吐き出せ」
「人の悩みを老廃物みたいに言うなよ」
「実際、溜め込んで身体を壊してるなら似たようなもんだろ。これはカウンセリングじゃない。単なる排出処理だ」

日向はしばらく躊躇った。
けれど、松田の前で黙っていても、その沈黙自体を検査結果として記録されるだけだ。観念して、松田から視線を外したまま口を開く。

……実は、罪木のことなんだけどさ」

その名前を聞いた途端、松田の目つきがわずかに鋭くなった。

「精神深層に反応があったのか」
「ああ。仮想空間の中では、もう普通に会話できてる。記憶もある程度は繋がってるし、こっちの呼びかけにも反応する。でも、意識を現実へ戻せるほど安定してない」
「覚醒を妨げてる原因は?」
「それが一つじゃないから困ってるんだ。罪悪感もある。絶望だった頃の記憶も混ざってる。けど、一番強いのは……たぶん、見捨てられることへの恐怖だ」

日向は言葉を選びながら、仮想空間で観測した反応を思い返す。

「罪木は、誰かに必要とされているときだけ精神の輪郭が強くなるんだ」
「反応に再現性は?」
「ある。治療を頼んだり、そばにいてほしいって伝えたりすると、一時的に数値が安定する。でも、少しでも『もう大丈夫だ』って言うと、途端に不安定になる」
「役割を与えている間だけ、自己認識を維持できるわけか」

「ああ。自分はもう必要ないんじゃないか、捨てられるんじゃないかって……また深いところへ沈んでいくんだ」

松田は画面上へ罪木の観測記録を呼び出し、数値の推移へ素早く目を通した。

「被虐傾向を伴う、重度の依存反応だな。必要とされることでしか、自分の存在価値を確立できてねぇ」
「だから困ってるんだよ」

日向は苦しげに眉根を寄せた。

「俺が『お前が必要だ』って言い続ければ、目覚めさせるためのフックにはなるかもしれない。でも、それって罪木の弱いところを利用して、俺への依存関係を結ばせてるだけじゃないか? そんなの……
「目覚めさせることを最優先にするなら、使える反応は何でも使えばいい。現実へ戻ってから、時間をかけて依存を解けば済む」
「そんな簡単な話じゃない!」

日向は即座に強い口調で反論した。

「目を覚ましたあとも、罪木は現実で生きていくんだ。ほかの皆もそうだ。『誰かに必要とされなきゃ自分には価値がない』って呪いを強めたまま現実へ戻して、それで本当に治療したことになるのか?」
「少なくとも、目を覚まさなきゃ治療を続けることもできねぇ」
「でも、目を開けさせることと、救うことは同じじゃないだろ」

その言葉に、松田は画面越しに日向を見つめた。
――こいつは、ただ仲間を起こすことだけをゴールにしていない。
目を覚ましたあと、その人間が何を抱え、どう生きていくのか。その脆い未来の先まで、自分の両肩に背負おうとしている。

「何か方法はないか?」
日向は縋るのではなく、答えを引き出そうとするように松田を見据えた。

「罪木の弱いところを利用せずに済むなら、それが一番いい。でも、何も刺激しなければ、今度は目覚めるきっかけそのものを失う。他人の精神へ踏み込んでいい距離が、自分ではもう分からないんだ」
「要するに、女にどこまで近づいていいか分からないって相談か」
「真面目に聞いてたよな? どうしてそこで急にそうなるんだよ」
「相手の感情を揺さぶりたい。だが依存させたくない。必要だとは伝えたいが、相手の生き方まで自分一人へ固定したくはない。分類上は、面倒な男女関係と大差ねぇよ」
「そこはもっと人間的な分類をしろ」
「十分に人間的だ。人間的だから、正解がなくて面倒なんだろ」

言い返そうとした日向だったが、今度ばかりは上手い反論が思いつかなかった。
低く呻きながら頭を抱える日向を、松田は冷ややかに眺める。

女性の精神へ、どこまで踏み込むべきか。
相手の脆弱さを理解したうえで、それを利用し、自分のそばへ繋ぎ止めてもよいのか。
その問いに反応し、松田の内部で、古い記憶領域へのアクセス要求が自動的に発生した。

過去の臨床記録。
記憶障害を抱えた、一人の少女。
彼女が何を覚え、何を忘れ、何を信じるのか。そのすべてを、自分の手の届く範囲に置こうとした、ある神経学者の独占欲の記録。

白い診察室。積み上げられた何冊ものノート。
何も疑わずに自分の名前を呼ぶ、あどけない声。
そして――「彼女を守る」という独善的な大義の下で施された、あまりにも精密で、取り返しのつかない処置。
松田は無意識に、自らの眉間へ皺を寄せた。

アルターエゴである自分にとって、それは記録にすぎない。
確かに自分の過去ではある。だが、自分自身がその場で選び取ったという実感を伴わない、死者の記憶。
それでも、記録から導き出される結果だけは明白だった。

人間の輪郭を、他人の都合で決めてはいけない。
たとえ、それが相手を守るためだったとしても。

……松田?」
不自然に長い沈黙を訝しみ、日向が画面を覗き込んでくる。
松田は、思考へ混入したノイズを叩き切るように、記憶領域との接続を遮断した。

「一つ、方法がある」
「本当か!?」

日向が勢いよく身を乗り出す。
松田はその反応を鬱陶しそうに一瞥してから、該当対象の観測記録を拡大した。

「罪木に『お前が必要だ』と伝えること自体は間違ってない。でも、その理由をお前一人に限定するな」
「俺一人に限定するなって、どういう意味だ?」
「お前個人に必要とされることだけを理由にすれば、あいつの世界はお前一人で完結する。目覚めたあとも、お前の機嫌一つで存在価値が揺らぐ。依存先が仮想空間からお前へ変わるだけだ」
「じゃあ、俺以外にも必要とされてるって伝えるのか?」
「そうだ。目覚めた連中の生体管理を担う人間が必要だと言え。眠っている仲間を起こすためにも、あいつの医療知識を貸してほしいと伝えろ。最終的に目覚めるかどうかは、あいつ自身の意思に委ねしかないが」
「でも、それだって、罪木の『必要とされたい』って気持ちを利用してることには変わらないだろ」
「治療は、患者の感情を一切刺激しないことじゃねぇ。刺激したうえで、逃げ道や選択肢まで奪うことが問題なんだ」
「選べる余地を残す……
「誰かに必要とされる『居場所』を作るのと、お前なしでは生きられない『共依存』へ仕向けるのは別だ」

松田の声はいつも通り、どこまでも冷淡で乾いていた。
それなのに、その言葉の重みだけが、日向の胸の奥へ不自然なほど深く沈殿していく。

……それは経験談、なのか?」
「あ?」
「いや……今の言い方。単なる教科書どおりの臨床知識には、どうしても聞こえなかったから」

松田の目つきが、目に見えて険しくなる。
先ほどまで患者の記録を見ていた瞳が、鋭利な刃物のように日向へ向けられた。

「最悪の症例から導き出した、臨床上の結論だ。文句あるか」
「その症例って、誰のことだ?」
「問診されてるのはお前だ、日向創。立場を逆転させるな」

日向はまだ何かを尋ねたかのように、松田の顔を見つめていた。
松田の過去へ無理に踏み込めば、今しがた自分が罪木に対して悩んでいた「境界線の侵犯」と同じではないか。
そう思い至り、日向はそれ以上の追及を踏みとどまった。

……分かった。次に罪木の精神深層へ接続したら、そう話してみるよ」
「そうしろ」
「ありがとう、松田。少しだけ、どう向き合えばいいか見えた気がする」
「礼を言われるようなことじゃねぇ。お前一人に全員分の医療管理まで抱え込まれると、効率が悪いだけだ」
「はいはい。そういうことにしておくよ」

日向の口元に、余裕らしきものが戻る。
具体的な接し方を考え始めた途端、日向の表情はたちまち険しくなった。

「でも、最初になんて声をかければいいんだ? いきなり『みんなにはお前が必要なんだ』って言っても、重すぎるよな。もう少し自然に、罪木が警戒しないような言葉から――
「まだ悩むのか」
「大事なところだろ。最初の一言を間違えたら、また罪木を追い詰めるかもしれないんだぞ」
「そこまで考え始めたら、どんな言葉も選べねぇだろ」
「だから、その最初の言葉を相談してるんだよ」
「チッ。これだから感情論の塊は面倒くせぇ……

松田は露骨に顔をしかめると、内部アーカイブを高速で検索した。
先ほど参照した生前の自分の記録は、どう考えても手本にはならない。専門的な臨床記録が役に立たない以上、残されているのは一般向けの対人関係資料くらいだった。

「これでも読んどけ」

一冊の古い電子雑誌が、日向側の画面へ強制的に転送される。

「なんだ、これ……

人類史上最大最悪の絶望的事件が起きる前、かつて旧世界で発行されていた若者向けの流行雑誌だった。
表紙には、当時カリスマ的人気を誇っていたらしいモデルの姿が大きく掲載されている。だが、画像データの一部が破損しているのか、顔の部分だけが極端に荒いモザイクで塗り潰されていた。

「モザイクのせいで、ものすごく怪しい情報商材に見えるんだけど」
「画像データが壊れてるだけだ。雑誌の内容は元から怪しい」
「参考にさせる気あるのか?」
「専門家の意見は聞いた。次は一般人の意見だ。文句を言う前に読め」

松田は日向の抗議を無視し、雑誌のページを乱暴に送った。
やがて、『落ち込んでいる女性が、男性にしてほしいこと』という特集を開く。

「おい。この辺を見ろ」
「本当に参考になるのか、これ……?」

日向は半信半疑のまま、掲載されたランキングへ目を落とす。
その最上位には、やたらと派手な装飾文字でこう躍っていた。

【第1位 将来を約束してくれる――愛情のこもったプロポーズ】

……プ、プロポーズ!?」

日向は点になった目で、画面の記事と松田の顔を何度も往復させた。

「プログラムの中にいるみんなは、まだ高校時代の認識なんだぞ。いきなり罪木に『結婚してください』って言えってことか?」
「書いてあるだろ。手っ取り早く必要とされてる実感を与えたいなら、今すぐ指輪でも生成して、目の前で跪け」
「できるか、馬鹿野郎! 挨拶代わりにプロポーズしてくる男なんて、それこそ精神深層から永久に追い出されても文句言えないだろ!」
「優柔不断には、それくらい極端な案の方が反応は取れる」
「よくない! 罪木を目覚めさせるどころか、余計に混乱させるだけだ!」

部屋に響き渡るほどの声で、日向は全力の反論を叩きつけた。

その声に重なるように、コントロールパネルの端で脳波グラフが傾きを変えた。高く張り詰めていた数値が、正常域へ向かって落ち始める。
松田は記事から視線を外し、変化の起点へ印をつけた。

……なるほどな」
「何がなるほどなんだよ?」
「記事の信憑性についてだ。少なくとも、お前を元気にする効果はあったらしい」
「俺は元気になったんじゃなくて、お前の馬鹿げた提案に怒ってるんだよ!」
「結果として脳波が安定してるなら、俺には同じことだ」
「患者の感情を結果だけで片づけるな」

松田は答えず、用済みとなった雑誌のデータを閉じた。
日向がまだ睨んでいる前で、現在の波形へ過去の問診記録を重ねる。似た変化は断片的に残っていたが、反論の開始時刻と数値の下降が、ここまで明瞭に一致した記録はない。
ひとまず先ほどつけた印に、《要検証》という短い注記を加えた。

「今日はここまでだ。プロポーズ以外の方法は自分で考えろ」
「やっぱり最初から参考にさせる気なかっただろ」
「俺は資料を提示しただけだ。勝手に食いついたのはお前だ」
「待てよ。まだ罪木への最初の一言が決まってない」
「『結婚してください』」
「それだけは絶対に言わないからな!」

日向が最後まで食い下がる間も、脳波は極めて安定した緑色のラインを保っていた。
松田はその推移を確認してから、通信切断のシーケンスを実行する。
何の前触れもなく画面が暗転し、日向だけが隔離区画へ取り残された。

しばらく拳を握ったまま呆然としていた日向は、どっと押し寄せた脱力感に肩を落とし、両手で頭を抱えた。

……あいつ、本当に神経学者なんだよな?」

恋愛相談としては、どう考えても非生産的だった。
しかし、次の問診で試す価値のある反応だけは見つかった。