2026-07-17 19:24:01
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猫になったファイさんと久しぶりにツンを浴びる黒様

 新しい国へ移動してから、途端に口数が少なくなったとは思っていた。当初は平静を保とうとしていたようだが、その無駄な努力も長くは続かない。元より正直に言えばいいのだと、一体いつになったらこいつは理解するのだろう。
 黒鋼が主導し、手早くこの国での換金を終え当面の宿代を確保したころには、魔術師の不調は誰の目にも明らかだった。小狼やモコナに話しかけることもなく林檎のような頬で目を潤ませていれば、さすがに子どもたちであっても気づく。取り急ぎ近くの宿を取り、往生際悪く最後までぽやぽやと言い訳を並べる当人を寝台へ突っ込んだ。同時に宿の人間に頼み医者を呼び寄せる。そうして黒鋼たちは、嫌な顔一つせずここまでやってきた医者の見立てを待つこととなった。

「おや、珍しい。猫風邪ですねぇ」
 あらかたファイの診察を終えた人の良さそうな老人が、独り言のように呟く。聞いたことのない、率直に言ってふざけた名前の病名だ。一方で深刻な様子は見受けられない。
「猫……風邪?」
 小狼の問いに、医師が頷く。
「旅をしているとのことですから、聞き覚えがないのも当然ですよ。文献にもこのあたりでしか見られない病状だと書かれていますから」
「ファイ、大丈夫なの……?」
 道中魔法が存在する国だとわかって以降、この白まんじゅうも姿を隠していない。不安げに尋ねるモコナに驚いた様子もなく、穏やかな口調で答えが返ってきた。
「心配ありません。この方のように特別大きな魔力を持った魔術師は、一度だけこの猫風邪に罹るんです」

 言うまでもなく俗称である「猫風邪」とやらは、魔力を持つ人々ばかりのこの世界においても、とりわけ強大な魔力を持つ者が生涯に一度だけ罹る通過儀礼のようなものらしい。通常の風邪のように発熱し、翌日動物へと姿を変えるが、その多くは次の日すっかり元に戻る。そして抗体を獲得し、二度と同じ病を得ることはないという。
 変化する動物にこれといった決まりがあるわけではない。だが統計上、猫科の動物になる症例が圧倒的に多いとのことで、先述の通り「猫風邪」と呼ばれているそうだ。確かにこれが犬か猫どちらかになるかと問われれば、猫になる可能性が極めて高い気がする。心配そうにファイの様子を窺う子どもたちの顔にも、同じような納得感が表れていた。

 病状が病状だけに、基本的には時間の経過を待つしかないらしい。医師として大してできることはないのだ述べた老人は、元に戻ったあとも熱っぽいようであればこれを服用するようにと言い含め、数日分の薬を残して帰って行った。大事ではないにしろ、非常事態であるのは事実だ。
……おい、聞いてたか」
 肩まで布団を掛け、ぐったりと横たわっている魔術師へ声をかける。緩慢に一度まばたきをしたファイは、「うん」と消えてしまいそうな返事と共に小さく首を動かした。熱を持った人間特有の水気を帯びた瞳が、これの不調を如実に表している。
「オレの意思でどうにかできる問題じゃなさそうだしー、迷惑かけちゃってほんとに申し訳ないんだけどー、えっと、よろしくねぇ……
 余計な枕詞こそ付いているが、こう言えるようになっただけでも進歩ではある。なるべく頭を揺らさぬようわしゃわしゃと熱の籠った髪を撫でると、魔術師は力なく微笑んだ。

 一晩経って朝を迎えても、寝台の中で荒く息を吐く身体は見慣れた姿のままだった。まだ変化まで時間が掛かるのか、それともあの医者の見立てが間違っていたのか。わずかに意識を逸らした瞬間、今まで布に納まっていた質量がたちどころに消え失せた。慌てて寝具を剥ぎ取る。中央には丸くなった白い猫が、最初からそこに居たかのように滾々と眠りに就いていた。



 就寝にあたり別の部屋を使わせていた小狼とモコナを呼び出し、今一度様子を見る。
「わぁ……
「猫、だな……
 子どもたちの囁きに反応して、三角の耳の先がぴくぴくと揺れた。まごうことなき猫だ。猫としてとりたてて小さいわけではないのだろうが、あの魔術師が変化した姿だと思うとどうにも小さく思えてしまう。真っ白い被毛が全身を覆っており、よく見ると尖った耳や脚の先端は薄く黄みがかっていた。呼吸に合わせ濃い桃色をした鼻がかすかに動く。長い尻尾はゆるりと体に沿って丸められていた。
 三方からの視線が煩わしかったのか、白猫の、ファイの目が開く。黒い瞳孔がたちまち細くなり、瞳自体の色が明瞭になった。
……あぁ?」
 違和感を覚え、目覚めた魔術師の脇の下に手を差し込んで持ち上げる。温かくふにゃふにゃと柔らかく、そして当然ながら随分と軽い。目線を合わせまじまじと瞳を観察する。丸い猫の目は普段と同じ蒼でありながら、瞳孔を境として左目の半分だけ、まるで魔力を失った魔術師ように金色をしていた。

 黒鋼の隣でファイの様子を窺っていた小狼が、同じく小さな顔を覗き込む。
……ダイクロイックアイ、だろうか」
「なんだそりゃ」
「小狼知ってるの?」
「一つの目の中に、二つの色が入っている状態を指すんだったと思う。おれも実物を見たのは初めてだ」
「どっちもファイの目の色だね!」
「ああ。とても希少で、見た人に幸運をもたらすらしい」
 どうやら以前の魔術師が案じていた事態とは正反対の特徴を携えてきたらしい。そんなことを考えつつ持ち上げた白猫を眺めていると、視界の端にゆらゆらと揺れる尻尾の先が映った。
「それより、その、そろそろ下ろした方がいいかもしれない……
「黒鋼、ファイがイカ耳になっちゃってるよー……
 いつの間にか尻尾を大きく振り、顔の印象が変わるほど耳を横に寝かせた相手と目が合う。さすがに黒鋼にも理解できた。極めて不服だと、眼差しが切々と訴えてくる。記憶が正しければ犬が尻尾を振るのは喜びを表す動作だったはずだが、見たところ猫にはそれが当てはまらないらしい。

 寝台の上に小さな体を下ろす。黒鋼の手から逃れたファイは、こちらを引っ掻いたり牙を剥くことこそなかったものの、すぐに家具を伝い備え付けの箪笥の上に飛び乗った。忙しなく毛づくろいを始める姿は、まるで本物の猫のようだ。細く長い尻尾は未だに落ち着きなく揺れていた。しばらくしてから熱心に繰り返し舐め続けている部分が、黒鋼に触れられていた箇所だと気づく。思わず眉間にしわが寄った。
「本当に猫なんだな……
「でもずっとファイの魔法の感じがするよ」
 自身を見上げる一人と一匹を一瞥するも、白猫は再び自分の作業に戻る。本来の魔術師であれば、彼らの声に応じないなどあり得ない。これがファイであること自体は間違いないだろうが、予想よりもかなり体に意識が引っ張られているようだ。
 猫ではあるものの人心地がついたらしい魔術師は、器用に隣の棚へと飛び移り、本立てに隠れるように身を収めた。じっとこちらを見下ろす特徴的な瞳が、しばしの沈黙のあとふいと逸らされる。明らかな拒絶と警戒に、眉間のしわが深まるのを感じた。
 とはいえ身を隠すファイを眺めてばかりいるわけにもいかない。黒鋼は小狼たちを部屋に残し、モコナの通訳が及ぶ範囲で重ねて情報収集を行うこととした。

 正直なところ黒鋼は、猫になった魔術師からこのような態度を取られるとは全く想像していなかった。別に望んでいたわけではない。ただ今までの経験からして、本人曰く仮想現実で悪酔いしたときのように、にゃあにゃあとうるさく鳴いてこちらへじゃれついてくるものだと思っていた。実際は傍に近寄ってくることすらなかったが。
 適当に情報を集め、食事などを購入し宿へと戻る。出迎える子どもたちの表情は変わらず不安げなままだ。魔術師もまた、その場から動いていないのだという。要するに膠着状態である。
 結局ファイ抜きで差し当たっての計画を決め終えたあとも、白猫は身を潜めるのみだった。黒鋼たちが荷を片付けても食事をとっても、鳴き声一つ出さない。昨日の医者はどの動物に姿が変わろうと普段と同じものを摂取して問題ないと言っていたが、それ以前の問題だった。

 すっかり日も暮れて窓の外が暗くなったころ、見かねた小狼が魔術師へと声を掛けた。
「警戒しているのはわかっているんだ。ただ、水だけでも飲んでもらえないだろうか……
 手にしたグラスの中の水が、所在なさげに揺れる。
「ファイ……
 か細いモコナの呼びかけが続いた。
 これだけ猫に近づいていても、やはり大元が魔術師というべきなのか。ややあって物影から白い体が音もなく現れた。
 特徴的な瞳でじっとこちらを見つめたあと、少年の元へ器用に下りてくる。太めの形状とはいえ猫の姿では飲みづらいだろうグラスに顔を入れ、大人しく水を飲み始めた。紅梅のような色をした小さな舌がわずかに覗く。呼気によって透明な側面がわずかに曇り、どんなに見た目が変化しようと、魔術師が生きていることを改めて実感させた。
 用を済ませた白猫が、再び元の場所へと戻る。それを見送る子どもたちの顔は、先ほどより明確にほころんでいた。

 昨日と同じく部屋を分け、ファイが潜む部屋の寝台に横たわる。眠りに落ちてしばらくしてから、ふと空気の揺らぎに気づいた。体勢を変えず気配を探る。小さな生き物が静かに動き、こちらへ向かってくるのを感じた。
 高所から新たな体重を受け止めた寝台が、かすかに軋む。魔術師は少し躊躇いを見せたあと、仰向けになっていた黒鋼の右腕に近寄った。暗がりの中、目が合う。それでもファイは逃げ出すことはなかった。
 互いの鼻先が触れそうなほど近づく。ふすふすと呼吸音が聞こえたと思えば、柔らかな額が一度だけ顎先へ擦りつけられた。に、ともにゃ、ともつかぬ囁きのような鳴き声が一度だけ耳を擽る。想像していなかった接触に、柄にもなく一瞬身体に力が入った。
 面食らう黒鋼に構わず、魔術師が人の首元近くに陣取る。敷布を踏みしめ何度か位置を調整したかと思えば、そのまま丸くなってしまった。遅れてぐるぐると低い振動音が聞こえてくる。指先を伸ばしても避けようとしない。
 震える喉をそっと撫でる。白い毛並みは魔術師の髪の毛に似て柔らかかった。喉を鳴らす音がより大きくなる。
 普段の社交的な姿が演技だとは言わないが、気位が高く強がりなのもまたこいつということらしい。猫になったときくらい、素直に甘えておけばいいものを。そんなことを思いつつ、黒鋼もまた眠りに就いた。



 局所的に急な負荷のかかった寝台が悲鳴を上げる。目を丸くして反射的に距離を取ろうとする見慣れた魔術師を抱えて、黒鋼は身体の力を抜いた。
「あれ、黒様……?」
「体調は」
……うん、大丈夫。風邪も治ったみたいだし」
「昨日は丸一日猫になってたからな」
「えっ、ウソ!?」
「記憶がねえのか」
「お医者さんが帰ったあと、みんなに迷惑掛けないといいなって考えてたのは覚えてるけど、それからは何も……
「まぁ実際、てめぇの意識があるようには見えなかった」
「オレ、一体何してたの……?」
「何もしてねぇ。ずっと隅に隠れて出てこなかったんだよ」
「ああ、そういう……。それはそれで恥ずかしい気もするけど」

 へらりと眉を寄せる魔術師の額に、己のそれをくっつけた。焦点が合わないほど近づいた蒼い瞳が、大きく見開かれる。
……なに?」
 あえて答えは返さなかった。昨日の仕返しのようなものだが、記憶がないファイにとって理解のしようがないのは承知の上だ。
 外の様子を見るに、起きるべき時間まではまだ余裕がある。もうひと眠りすべく身体を抱え直し、指先で音のしない喉をくすぐった。
「うう、本当になに……?」
 いつもの体温を感じる。本人の申告通り、具合は悪くなさそうだ。一体これが何の衒いもなく甘えられるようになるにはどれだけかかるのか。今となっては気長にそれを見届けるのもまた一興かもしれないとすら思う。
 少なくとも腕の中のファイは戸惑いつつもこちらの手を拒まない。猫のように目を細める姿を眺めながら、黒鋼はひとまず気が済むまですべらかな肌を撫で続けた。

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「猫化してしまったファイと人間の黒さまのお話」
リクエストありがとうございました!