紫よか
2026-07-15 08:42:57
2004文字
Public 刀剣乱舞
 

幸福ペトリコール

加州清光×花 雨上がりの中、夢と現実と

「私の元に来てくださる刀剣男士さんたちは、幸せなのかしら」

 ぽつりと、通り雨が降る空を眺めながら審神者の少年は誰に言うでもなく呟く。それを聞き逃さない加州清光ではなかった。
 外の世界──現世の天気や季節をリアルタイムで再現した万屋街、今雨が降っているということは、外の世界も雨模様なのだ。定期検診のために時の政府の医療機関に行く以外に現世に赴くことのない花は、それでも「ここのそういうところがすき」と言っていた。それを忘れる加州清光でもなかった。

「どういうこと?」
「あ……聞いてたの? 加州さん」
「そりゃ聞こえるって」
「ん……とね、私、長生きはできないでしょう。あの本丸を引き継ぐ後継機は作ってる最中だそうだけれど、あの本丸で私が審神者だったことを知っている刀剣男士さんは、きっとこれからいなくなっていくのよね。私はデータ上の存在でしかなくなる」
……まあ、そうだよな」

 加州清光はほんの少しだけ、苦々しげな顔をした。この審神者は、自身のからだの成長が止まった時から、自身の死期を医者に聞いていた。

「でも、やっぱりきっと何も知らなくても、幸せなんだわ。後継機がどんな子かまだわからないけれど、悪い子ってことはなさそうだし」
……でもさ、あんたが幸せに生きていたことを知るやつは、これから増えていくと思うよ」
……私が加州さんを好きになったことも、知らない刀剣男士さんの方がこれから多くなっていくのかもしれないわ。それって、やっぱりふしぎな気持ち。私はここにいたのにね」
……
……あ、晴れてきたわ。加州さん。……私って通り雨のような存在なのよ。気がつけば止んでいて、あっという間に晴れた空の過去になるんだわ」

 少年は空を指さす。空には青が戻り始めていて、初夏のどことなく蒸し暑い感覚が戻ってきていた。こういうところが本当にリアルなんだよね、と加州清光は以前審神者に教えたことがある。そのときの審神者はそんな彼の言葉にふうんと息をもらしていた。
 
 現世は、とっくに環境汚染が進んでいた。海には油が浮かび、雨には酸が含まれていた。日の本の人々は備前国、相模国……とかつての土地の名前のコロニーを各地に作り、一般人はそこで暮らしている。各コロニーの時空サーバーに、身体ごとダイブしているのが審神者と呼ばれる国に仕える神職兼軍人なのだ。──加州清光の隣にいる、まろい頬に陽光で様々な色を照り返すしろがねの髪の少年も、そんな審神者のひとりである。

 人間たちは、かつての自国の美しいところを切り取って、保存しておきたかったのだろう。加州清光はそう思う。帽子折れをして刀として死んだ経験がある彼だからこそ、美しい姿のままでいたいという気持ちは、わからなくはないのだ。

「じゃあ、俺は主がいなくなっても、ふとした日に主のことを思い出すわけだ。あんたは通り雨だから」
「ふふ、そうだと嬉しいわ。加州さんには、私のこと覚えておいてほしいもの」
「あんたを忘れたりなんてしないよ。……ほら、この空気のにおいみたいに。いつだって、触れたら、ああ、来てくれたって。胸の中で」
「雨の匂い……ペトリコールね。ねえ加州さん、ひとって、死んだひとのにおいを最後まで覚えているそうよ。私って、どんなにおい?」

 じゃあ俺は人間じゃないから、においも何も関係なく覚え続けるだろうな。
 加州清光はそんなことはあえて言わなかった。この審神者はロマンチストなのだ。たまに話題の歩幅を合わせると、嬉しそうににこにことする。

 加州清光は、隣に立っていた審神者の髪をひと束手に持ち、そっと口づけた。「まあ!」という声とともに、審神者の白い頬が薄桃色に染まる。

「雨のにおいはしないかも」
「もうっ、加州さんったら」
「へへ。でも、いいにおいだよ。しあわせのにおいがする」
「あら、加州さんだって……いいにおいよ。椿油のにおい」
「血のにおいじゃなくて?」
「そういう日もあるけれど……でも、やさしいにおい」

 嬉しそうに、審神者は加州清光の髪をその指で撫でた。

「そうだ、予定変更しましょう。まだ帰らないわ、夏の期間限定の香水を買いに行くの」
「香水?」
「そう、おそろい。戦場に使っていくのは、ほんの少しの香りも危ないけれど……でも、普段使いに。どう?」
「いいじゃん。可愛いと思う」
「そう、加州さんをもっと可愛くしちゃう」

 加州清光が色のない審神者のための日傘を広げれば、かれはそっと彼の腕に自身の腕を絡めた。晴れた空、名残惜しげなペトリコール。ふたりの髪のにおい。ふたりは、それら全てを忘れない。美しさを忘れたくないと願った人間のように。
 仲睦まじい鋼のいのちと柔いいのちのこいびと同士は、雨上がりのにおいを胸いっぱいに吸い込みながら、幸福の中、一歩を踏み出すのであった。