鯖男
2026-06-18 23:29:03
1105文字
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痛くないでしょう

イシヤシの短文。爪切りは爪切り派かヤスリ派かのはなし。

イシノオが好んで使う機密保持に定評のあるホテル。
会員制のため、カードを提示するだけであとはスムーズだった。無言でついてきたヤシロは、一瞬おのぼりさんのように周囲を見回すも、イシノオの嘲笑じみた笑みに、歯を剥いて威嚇する。
部屋はビジネスホテルに似ており、突然の慣れた風景に、ヤシロは拍子抜けした。
「先にシャワー浴びます?」
「んー、ちょいまて」
ヤシロはトレンチコートをハンガーにかけ、鏡台の引き出しから爪切りを取り出した。そして備え付けのソファに腰掛ける。
ぱち、と乾いた音がひとつ。
イシノオの視線がそちらへ向いた。
ぱち、ぱち、と小気味よく爪を切っていく。
「珍しいですね。ここで爪切るなんて」
「仕事やらあいつらの指導なんかで暇なかったんだよ」
舌打ちをし、目線を向けないまま爪を切り続ける。
爪の引っかかりによるタイムロスは、命のやりとりをする勇者にとって致命的となろう。武器の手入れ同様に、爪の手入れは最優先事項だ。
両手の爪を切り終え、ゴミ箱へ爪を落としていく。
役目を終えた爪切りを鏡台の上に放置し、ヤシロはシャワールームへ入ろうとした。
「ヤスリかけないんですか」
「あ? 爪短くなりゃよくないか」
「ぼく、ヤスリ派なんですよね」
そう言われヤシロは思い返す。
確かにイシノオが爪切りを使っているところを見たことがなかった。そもそも自身の手入れを人に見せるような男ではないが、爪ヤスリを使っているところは何度か目撃したことがある。
「だってめんどくせえじゃん」
「でも爪切り後の爪ってカクカクしてて痛いじゃないですか」
「痛い?」
確かに切り口は鋭く、肌を引っ掻こうものなら痛々しい線が引かれる。だがそのまま日常生活を送っていれば、切り口は丸くなっていき、なんの支障もない。
イシノオの言う『痛い』に引っかかりを覚え、シャワールームへ向いた身体が、イシノオへ方向を変える。
「痛いじゃないですか。ほら、ぼくの背中にかわいそうな痕が──」
イシノオが言い終わる寸前、ヤシロの蛙を潰した断末魔が覆い隠す。次いで現れるのは、敵愾心に満ちた双眸だ。ヤシロの風評を知っている者ならば、一歩後ろに下がってしまうほどの圧。
しかしイシノオは引かない。
無様でかわいそうなヤシロを嬲れるこの瞬間。
引くわけがなかった。
「ぼくはヤシロさんと違って優しいので、ヤスリ使ってるんですよ。痛くないでしょう」
肌に爪を立てるときも、柔らかい内部に触れるときも。
言葉にしなくとも、悪意に濡れた瞳がすべてを語る。
「あ~~~~~マジで死ね~~~~~」
ヤシロは天を仰ぐも、そこには特徴のない天井しかなかった。