鯖男
2026-03-23 23:06:17
1979文字
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虚構の月

定期検診終わってからのホーエンハイムとヒースクリフのはなし。「ホーエンハイムの目って灰色なんだ〜」から膨らませました。

ずっとずっと幼い頃、俺はただ地面を見ていた。
見上げるなんてことはなく、視線を落とす。
裏路地にいるガキなんて、みんな似たり寄ったりそんなもんだ。
日も陰り、人の行き交いが少なくなる。青い闇がインクを吸うように黒に染まっていく。
やがて頼りなく点滅する街灯がつき、辺りはとっぷりと沈んでいた。しかし街灯の下がなにやら光っている。
そこには水たまりがあった。
日中雨が降り続いていたからだ。代わり映えのしない天気で気にも止めない。
水たまりの表面は、わずかな振動でも揺れていた。写り込んだ絵も同じように揺れている。
月だ。
そこには月が写り込んでいた。
何をするわけでもなく、俺はただぼんやりと偽物の月を眺める。すると車が通り、月の影を破壊。タイヤに巻き込まれた水は哀れにも、あちらこちらに飛び散って水たまりから消えてなくなった。同時に偽物の月も姿を消す。
空を見上げれば本物が浮かんでいるというのに、俺は見上げずに、水たまりがあった場所から目を外せなかった。

定期検診も終わり、囚人たちの間で雑談が飛び交っている。補助研究員のアリサやマートンも交じり、空気が緩んでいた。
そんな中、ひとり輪から離れ、パッドを操作する男。画面の青白い明かりが、男の血の気のなさを強調している。
「あんた、そんなところで何してんだ」
「助手……いや、ヒースクリフくん。先ほどのデータの整理や検証を行っている」
ホーエンハイムは顔を上げずに、絶え間なくフリックを繰り返す。
画面を埋め尽くす各囚人の成長値や、今回の検診時の動画。あまりの情報量に、ヒースクリフの眉間に皺が刻まれた。
「今やることか?」
「気になると他が手につかんのでな」
くるくると変わる画面に、ヒースクリフは目頭を揉みながら視線を外す。
遠くではドンキホーテの大声と、序列についての会話が所々耳に入ってくる。
正直なところ、ヒースクリフもそっちの会話に混ざりたかった。少なくとも、無言でホーエンハイムの作業なんて見たくない。
だがヒースクリフの足は、その場に縫い付けられ、動けなかった。
ヒースクリフは、落ち着きなく身体を揺らし、視線を泳がせる。口を開くも、出てくるのはほぼ空気の母音のみで、すぐさま噤む。そんな様を数分続け、ようやく一歩踏み出した。
「あの、さ……さっき言ってたこと、ほんとかよ」
「言葉が曖昧だな」
「あんたが俺なんかに憧れてた、って……
徐々に小さくなる声は、普段のヒースクリフからは考えられないほど気弱なものだ。
自身と対極に位置する存在からの賞賛。
それは今までの人生において、ヒースクリフには抱えきれないほどの賛辞だった。
ヒースクリフの浮ついた想いとは対照的に、ホーエンハイムは淡々と訂正をする。
「正確には君みたいな人間に、だがな」
「俺みたいな直感で生きてる?」
「そうだとも」
ホーエンハイムの口角が緩く上がる。険のある目も穏やかになり、画面をタップする指が止まる。
だがそれは一時で、すぐさまフリックとタップを繰り返した。
「都市では太陽と月の両面を持っている者がいる。だがほとんどは月だけだ。他者の光を受けて輝かせる月なのだ」
ぽつぽつと零される言葉は、自身の整理だ。口から出して耳に入れて脳にしまう言葉の模様替え。ヒースクリフにも覚えがあった。
「私もそうだろう。他者の光を受け、輝いている。ただひとつ違うのは、私は月ではなく、輝かせてくれた星を犠牲にする破壊者ということ」
ロボトミーコーポレーションの職員たち。
右腕と称していた職員。
ホーエンハイムは歪な爪がついた指で、パッドをフリックしていく。
「今後、私の周りでまた誰か命を落とすだろう。それは仕方がないことだ」
ホーエンハイムは言う。
言い切る姿には、一切の揺らぎはなく。まさに研究チーム主席にふさわしい。
しかしヒースクリフの目には、自身に言い聞かせるようにしか見えなかった。
ホーエンハイムはせわしなくパッド画面を撫でていた指を止め、ようやくヒースクリフを見た。
瞬間、ヒースクリフは思い出す。
埃かぶった棚の隅に押し込まれたゴミみたいなそれ。
水たまりに映り込んだ月。
空に浮かぶ白い光に包まれたものではなく、絵のように真っ黄色なものでもない。
無彩色で熱すら感じさせない虚構の月。
虚構。嘘。
ホーエンハイムという男は嘘つきだ。
この男は天才なので、すべてを覚えているのだろう。
この男は天才なので、忘れることができないのだろう。
この男は天才でありながら可能性を信じているから、歩くのをやめられないのだろう。
……俺はあんたのこと、すげーいけ好かねえけど、小指の先ぐらいマシだと思うぜ」
「それは褒めているのか」
嘘つきの平たい視線を背に受けて、ヒースクリフは仲間の輪へと戻っていった。