鯖男
2024-02-21 19:12:30
1395文字
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損失だけが人生だ

戦いよりも仲間と酒呑むのが楽しい黒雲グ

墨を流し込んだような澄んだ夜だった。
月は紙に開いた穴だ。小さくて白くてどこか現実味がない。
グレゴールはおちょこよりも大きな酒器──ぐい呑みと呼ばれていた──に映り込んだ月ごと清酒を煽る。本来ならば風味や口当たりを楽しむ『良い酒』なのだろうが、グレゴールの舌は育ち同様あまり良くはない。ここで部下の坊ちゃんならばそれなりの振る舞いはできるだろう。だが気の乗らなければ、上司の誘いであろうと蹴飛ばす。その振る舞いは雲を冠する組織に相応しい、のかもしれない。
「副組長、酒空いてるんじゃないですか」
髪を後ろに撫でつけた黒スーツの男が、とっくりを傾ける。男はいい具合に酒が回っていたようで、グレゴールのぐい呑みがないところでとっくりを傾けるものだから、おっと、と咄嗟のところで受け止めた。
「おいおい~、もう少しで零すところだったろ~?」
「あ、いや、すみません。でも受け止めてくれましたね」
酒にとけた瞳は、随分と懐いた犬を連想させる。グレゴールは男の額をぴんと弾き、ぐい呑みに唇を濡らした。
「地面に良い酒呑ませるわけにもいかんだろ~」
くふくふ、と笑い、男のおちょこにとっくりを傾ける。
「ほら、兄弟の盃だ。零すなよ」
……っ! 有り難く頂戴します!」
小さなおちょこだというのに、男は仰々しく両手で盃を受ける。
組織のナンバー2からの盃である。零すわけにはいかぬ、と指先の震えから緊張が伝わってきた。グレゴールからすれば、仲良しの印としてなのだが、この場では言わない。組織の構成に文句をつけようとは思わないからだ。
お世辞にも綺麗とは言えない、今にも崩れそうな掘っ立て小屋の飲み屋で行われた兄弟の誓いだった。

空には黒雲が満ちていた。重々しい空のはずなのに、空と同じ名前を冠する構成員達は勝ち鬨をあげる。
そんな中、グレゴールは一体の亡骸を見つめていた。黒いスーツは血を吸っても黒いままで、あまり凄惨さは感じない。だが血の気を失った顔とぐしゃぐしゃに切り裂かれた肢体が、それは人ではなく肉となったのを理解させていた。
……まだ、一回しか呑みに行ってないのにな」
濁った双眸を閉じさせる。呟いた言葉は、周囲の誰にも拾われることはない。
「あれ、グレゴールさん、こんなところにいたんですか?」
血のニオイが充満するこの場にそぐわない朗らかな声。視線の先には同じ黒スーツを身に纏った優美な男がいた。携えた刀には今さっき斬り捨てた者の血が滴り落ち、地面を汚す。
「お前は……怪我とか、してないな」
「馬鹿にしてます? こんなので怪我するわけないでしょう」
こんなので。
こんなので死んだのがそこいらにいるのだが。
「いや、怪我してないならそれでいい」
グレゴールは腔内で言葉を選び、その場を後にした。
副組長であるグレゴールは、組長に結果を報告しなくてはならない。今回の成果と損失。人の命をもののように計算し、算出する。グレゴールが苦手とすることだった。
刀を握るようになって固くなった指で、自身の胸をなぞる。そこには組長に彫るように命じられた黒雲会特有の雲の刺青があった。ただ、一般の構成員とは異なり、墨が入った範囲は上半身全てである。首もとから下腹部にかけて彫られた黒雲会所有物の証。
……まあ、逃げようとは思わんけど」
死体が転がる路地裏を歩く。
黒雲が晴れることはない。