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鯖男
2024-02-07 13:35:46
4079文字
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かみさまとにんげん
山神様だったたぬごーると山神様を助けた人間厶くん
築四十年ほどの安アパートの二階。
そこにムルソーは住んでいた。
ひとたび地震があれば倒壊しそうなほど古びたアパートだが、ただ寝に戻るだけのムルソーにとっては都合がいい。なにせ家賃が安く、大学まで近い。効率的であった。
誰も住んでいないと思われているのか、同じ内容のビラがあちらこちらに貼られている。ビラの上に同じビラを貼るいささかやり過ぎなそれは、貼る者の気迫を感じさせる。
が、大家が何もしないならいいのだろう、と彼は気にしないことにした。
大柄なムルソーは、赤錆目立つ階段を軋ませながら帰宅する。この階段も踏む場所を間違えると底が抜ける危険極まりないものだった。
締める意味を感じさせないほど古い鍵を開け、後ろ手で扉を閉める。
「ただいま」
「おかえりぃ」
間延びした声は柔らかく穏やかだった。
四畳半の煤けた内装。
綿が抜けた平たい座布団の上には、一匹の狸が丸くなっていた。
「変わりないか」
「ないよ。食っちゃ寝しすぎて太ったかも」
狸は自身の腹を撫で、ころんと仰向けとなる。野生の獣にあるまじき警戒心のなさだった。
狸の名はグレゴール。部屋の窓から見える小さな山──古来は霊山と奉られていた──を守護する『神』に近しい狸だった。
『だった』と過去形になっているのは、既にグレゴールには神力が失われているからだ。
神力を失い、ただの狸の姿となったグレゴールは、右前足を代償に生き延びた。
生ゴミのように道路に横たわるグレゴールを拾ったのはムルソーであり、心身ともに療養するために、ムルソーのアパートで引き取っている。
──グレゴールは時たま、無くなった右腕を撫でながら山を見つめるのだ。
遠くを見つめるその瞳は穏やかであり、ムルソーは背筋が冷たくなる。
長い間、アパートや街に貼られ続けているビラ──山の開拓反対デモ。
だからといって便利性を追求する人間が止まるわけもなく。
工事の邪魔をする人間はおろか、畜生など気にかけるわけもなく。
お前の腕を切り落としたのは人間なのだろう。どうして恨まない。
以前ムルソーがそう言うと、グレゴールは眉を下げ、困ったように笑ったのだった。
小さな駅だった。改札は二つしかないし、電車もあまり停まらない。そんなさびれた駅だというのに、一歩出れば駅前は蛍光ピンクが毒々しいネオンが輝いている。まるで警告色のようだった。
立ちんぼや客引きが数歩歩けば行き交う。その全てを手の振り一つで断り、大通りを抜けていく。
駅から離れればネオンは届かなくなり、寂しげな街灯がぽつぽつと辺りを照らす。近くにコンビニなどはない。治安としてはあまり良いとは言えなかった。
だがムルソーは、あまり気にしていなかった。自身ならばどうとでもなると思っており、実際どうにかなってしまうからだ。
街灯があった。スポットライトのように照らされているのはゴミ捨て場だ。治安がよろしくないので、すでに燃えるゴミが数個捨ててある。家にある燃えるゴミをまとめよう、と頭にメモし、ゴミ捨て場の隣を通る。そこでふと見てしまった。見つけてしまった。
ゴミ袋の隙間に何かがいた。剥き出しの肉だった。腐った肉のようなそれ。
次の日のゴミ清掃が迷惑を被るのだろう。ムルソーは立ち止まることもなく通り抜けようとする。瞬間、足が止まった。
腐った肉には毛が生えていた。
耳もあり、よく見れば尻尾もある。
それは動物だった。
そして袋が擦れる音だと思っていた微かな音は、鳴き声だった。
生きていた。
ムルソーは引き寄せられるように肉へと近づき、掬いあげる。
壊さぬよう、できるだけ優しく、空を掴むように持ち上げる。
ごわついた毛は元からの毛質もあるが、なにやら毛束が固まっているようにも思える。
「──む、」
あるものがない。何度撫でたところで答えは同じだ。──右前足がなかった。
毛束が固まっているのは、血のせいか。
そもそもムルソーにはこの動物を保護する義務も責任もない。ゴミ捨て場に落ちていたのだから、ゴミ捨て場に戻しても構わないのだ。
だが一度でも拾ってしまった。拾い上げてしまった。
そこで責任は発生したと、ムルソーは仮定する。再度捨てるわけにはいかない。
脳内でこの辺りの地図を展開する。はた、と数メートル先に動物病院があるのを思いだした。時計を見れば、閉店時間はもうすぐである。理解と同時に地面を蹴った。走る時に安定させるために、抱きしめながら走る。上着が汚れるが、あまり気にならなかった。
「ああ、こりゃあ酷い
……
」
獣医はあまりの惨状に声を震わせた。
腐った肉もどきは右前足の欠損の他に、毛で覆われていて分かりづらかったが、小さな裂傷が何カ所も見受けられたのだ。生きているのが不思議なほどの外傷だが、現状生きている。生きようとしていた。
「治りますか」
「治すさ! 治すとも! ──だが、君、それは
……
」
獣医の言い淀む姿に、ムルソーはああ、と理解した。
「払います」
「ちょっとした金額ではないよ? 治療の他にワクチンだったり薬だったり。みたところ学生さんだよね? 君がこの子を飼ってくれるの?」
「飼います」
ムルソーの揺るがない新緑の瞳に、獣医は息を呑む。
同情心ではなかった。獣が生きようが死のうがどうとも思わない。
倫理観ではなかった。人間社会のルールは野生動物に適応されないだろう。
一番しっくりくるのは責任だろうか。
一度拾ってしまった。所有者はムルソーに移った。息がある。生きているのなら治療する。
コンピューターのように打ち出された形式ばった内容に、ムルソーは納得した。
「お金は」
「あります。今下ろしてきますか?」
「いや
……
この子が元気になったら受け取ろう」
そういって獣医は腐った生肉を持って治療室で消えていった。
数時間、時計の針の音だけが部屋を満たしていた。待合席のソファに身を預け、天井を眺める。
やがて遠くの空がしらみ始め、新聞配達のバイクの音が遠くから聞こえた。
大手術の結果、腐った肉は一命を取り留めた。だが数日経とうとも目を覚まさなかった。
ムルソーはATMで下ろした金と引き替えに、少し毛が生えそろった生肉を引き渡される。
それはムルソーがバイトで稼いだ全財産だった。
暖かな日差しの中、獣医から借りたキャリーケースを胸に抱く。あまり揺れないよう、普段よりもゆっくり歩いていく。この日から一人暮らしが一人と一匹暮らしとなった。
自宅に連れ帰ってからも目を覚ます様子がなく、ムルソーは獣医から教わった方法で包帯を変え、毛が生えそろった部位を撫でながら過ごした。
そして一週間後、真っ黒だった顔面に飴色の豆が二粒ついた。生肉がようやく目を開いたのである。そこで初めて生肉が狸であることがわかった。その頃には毛もしっかり生え揃い、毛並みもそれなりになったからだ。
栄養剤を混ぜたミルクやふやかしたドッグフードを差し出せば、鼻先を近づけ小首を傾げながらムルソーの顔を見た。伺うような目に食べろ、と一声かける。すると理解したのか、数回ニオイを嗅いでから、ゆっくりと口をつけ始めた。
だが右前足がないせいで随分と危なっかしく、ムルソーが右足を支えることで安定して食べることができた。
それから数ヶ月後、どこからどう見ても狸と分かるほどに回復した。
「頑張ったね、今日で通院は終わりだね」
「ありがとうございます」
「頑張ったのは君もだよ」
少し水の膜が張った瞳で獣医は労う。だが当の本人はピンときておらず、頭だけを下げた。
動物病院を後にし、近くの公園へ立ち寄る。遊具が一つもない空き地同然の公園には人の気配がなく、塗装がハゲたベンチが更に寂しさを増していた。
「
……
どうするか」
くりくりとした瞳がムルソーを見上げる。
今住んでいるアパートは良くも悪くも自由度が高く、ペット禁止などはない。だが生肉改め狸が野生に帰りたいのなら、逃がすのも悪くはない。その代わり片足が無い状態で野生で生きていけるのか、という問題が浮上するのだが。
「お前はあの山に住んでいたのだろうか」
「そうだなあ」
「そうか
…………
む、」
のんびりとした声にムルソーは周囲を見渡す。人気が無いのだ。周囲には誰もいない。
「おっとうっかり。
……
でもあんさんなら平気だろ」
くふくふと真ん丸な瞳を細めながら狸は笑った。
「茶が入った」
「あんやあ、ありがとさん」
緩く湯気が昇る湯飲みが床に置かれる。手を伸ばすが、獣の手であることに気づき、「これじゃあ飲めんなあ」と額を叩いた。すると軽快な音と共に狸が消え、そこにはくたびれた男が寝転んでいた。
同じようにくたびれた小袖は、年代を感じさせる。隠しきれない耳と尻尾は警戒心のなさか心を許しているからか。
「いやあ、良い気分だ。茶は美味いしあんさんはいい男だし」
「ただの粉茶だ」
「気分の問題さ。ところで、」
『願い事』は決まったかい?
グレゴールの目が妖しく光る。人懐っこそうな色は失せ、この世ならざる者の目である。なるほど、確かに神と呼ぶに相応しい。
ムルソーは動揺を隠し、平坦な声で答える。
「──いいや、まだだ」
「そうかい」
グレゴールは数回瞬きをし、瞳の色を戻す。
古来、山神たる狸は人の暮らしを密接に関わっており、人に変化している狸を助けた礼として簡単な願いを叶えているようで、グレゴールもそれなのだろう。
そういう習性だからなのか、グレゴールの気持ちからなのか、ムルソーにはわからなかった。人に害されて尚、人に恩を返そうという気持ちが分からないのである。
それにムルソーがグレゴールを助けたのは責任であり、願いを叶えてもらう道理はなかった。だからまだだ、など先延ばしをしているのだが、グレゴールは気づいているのか。
「願い事が決まったら教えてくれよな」
「ああ、必ず」
築四十年ほどの安アパートの二階には山神がいた。
そして山神の隣には人間がいた。
山神を害したものと同じ種族だった。
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