あれほど求めていた宿敵の死に関われなかったエイハブは、かつての仲間をくべた異形の腕を力なく垂らしながら呆然と白い噴水を眺めていた。
宿敵の鮮血である白い血は、エイハブも、イシュメールも、リンバスカンパニーの囚人たちの身すらも白く染め上げていく。
航海の終わりを告げる喝采のように思えた。
そして同時に終わりの合図でもある。
心臓が止まったことで鯨の生命活動は終了し、肉体も眠りに就こうとしているのだろう。消化液に濡れた肉壁が、メッキが剥がれるが如く崩れていく。
脱出経路は存在せず、溢れかえった消化液に溶かされるか、崩れ落ちた鯨の肉片によって押し潰されるかの二択が囚人たちに提示される。
瞬間、上空から何かが落とされ、それはしなってダンテの頬を掠めていった。
《うわっ!》
「む」
鞭のようにしなるそれをムルソーが掴む。崩壊した鯨の頭上から下ろされたのは、幾重にも編み込まれた長く丈夫な縄だった。数回ひっぱってみるものの、頼りなさは微塵も感じさせないしっかりしたものだ。
蜘蛛の糸に群がる罪人のようだ、と良秀が鼻で笑うのを聞きながら、囚人たちは順番に縄を掴んでいく。一番生き残らねばならない管理人であるダンテは、中盤でウーティスとムルソーに挟まれながら登った。いざというときの引き上げ係と、落ちた時の受け止め係である。
《迷惑かけるね……》
「貴方はここでもっとも生き残らねばならぬ方。当たり前の警護です」
「脱出の成功率を高めたまでです」
光が近づいてくる。縄をしならせながら到着した外は風が吹きつけており、解放感に満ちていた。
《──あ、》
脱出した解放感で思い出す。
そういえばグレゴールはどうやって脱出するのだろうか。彼は片手が鎌のようになっており、縄は掴めない。片手だけでは登ることはできないだろう。
《グレゴールは、》
「大丈夫でしょう」
ダンテの言おうとすることが察せたのか、ウーティスは視線を水平線に向けながら断言する。周囲の警戒のついでに応えたようだ。
《大丈夫、って……。グレゴールは片手だ。縄なんて》
「アレは軍人と呼ぶには情けない廃棄物ですが、それぐらいはできます」
それだけ言うと、ウーティスは周囲の警戒に戻り、無言となった。
あと縄を登っていないのはヒースクリフ、イシュメール、グレゴールの三人となった。崩壊の速度は秒速で早くなっていき、一刻も早い脱出が要求される。
「おっさん、俺の背におぶされよ。その腕じゃ登れねえだろ」
ヒースクリフは自身の背を叩く。バスに乗車してから初めてと言えるわかりやすい親切に、グレゴールと言われた側ではないイシュメールの目は、小動物のように丸くなった。
「貴方、そんなこと言えたんですね……」
「びっくりしたあ……。でも馬鹿にするなよ。軍属で縄登りしないなんてあると思うか?」
「人の親切は有り難く受け取れよボケカス」
「わはは、ありがとな。でも大丈夫だから。二人は先に登ってくれ」
慣れない笑みとひらひらと手を振られ、二人は逡巡するもそれは一瞬のことで、順番に縄を登っていく。これがシンクレアやドンキホーテならば押し問答が始まっただろうが、時間は刻々と迫っているのだ。少しでも互いの生存率を高めるためには、素早い行動が必須である。
そして鯨の体内にはグレゴールと精神が死に体のエイハブだけが残った。
「じゃあな亡霊。俺は生きるぜ」
亡霊は視線を寄越さない。グレゴールの独り言は、肉片が崩れる音に掻き消される。
グレゴールは縄を掴み、身体を持ち上げる。本来であれば、反対の手で更に上の縄を掴み、腕から背中にかけての筋肉を使って登っていく。だがグレゴールの異形の腕がそれを許さない。ならばこのまま鯨を墓標に息絶えるのか。
否、である。
腕の血管が浮き上がる。尋常ならぬ力が込められた証拠だろう。そして足を縮めながら片腕で身体を引き上げ、その勢いのまま元の位置よりも上の縄をつかみ取る。
進んだのはたったの数センチであった。だが素早く、何度もその動作を繰り返すことでスムーズに縄を登っていく。
言葉にすれば数行にも満たない行為だが、とんでもない方法である。なにせ振り子のように揺れることで、自身の体重よりも重い身体を片手で引き上げているのだ。
服の下の筋肉がしなやかに流動する。無駄がない必要な筋肉量を使いながらの縄登りは、自身の身体の使い方を熟知していると言わざる得ない。
そうして危うさを全く感じさせないまま、頂上へ辿りつかせた。
「いや~、はは……間に合わないかと思った」
「グレゴール、管理人様に心配させた罰として謝罪しろ」
「ええ……なんで?」
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