鯖男
2023-08-24 18:48:33
3205文字
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籠の中の害虫

大槌ム×小槌グ(模造)で小槌ヒがかわいそうなことになった。

恐ろしいほどに白い月はヒースクリフの網膜を焼き、あまりの痛さに視線を落とす。
深夜だった。
冴え冴えとした月明かりによって、周囲は深海のような青さに染まっていた。ついさっきまで夕焼けのような劫火に包まれた街で、金槌を振っていたことすら忘れさせる静けさ。時折吹く風が木々を揺らす。当たり前の夜だった。
病的なほどに真白に塗られた壁に触れる。N社から少し離れた場所に建てられた監獄のようなそれ。
中槌たちは『教育部屋』と呼んでいた。
経典を忘れる愚か者。
朝の集会に参加しないうつけ者。
そういった者を『教育』する建物だった。
だが小槌たちは中槌たちが影で『折檻小屋』と呼んでいるのを知っていたし、ヒースクリフを身をもって体験していた。
そんな嫌な記憶しかない折檻小屋にヒースクリフがいるのは、中槌である先輩に、ここの警備を命令されたからだ。上からの指令には逆らえない。N社に来てから骨身に染みた教訓であった。
「誰か、いるのか」
か細い声だった。
背筋に冷たいものが走り、反射的に情けない悲鳴が上がる──ところを寸でで止める。
か細い声は折檻小屋からだった。
ヒースクリフは頭上近くの小さな小窓に向かって声を投げる。
「誰だ、お前……ですか」
硬質的な声は緊張からか。取って付けた敬語にか細い声の主は小さく笑い、「グレゴール。小槌だよ」と名乗った。
同じ小槌と分かると、そこで初めてヒースクリフは全身の力を抜いた。深く吐かれた息は鉛のようで、吐いていくと身体が軽くなるのを感じる。
「なんだ、同じ小槌かよ。あんさんもポカやった口か?」
「うーん、どうだろうな」
「はっきりしねえな」
グレゴールはははは、と笑うと、「『も』ってことはお前、ここの常連か?」と嫌な方向に舵をきられる。言葉に詰まるのを肯定ととり、グレゴールは一層笑い声を強めた。
「大体おかしいだろ! 粛正とか浄化とか! ……俺には馴染めねえよ」
ぽつり、と零れたのはヒースクリフの弱音だった。
「滅多なこというもんじゃないぞ。誰が聞いてるかわからんからな」
先ほどの笑い声から一転、声を抑え、ヒースクリフに言い含める。その言葉には重みがあった。
……なんて、な。ほら、あんまり無駄話してると怒られるから。警備、よろしくな」
「あ、ああ……
ヒースクリフは気の利かない一言しか返すことができなかった。

それから毎日とはいかないが、時折折檻小屋の警備を任される度、ヒースクリフはグレゴールと喋るようになった。
グレゴールもヒースクリフが来る度に声を上げ、久しぶりの友人かのように接した。
二人の逢瀬と呼ぶには色はなく、密会と呼ぶには疚しさのひとつもないそれは、ヒースクリフの心を軽くさせる。
そしてある日の夜、ヒースクリフは小走りに折檻小屋に向かっていた。本日も先輩から折檻小屋の警備を任されたからだった。
だが小走りの原因はそれだけではなく、心に纏わり付くヘドロのようなやるせなさを、一秒でも早く振り切るためでもあった。
胸を掻き毟り、奥歯を噛む。胸には金槌と釘をモチーフにしたエンブレムが印刷されていた。なんて忌まわしい。走る速度を早くなる。
数分前、ヒースクリフは頭部を義体化した少女を『粛正』した。
助けを求める少女に。
手足がヒースクリフの半分の細さしかない少女に。
杭を打ち込んだ。
炎が狂ったように踊る街は、義体化された者がまるで昆虫採集の虫のように展示されていく。
地獄の展覧会であった。
「──ああ、」
未だ記憶に残るのは少女の命乞い。呪いのように耳元でハウリングしていた。
やがて見覚えのある真白な壁に突き当たる。
「グレゴール! グレゴール、いるんだろ!」
グレゴールは常に折檻小屋にいた。ならば今日もいるはずだろう。ヒースクリフは半ば半狂乱といった具合に声を上げる。だが今夜は、「そんな声出さなくても聞こえるよお」と気の抜けた返事がなかった。
おかしいだろう。なんて今日に限っていないんだ!
八つ当たりじみた感情のまま、壁を殴りつける。ちりちりと胸のヘドロが炎となり、ヒースクリフを包み込んでいくようだった。
「ああ……
力なく項垂れ、座り込む。壁に頭を当て、細かな凹凸による痛みを粛々と受ける。
このまま少女の命乞いを子守歌に眠りにつかなくてはならないのか、と思うと気が滅入った。だからだろうか。折檻小屋の中からの鈍い音を気がついた。
聞きなれた音だった。殴打音。人が人を殴る音だった。
中を覗こうにも、窓は頭上よりも高い。よじ登れば普通に気づかれるだろう。
ふと視線を泳がせれば、壁に小さな穴を見つけた。恐らく雨風による劣化に加え、『折檻小屋』の性質上、壁にも相当な負荷がかかっていたのだろう。ヒースクリフは片目で穴を覗く。
そこには相手を見上げるように座り込む男がいた。恐らく彼がグレゴールなのだろう。ヒースクリフと同じ制服に身を包んだよれた中年だった。グレゴールは腹を押さえていた。先ほどの殴打音だろうか。
「けふ……そんな怒るなよ。壁越しの会話だよ」
「当人は許可しない」
独特な一人称。それに該当する人間は一人しかいなかった。
ヒースクリフは反射的に息を止め、自分の存在に気づかれませんように、と祈る。
折檻小屋にいるもう一人は、N社に数人しかいない大槌であった。
中でも握る者の側近であるその大槌は、知らぬ者はいないだろう。
見上げるほどの巨体。冷たく揺るがない沼色の瞳。同じように揺るがない握る者への忠誠心。小槌はおろか、中槌ですらおいそれと話しかけられない雲の上の存在。
「もういなくなったし、二度と来ないだろ」
「話していた者は誰だ」
「名前聞いてないから知らない」
…………そうか」
不満げな声に内心驚く。大槌という人は粛々と命令をこなす人外のように思っていたからだ。これほどまでに大槌が感情を露わにするグレゴールという男に、ヒースクリフは得体の知れないおぞましさを感じた。
「小槌よ。当人の、私の小槌よ」
白銀の小手がグレゴールの頬に触れる。ところどころ赤黒く染まった白銀の小手。『粛正』のよるものだ。
「私の、グレゴールよ」
……ここにいるよ。大槌殿」
大槌は片膝をつき、頭を下げる。頬に当てていた手は両手となり、グレゴールの両頬に当てられた。まるで存在を確かめるように頬を辿っていく。
窓から差し込む唯一の光である月明かりが、スポットライトとなり二人に降り注いでいた。
それは穴から覗き込むという一種の壁も相まってよくできた劇を思わせ、現実味を感じさせない。
なんて、悪い夢だ。
薄気味悪さが足下から這い上がる。
ヒースクリフは振り払うように後ずさりし、その場を後にした。

明朝、集会のため一同が集まる。
ヒースクリフは珍しく遅刻することはなかった。というのも、昨夜のことが脳内から離れず寝ていないだけだ。ぼんやりとした頭のまま、教理を暗唱できるかという不安はあるが、出席しないで折檻小屋に連れて行かれたくはなかった。特に昨日の今日では。
瞬間、ざわめきが止む。握る者と大槌が壇上に現れたからだ。
握る者の汚れを知らないと言いたげな真白な装い。対照的に所々赤黒い文様がある大槌。
──そして大槌の斜め後ろに場違いな小槌がいた。
片腕を後ろに回し、ぼんやりと壇上から見下ろす視線には何の感情も浮かばない。
風に煽られる右腕の袖。それは小槌の右腕がないことを示していた。
隻腕の小槌。異質な存在だったが、それを指摘できる者はこの場にはいなかった。
ふと視線が合った気がし、ヒースクリフは息を呑む。だが壁越しに話していただけで、顔を合わせたこともない間柄だ。分かるはずはない。
ないのだ。
だがグレゴールは笑った。にんまりと。わかるぞ、と言いたげに。
ヒースクリフに向かって笑ったのだ。