鯖男
2023-07-13 19:14:22
1667文字
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愛情の檻

ヘルグレ。
前呟いた『グのことを「息子♡」と呼ぶヘさん』です。

白い部屋だった。
病室よりも白く。
独房よりも白く。
屠畜場よりも黒い場所。
置かれているのは最低限の家具。
中央に位置するベッドとサイドテーブル。
どれもこれも病的に白い。
窓は一つも無かった。必要ないからだ。
ベッドには男がいた。
無造作に伸ばされた髪は最低限の洗髪はされているとはいえ、どこか浮浪者じみている。視界すらも覆う髪はうっとうしいだろうに、男は払い避けることもせず小さく俯いていた。
瞬間、静寂を終わる。唯一ある外界との繋がりであるドアがノックされたのだ。
男は返事をしない。だがドアは開けられた。
現れたのは軍服の女性だった。
整えられた身なりは階級の高さを感じさせる。歩く度に翻る裾すらも品性に溢れており、ベッドに座る浮浪者同然の男と関わりがあるとは到底思えない。
「やあ、気分はどうかな」
男の調子を聞く、というより質問内容の読み上げのような熱のなさ。男は無言だった。
女性は柔和な笑みは湛えてはいたが、双眸の奥に潜む妖しい光は隠し切れていない。
それは蛇だ。
視線が数匹の蛇となり、男の身体を這いまわっていく。身じろぎすれば簡単に散らせるような簡単な拘束である。だが男は鎖にでも縛られたかの如く、身を固くした。
「そんなに手を握りしめると傷がついてしまうだろう。……ほら、右手も興奮してしまう」

女性の指先が男の右手──異形の腕に触れる。薄く毛の生えた鎌を思わせる形状の腕。
害虫を連想させる形状に、殆どの人間は嫌悪感を示すだろう。だが女性は愛おしげに指を滑らせていく。荒事など経験したこともない白魚のような手が、男の腕の付け根まで到達すると、ふ、と息を漏らし、その指先で男の前髪を分けた。
現れたのはがらんどうの瞳だった。──否。がらんどうと見紛うほど空虚な双眸。男の意志など微塵も見えない硝子玉の方がまだ上等、と言った具合のものだ。
痛ましい状態だった。常識的な情緒の人間がいたならば、眉を顰めただろう。
だが女性は少女のように頬を紅潮させながら、男の髪を手で梳いた。指通りの悪い傷んだ髪だったが、女性は優しく、子どもを撫でるように丁寧に行う。
「随分と変わってしまったね。ああいや、変わったのは風貌のことよ?」
だから今日は整えてあげようと思って。
女性は軍服の内ポケットから散髪バサミと櫛を取り出した。ハサミは切り落とすものと梳くものの二本あり、随分と本格的だった。
持ち込んだ散髪道具は、全てサイドテーブルに置かれる。男の首回りにケープを巻けば準備は整った。女性は軍服の上着を脱ぎ、シャツの袖を捲る。霧吹きで髪を湿らせ、ハサミを入れる。しゃきん。髪の束がベッドに落ちた。呆気なく落ちるその様は、戦時中の人間の命によく似ていた。
完成形は既に女性の頭にあるのだろう。迷いなくハサミが入れられていく。長さを整えたらハサミを変えて梳いていく。女性は時折、指に纏わり付く髪を払いながら、男の髪を整えていった。
「──さあ、完成だ」
ケープを外し、肩に掛かった髪を払う。手ぐしで整えてから、姿見を転がしてきた。
姿見に映るのは、過去の男だった。
自身で選んではいなくとも、会社やひいては巣を守るため、希望に目を輝かせた新兵時代。瞳の輝きは違えども、鏡の中にはそんな男がいた。
「コレは私からのプレゼントだよ」
女性が手にしているのは眼鏡だった。随分と安そうなロイド眼鏡。身なりに気を遣っている女性が贈る物としては、多少なりとも違和感が拭いきれない。だがそれでよかった。
この簡素で安価なロイド眼鏡は、男が新兵の頃にかけていたものなのだから。
「ああ、さすが私の息子。いい男だよ」
「──」
男の口が緩く開かれる。だが声が漏れることはなく、代わりにか細い息が漏れた。
「感謝の言葉ならいらないよ、坊や。息子なんだから」
頬を寄せ、頭を撫でるその様は愛情深い母親にしか見えない。
「誕生日おめでとう。我が息子達」
男──グレゴールと異形の腕。
彼女は二人の再誕を祝いながら、グレゴールの頬に唇を落とした。