鯖男
2022-12-17 17:31:24
1032文字
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リンニク3

リン先生に甘えに来るニック

蛇口を捻る。それが洗い物の終わりの合図だった。
冷え切った手を布巾で拭い、エプロンを洗濯カゴへ入れる。そして明日使うエプロンをハンガーにかければ、リビングでの仕事は終了である。
玄関の鍵や電源を指さし確認し、リビングの電気を落とす。
あとは自身の部屋で、明日の授業の準備をするだけだ。早く終われば自由時間として最近買った本を読むのも悪くない。リンは小さな幸せを胸に自室の扉を開ける。
「──ニック」
月明かりだけが差し込む青い部屋。そこには一人の男がいた。月を背負うかのように窓を背にした男は隠しきれない角と尻尾を持つ悪魔だった。
俯き気味の顔は、逆光も相まって表情は読み取れない。
静かだった。
男はこの1031号室に来るときは、決まって騒がしく図々しい。だが今はどうか。人の手が入らない湖畔を連想させる。悪魔とは対局であろう、清らかささえ感じさせた。
「ニック、連絡もなしにいきなり来るのは──」
やめてくれ、と。言い終わる前にリンの視界は天井を向かされる。ニックによってベッドに倒されたことに気づいたのは、ベッドのスプリングが痛々しいまでに悲鳴を上げていたからだ。体格のいい成人男性二人を支えるには、シングルベッドにはいささか荷が勝っている。
ニックの表情は窺えなかった。ここまでくると顔を見せないようにしているのだろう。リンは自身の顔の両脇に突かれた逞しい手を、ゆるりと撫でる。こんなにも逞しいというのに、リンが触れるだけでおっかなびっくり震えるのだ。恐らく人から触れられることに慣れていないのか。自身からは肩を組んだりと、距離が近いくせに。リンはニックに聞こえないほど小さく息を吐く。
「ニック」
リンの声は夜に溶けるように静かで優しい。普段ならばベッドに叩きつけるような暴挙があれば、間髪入れずに天使の輪による浄化をしていた。だが今のニックには制裁よりも与えるものがある。リンは天使としての行動より、自身から湧くニックへの想いを優先した。悪魔に与えるものではなく、ニック個人に与えるものを優先したのだ。
少し癖がついた髪を優しく梳きながら頭を撫でる。空いてるもう片方の手をニックの背へと回す。
それは同性同士がやるというより、親が子にやるように慈しみの抱擁だった。
「最近頑張りすぎなんじゃないか。少し休んでいくといい」
鼻かかった声は返事なのだろう。鼻先で首筋にすり寄る姿は、寝るのにむずがる子供のようでもあった。
「おやすみなさい。また明日」