鯖男
2022-09-01 21:52:55
725文字
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ピノホロキス

タイトルどおりの短文

昔、海で溺れたことを思い出した。
呼吸がままならず、酸欠から視界が狭まり、指先がじりじりと痛みを訴える。
助かったのは救助が早かったことと、ごく短い北海道でも海水浴が出来る暖かい期間だったからだ。
親にはしこたま叱られ、妹は目玉がこぼれ落ちるのではないかと思うほどに泣いていたのを覚えている。
何故今になって思い出したのか。
呼吸がままならない。
狭まる視界。
指先がじりじりと痛みを訴える。
現在の状況が、過去の出来事を追憶させたにすぎないのだ。
自身と男はキスをしていた。
何故そうなったのか覚えてはいなかった。話の流れからか、行き当たりばったりか。だがそこは重要ではないのだろう。重要なのは、俺も男も冗談まじりではないということだ。
大きな手のひらはバスケットボールのように俺の頭を掴む。そして薄く形のいい唇が開いたかと思えば、俺の口へ噛みついた。それはキスというには雰囲気もなく、粗末で欲求をぶつけられた事故のようなものに思えた。
至近距離からの男の目は、猛禽類を連想させる獰猛な色を宿していた。俺を獲物と見ているのか。隠していたとはいえ、狼の名を持つ俺を。口元が歪むのがわかった。おかしくて、歪む。
分厚い舌は俺の許しなどお構いなしに口をこじあげ、腔内に侵入する。性急さは童貞臭さすら感じるも、技工は大した物だった。頭の端の僅かな理性が賞賛するが、それも無残に霧散する。それほどまでに男は巧みに腔内を嬲っていく。
呼吸がままならず、頭の奥が霞かかる。すると感覚だけが研ぎ澄まされ、生き物のように蠢く舌に身体が跳ねた。指先がじりじりと痛む。溺れているようだった。
俺はこの男によって、溺れさせられている。
それは存外、嫌な気分ではない。