鯖男
2022-02-24 19:32:44
2695文字
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ももゆきが周りを狂わせる話


浮浪者というには小綺麗で、さりとて地に足のついた生活を送っていないのが分かりきった小汚い男だった。

人通りの少ない路地にひっそりと佇む古びた家。そこが私の仕事場だった。
寂れたベランダには取り込まれることのない洗濯物がぶら下がっている。「人が住んでいる」との意思表示のつもりなのだが、毎日同じ洗濯物なので近隣にはバレてしまっているだろう。自身の不精さに目眩がした。
玄関はそこいらのアパート同様簡素なものだ。およそ仕事場の玄関とは呼べない。
だがこんなもんで良かった。
私の仕事は職業斡旋なのだから。
職業と言っても、あまりお天道様に褒められたものではないものばかりだった。
犯罪行為ではない。だが率先してやりたい人も少ない。そんなものだ。
なのでここに辿り着いた人は多かれ少なかれ何かしら事情がある。私はそれでいいと思う。世間から溢れてしまった人のセーフティネットのつもりではない。お天道様の下を歩ける人間ばかりではないのだ。そんな人間が流れ着く小島程度の存在でいいのだ。
私は今日も安楽椅子で揺られている。寝てしまってもそれはそれ。人が来ない日の方が圧倒的に多いのだから問題はなかった。
だが今日はそうではなく、軽いノックが二回される。突然の音に肩を震わせるが、ノックの音が仕事切り替えのスイッチである。私はすぐさま「どうぞ」と声をかけた。
そこにいたのは浮浪者というには小綺麗で、さりとて地に足のついた生活を送っていないのが分かりきった小汚い男だった。
「履歴書がなくても仕事が貰えるってところであってます?」
「あってますよ。お名前だけ頂いてよろしいですか」
男は『百暗桃弓木』と名乗った。私はココに住んで長いが、この辺りでは聞かない名字だ。少々垢で薄汚れているものの、顔は整っている。大方女性とのトラブルで命からがら逃げてきたに違いない。私は百暗と名乗った男の影に女を感じ、憐れみと悲惨さに憐憫の目を向けてしまった。だが当の本人は気づいていないようで、「ああ、よかった。途中で道分かんなくなってやばかったんですよ」と人好きのしそうな笑みを浮かべていた。
「では百暗さん。希望の職種とかありますか」
「体力ならあるんで肉体系の方がいいです。あと即金」
私は目を丸くしてしまった。男は簡素な服の上に着流しの風体だったのだが、そこから覗く手首の細さから到底体力があるようには思えなかったのだ。だが股引から覗くふくらはぎから足首にかけては随分と筋張っている。以前は足を使う職種だったのだろうか。
「ではそうですね……マグロ拾いとかどうです」
「マグロって……魚の方、じゃないですよねえ」
男の笑みが引きつる。紹介してるこっちも気が滅入る職業なので気持ちは分かる。だがこちらは斡旋するのが仕事だ。にっこりと、しかしながら事務的に答えた。
「今想像されてるのでいいと思いますよ」
マグロ拾いとは、自殺や事故で亡くなった人間の後片付けの隠語である。
本来ならば警察関係が行うのだが、時代なのか死体が後をたたないのである。人員不足に頭を抱えるのはどの職業も一緒か。だからこそ、こうやって職業紹介ができるのだから世界はうまく回っている。
「警察も人員不足で死体回収まで手が回らないみたいです。それに成人男性ともなると回収するだけで一苦労ですし」
「まあ、そうっすよねー……
腕を組みながら思案する。手慰みに自身の唇を摘まみ、視線を泳がせていた。
やはりこう見ると男は顔が整っている。凜々しい眉と黒目がちな瞳。男らしさと愛らしさが絶妙なバランスで成り立っていた。鼻筋も通っているし、今まで唇を弄っていたからか、ほんのりと赤く染まって紅を差したようだ。
明らかに男の顔だというのに、女の象徴でもある紅が差されてると思うと途端に色気を感じてしまう。
艶やかとはまた違うものだ。
……じゃあマグロ拾いやりますわ」
「、え、あ、はい。了承しました」
男の声で我に返る。私は今、何を考えていた?
男は難しげな顔でフケだらけの頭を掻き毟っている。そこには先ほど感じた色気など髪の毛一本たりとも存在していなかった。
私の気のせいだったのか。
簡単な手続きを完了させ、男は踵を返す。だが「あ」と気の抜けた声を上げ、すぐさま振り返った。
「仕事、ありがとうございます」
長い前髪の隙間から覗く男の流し目。純粋な感謝だろう。色など含んでいなかった。それに私は男色ではない。妻も子も居る身だ。だがそれでも。そうであっても。人をおかしくさせる『何か』があった。
劇薬ではない。
最も近しいものは麻薬だろうか。あと少し、もう少し、と摂取しているうちに後戻りできなくなる危うさを内包している。
ここではたと気づいた。
風貌から立ち振る舞いに至るまで麻薬のような男だからこんなとこに流れ着いたのか。
合点がいった気がし、私は玄関を見つめた。二度と男がココに立ち寄らないことを祈るよう見続けたのだ。

願い空しく、私は百暗と再会してしまった。
五十年も経った再会だというのに、百暗の姿は以前と変わらぬものだった。擦り切れた着流しを羽織った浮世離れした男。そして名状しがたい色香を纏った男。麻薬のような男。
「貴方、人間じゃなかったんだな」
「いいや、今は人間だよ。老いるし病気もするし死ぬ。ただあの世に逝けないだけさ」
百暗はそう言って人好きのする笑みを浮かべた。この笑みも昔と変わらないものだ。
私だけが変わったのか。
半透明になった自身の手を見つめ、深く息を吐く。
私は死んだのか。
「身体から漏れ出る灯があるだろう。それに従っていけばあの世に逝けるさ」
「ああ、そうか……ああ」
荒唐無稽な話も素直に受け止められる。自身の死に呆然としているからかもしれない。
百暗は腰に下げたランタンの口を開けた。そういえば昔も持ち歩いていた。普段持ち歩くものとしては異質なソレ。
「逝く前にあんたの灯を少し分けてくれ」
「灯? 貴方はまだ生きてるだろう。なんのために?」
少し間があった。ややあって百暗は口を開く。
死ぬために。
──表情が抜け落ちた。そのせいで整った顔が作り物のように冷たく感じる。青灰の双眸もまるで硝子玉を埋め込んだようだ。
私は既に死んでいるというのにどこか寒気を感じ、視線を落とした。
やはりこの男は人外なのだろう。
この世の異質だ。
だからこの男と出会った者は多かれ少なかれ狂うのか。
人格なり、人生なり。
果たして私はどちらだったのか。
「──あの世、逝けるといいですね」
百暗は眉を下げて苦笑した。