氷酒
2026-07-14 21:43:57
3051文字
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『“隣の人”』

まりみや組。ラスアワネタバレあり。

 最近の隣の部屋の住人に、妙な癖ができた。


 ふと、室内で何かが動く気配がして、意識が浮上する。
 すぐに目は開けない。気配は俺のごくごく近くからしてることはもう知っている。そして眠る俺の傍にいる人物は一緒に眠った美夜だけで、そして今まさに問題の妙な行動を起こしている人物も、ずばり美夜だった。
「真倫……?」
 囁くような声で名前を呼ばれる。まるで眠っているのかを確かめる、そんな声色だ。当然、俺は聞こえてはいるが、敢えて反応はしない。その様子に美夜は安心したように息を吐き、そろりそろりとこちらに顔を近づけた。
 美夜の息が顔にかかる程の至近距離。きしりとマットの重心が偏った音がした。

 そして、ちゅ、と。

 まるで小鳥が囀り損ねたような小さな音と共に額に柔らかい感触がする。そしてふふ、と美夜が満足気に笑う気配。
 俺は理性を総動員して、溜め息をつきたくなるのを抑えた。
 最近の美夜はどうにもこうなのだ。寝ている最中を狙って近づき、額にキスをしてくる。それ以上の悪さは特にしないし、何かを言うわけでもない。いや、やけに嬉しそうではあるのだが、それだけだ。それだけだからこそ、俺は困っていた。
 心当たりは、一応ある。
 数日前に起きた、不可思議なちょっとした出来事。別の世界軸の存在だという俺が作った空間に、美夜と俺は巻き込まれた。彼がやったことは理解はできなくはないため、迷惑の内容は不問にするが、そこで最後にヤツはとんでもないことをしでかした。
 俺の身体を使って、ヤツは美夜の額に口付けたのだ。それも、愛おしげに。
 その様子や言動からして、どうやらあちらの世界の俺たちは『そういう関係』だったらしい。まさか、とは思うが、遠い世界軸の話だと言われてしまえば否定はできなかった。一応、キスの先が額だったのは彼なりの気遣いなのかも知れない。いや、まったく気遣えてないが。

 当初は美夜も目を白黒させていただけだったため、そのまま流すことにしたのだが――それからすぐに、これである。
 きっと多分、何か勘違いをしているんだろう。親愛とか、おそらくそんな意味に。そして新しいことを覚えたからやってみたいとか、きっとそんな理由だ。今まで心配になるくらいこの手のことに興味を示さなかったので、何かしらの反動なのだろう。
 ある意味で間違えてないとは言え、この距離は大変宜しくない。やられた側も周りも別のところで変な勘違いを起こしかねないし、こういうことを美夜はもっと大切にするべきだ。
 しかし、ただ言っただけではおそらく美夜はやめない。こいつは案外強情なところがある。納得が行かない間はあの手この手で希望を進めようとしてくるだろう。
 だから、今回は一度罠に嵌めることにした。
 俺が全く起きる気配を見せない(普通に起きているんだが)ことで調子にのったのか、再び美夜が近づいてくる。体格差があるために押し倒すような体勢で体を伸ばし、額に顔を寄せる。

 その瞬間、目を開け、素早く美夜の手首を掴んだ。

「うわっ!?」
 突然の事態に素っ頓狂な声が上がる。構わず強引にこちらに引き寄せ、ただでさえ不安定だったバランスを崩す。そのまま相手の頭の裏に手を添えて互いの体の位置を入れ替えれば、あっという間に俺が美夜を押し倒す形に変わる。
「ま、真倫……
「おはよ。で、言い訳は?」
「えーと……あはは」
 俺の腕の中で美夜は困ったような笑い声をあげた。
 怖がる様子は全くない。この体勢と体格差では、逃げることなんで絶対にできないと分かっているだろうに。
「人の寝込み襲うなんてこと教えたつもりねぇんだけど?」
「襲う……とかじゃなくて、はじめは試してだったんだけど」
「確認ってなんの?」
「うーん、嫌じゃない、とかの? そしたらうれしくて? なんか癖になった」
「なんだよそれ。そんな変な癖つけるじゃありまけん」
 何か言い分はあるだろうと聞いてみたが、まるで意味がわからなかった。
 嫌じゃないのはまぁ、これだけ普段の距離が近いのだから無理もないだろう。不可抗力な部分があったとは言え、最近はずっと同じベッドで寝ている訳だし。
 それでも、俺と美夜の関係はあくまで『隣の部屋の人』であり、強いていうなら家族のようなものだ。決して、そういうことを日常的にやる間柄ではない。

 うん、これはやはり、一度痛い目を見せてきちんと教え込まないといけないようだ。

「お前さぁ……
 美夜の頭の下から手を抜き、そのまま顔横に置く。意図して体重をかければ、先ほどよりも大きくベッドが軋んだ。
「そういうことしてっと、勘違いされて襲われんぞ? こういう風に」
 反対の手で素早く美夜の両手を取り、頭の上で押さえつける。両足も、軽く片足を乗せてホールドすればもう動かすことは叶わない。そのまま、美夜に顔を近づけ、「ほらな」と低く冷たい声で言い放った。

 本当にどうかするつもりはない。しかし、これならいくら美夜が“そういう事柄”に疎くても、身の危険くらいは感じるだろう。

 そういうつもりが無い人物の下で、何も抵抗出来ないことは怖いことだから。
 知った人が、ある日突然目の色を変えて迫ってくることは恐ろしいことだから。

「ほら、怖いだろ?」

 本当に痛い思いをする前に、予防接種くらいはするべきだろう。
 
「うーん……

 しかし、俺の予想とは裏腹に、美夜の表情は何ひとつ変わらなかった。怖がるどこかけろりとした表情で真っ直ぐにこちらを見上げている。

「やっぱ怖くないし、嫌じゃないんだよなぁ……

 ほにゃ、と。そんな音がつきそうな笑みが美夜の顔に浮かび俺は絶句した。

……っ」
「真倫?」

 今、なにか。ぞくりと、知らない感覚が走った気がした。
 例えるなら腰の辺りをなぞられれるような、いてもたってもいられないような。衝動のままに手を伸ばしたくなるような、感覚。
 本当にこのまま痛い目を見せてやろうか、そんな気になってしまいそうな――欲望。
 ゆっくりと手を伸ばし、美夜の方に近づける。
 そして、

……ばーか」

 力を込めて、その柔らかな頬を引っ張った。

「いひゃい!?」
「今日はもう自分の部屋で寝ろ。人の寝込みを襲うような奴とはもう寝ませんー」
 ぱっと手を離し起き上がる。すぐ横では解放された美夜がそんなぁと情けない声を上げるが、構わない。
「どこ行くの?」
「トイレ」

 ひらりと手を振り、トイレの中へと入る。あんなことを言ったが、戻った頃にはおそらく美夜は当たり前のように寝直しているだろう。
 仕方ないかとため息をつき、文句をいう美夜を置いてベッドを後にした。



 ぱたんと、扉を閉める。薄い扉一枚ではあるが、隔てるとやけに静かな空間になったように思えた。
………
 さっきの一瞬。自分は一体、何を考えたのだろう。雰囲気を出そうとして、その気になり過ぎたのかもしれない。そうだ、あまりにも美夜の反応が無かったから、ムキになった。それだけだ。
……まさか、な」
 決して、『美夜』が欲しいなんて、思っていない。だって彼は、家族のようなものなのだから。

 ひどい事件からそれなりに時間が経った。不安定だった心身も、落ち着いた。
 もう、いつも通り。いつも通りでいいのだ。

 ぎゅっと掴んだ自身の腕は、いつもより熱い気がした。