未来機関から支給された自室のデスクで、ボクは手元のタブレットに表示された調度品のデジタルカタログを、ゆっくりと指先でスライドさせていた。
画面に並んでいるのは、およそ付き合いたての恋人同士が選ぶような、機能的なデザインや心地よい柔らかさを売りにしたベッドではない。
ボクが熱心に目を凝らし、詳細なスペックを比較するうえで重視している基準は、ただ一つ。
『耐荷重』。そして、『フレームの補強構造』。
要するに、どれほど乱暴な衝撃を加えても、絶対に壊れないだけの頑丈さを備えているかどうか。それだけだった。
「……うん、やっぱり無垢のオーク材か、いっそ頑丈なスチール製のパイプフレームじゃないと、ボクたちの重さには耐えられないよね」
ぽつりと零れた自分の声が、やけに白々しく室内へ響いた。
画面を滑らせる指先が、ほんのわずかに熱を帯びて震える。無機質な数字の羅列を眺めているだけで、ボクの脳髄はあっさりと、あの狂おしい夜の記憶へと引きずり込まれていった。
付き合いたて――その事実だけで、ボクの壊れた脳細胞はすっかり沸騰しきっていた。
普段のボクなら、日向クンというあまりにも眩しい『希望』の傍らにいられるだけで、身に余る幸福に息を詰まらせ、そのまま死んでしまってもおかしくなかったはずなのに。
いざ、あの逞しく、それでいて驚くほどしなやかな身体を腕の中へ組み敷いてしまった瞬間、ボクの理性なんてものは、綺麗事と一緒にどこかへ吹き飛んでしまったんだ。
あの夜のボクは、自分でも呆れるほど、ただの飢えた獣だった。
逃げ場を失い、シーツではなく木製のヘッドボードの縁を、指先が白くなるほど強く握りしめていた日向クン。
今になって思えば、あのベッドが壊れたのは当然のことだったのかもしれない。
未来機関が各職員の個室へ一律に支給した、単身者用の簡素な木製ベッド。復興途中の乏しい物資事情に合わせて用意されたもので、成人男性一人が眠るだけならともかく、二人分の体重と暴力的な衝撃を受け止めることなんて、最初から想定されていなかった。
もちろん、あのときのボクたちに、そんな冷静な判断ができるはずもなかった。
くすぐったそうに笑っていた日向クンの最初の余裕なんて、ほんの数分も保たなかった。ボクが刻みつける苛烈な律動に呑み込まれ、息も絶え絶えになりながら、涙に濡れた声で何度もボクの名前を呼んでいた。
ボクの唾液と、キミの涙で、ぐちゃぐちゃに濡れそぼっていく端正な顔。
荒い呼吸と激しい鼓動が、うるさいほど間近で重なり合う。互いの熱情が完全な臨界点へ達した、まさにその瞬間だった。
――みしり、と。
およそベッドの上から聞こえてはならない、不穏で硬質な破壊音が、ボクたちの鼓膜を乱暴に叩いた。
驚愕に日向クンの瞳が大きく揺れる。
その次の瞬間には、安価な木製のサイドフレームが接合部から裂け、マットレスを支えていた床板ごと一気に崩落した。ボクたちは傾いたマットレスから投げ出されるように、文字どおり床へひっくり返っていたんだ。
思い出すだけで、喉の奥がじりじりと焼けるように乾いていく。
あの凄まじい惨状を前に、情けなくも一瞬で我に返ってしまったボク。
そして、したたかに打ちつけた腰の痛みと混乱のあまり、深夜だというのも構わず、顔を真っ赤にしてキレ散らかしていた日向クン。
そんな彼から無慈悲な『宣告』が下されたのは、翌朝のことだった。
『新しい家具を注文してそれが部屋に届くまで、お前は一切俺に触るな。……お前がちゃんと大人しく反省したって、俺が認めるまでだ。完全にお預けだからな』
業務連絡以外の会話を一切拒むような、他人行儀で冷え切った声音。
それ以来、廊下や執務室ですれ違っても、日向クンは徹底してボクを視界の端でやり過ごし、まるで赤の他人のように冷たく突き放し続けている。
「あはは……ボクみたいなゴミクズには指一本触れてもくれない日向クン、本当にゾクゾクするほどかっこよくて、最高に愛おしいなぁ……っ」
首筋を伝う冷たい汗を感じながら、ボクは乱れた呼吸を鎮めるように、深く息を吐き出した。
キミから与えられたこの理不尽な『罰』すら、今のボクなら極上の蜜へと変えて、脳内でいくらでも美味しく消費できてしまう。
でも、それとこれとは話が別だ。
肉体を蝕む飢えと渇きが、もうとうに限界を超えているのもまた、紛れもない事実なのだから。
お預けを食らった、従順で無害な犬のふりをするのも、そろそろ終わりにしよう。
もちろん、日向クンが提示した条件は、新しい家具が届くことだけではない。
――お前がちゃんと大人しく反省したって、俺が認めるまで。
確か、そんな厄介な但し書きもついていた。
けれど、それを認めるのが日向クンなら、その判定を少しくらいこちらから誘導したって構わないだろう。
だって、新しいベッドの注文確定ボタンを押したということは、まもなくボクのもとへ、あの素晴らしい経験をもう一度上書きするための、完璧な『大義名分』が転がり込んでくるということなのだから――。
ボクは口元にじわじわと歪な微笑を浮かべながら、タブレットの画面を暗転させた。
◆
それから、ひたすら喉の渇きに耐え続けるような数日間が過ぎた。
すれ違いざまに視線すら合わせてもらえない、その徹底した拒絶に、ボクの心臓は切ない歓喜で鳴り響きっぱなしだった。
肉体の飢えが本当の限界を迎えるよりも先に、待ち焦がれていたそれは、ある日の昼下がり、未来機関の職員寮へと運び込まれてきた。
低い駆動音とともに搬入用エレベーターの扉が開き、台車に積まれた巨大な荷物が、ボクと日向クンの部屋が並ぶ階へゆっくりと姿を現した。
「――あの、本当にこちらのお部屋で間違いないでしょうか……?」
入館手続きを済ませ、エレベーターから荷物を降ろした配送員の一人が、台車の上に鎮座する巨大な木箱を前に、引き攣った顔でボクを振り返った。
「お届けの商品は……業務用の高耐久ベッドフレームとなっていますが」
「うん、間違いないよ。届け先はあそこにある日向創クンの部屋。注文したのはボクだけどね」
ボクが廊下の先にある扉を指し示すと、男は伝票に記載された宛名と部屋番号を、もう一度念入りに見比べた。
その表情には、明らかな困惑と、ほんのわずかな警戒が入り交じっている。
それもそのはずだ。
職員寮へ運び込まれる個人用の家具とは到底思えないほど厳重に梱包された荷物には、物々しい商品仕様を記した大きなラベルが貼りつけられていたのだから。
《高耐久・業務用・補強スチール構造》
《総耐荷重六〇〇キログラム・衝撃分散試験クリア済》
「あはは、そんなに警戒しないでよ。ただの新しいベッドフレームだよ? ボクみたいなゴミクズの不運に巻き込まれて、ちょっと身近な人の家具が……ね。信じられないような折れ方をして、壊れちゃったからさ。そのお詫びとして新調しただけだよ」
ボクが愛想よく片手を振ってみせると、男はかえって薄気味悪そうな顔をして、台車からそっと距離を取った。
どうやら、一般社会において想定される『ベッドの壊れ方』の許容範囲を、ボクたちは遥かに超越してしまっているらしい。
まぁ、その理由を彼に説明したところで、到底理解してはもらえないだろう。
――思い出すだけで、下腹部の奥がじり、と熱を帯びる。
あの夜、ボクの腕の中で逃げ場を失い、ヘッドボードの縁を指先が白くなるほど握りしめていた日向クン。
「……おい、狛枝」
不意に背後から突き刺さった、低く冷え切った声音。
そのたった一声だけで、ボクの背筋を極上の戦慄が駆け抜けた。
ゆっくりと振り返れば、書類の詰まったファイルを小脇に抱えた日向クンが、少し離れた場所に立っていた。
どうやら、ちょうど仕事を終えて戻ってきたところらしい。その足は廊下の途中で完全に止まり、栗色の瞳は台車に積まれた荷物の側面へ、吸い寄せられるように釘づけになっていた。
そこに記された物々しい文言を、一つずつ確かめるように動いていた日向クンの視線が、やがて、ひどくゆっくりとボクの顔へ向けられる。
付き合いたての恋人へ注がれるべき甘い温度なんて、そこには一滴たりとも存在しなかった。
真っ直ぐにボクを射抜く瞳には、言葉にする必要すらないほど鮮明な怒りと羞恥、そして――お前は一体、何をするつもりなんだ――という無言の非難が、これでもかと滲んでいた。
数日間のお預けのあいだ、徹底して他人行儀を貫いていたキミの仮面が、たったこれだけの文字列によって、あっけなく剥がれ落ちていく。
怒りにかすかに震える薄い唇。険しく寄せられた眉。そして、羞恥を堪えるように強張った頬。
そのどれもがあまりにも色っぽくて、ボクは喉の奥から熱い吐息が漏れそうになるのを、必死に堪えた。
「あ、日向クン。ちょうどよかった。たった今、届いたところなんだよ。キミのためにボクが厳選した、世界で一番安全な寝床が――」
「黙れ。……すみません。それは俺の部屋に運ぶ荷物です。ここまで運んでいただいて、ありがとうございます」
日向クンはボクの言葉を乱暴に遮ると、何も聞かなかったことにしてくれ、と言わんばかりの硬い表情を浮かべたまま、配送員たちへ軽く頭を下げた。
それから、動揺を押し隠すように抱えていたファイルを強く胸元へ引き寄せ、真っ直ぐ前を見据える。
耳の裏が隠しきれない羞恥によって、熟れた果実のようにじわじわと赤く染まっていく様子だけは、ボクの歪んだ視界にもしっかりと映り込んでいた。
「部屋まで運んでもらったら、そのまま組み立ても頼むからな。お前は余計なことをせず、そこで突っ立って見てろ」
「それがね、日向クン。この人たちは搬入だけで、組み立ては別の担当者が来る予定だったんだ」
「......だった?」
「うん。ついさっき連絡があってさ。担当者の乗った作業車が、こっちへ向かう途中で故障しちゃったらしいんだよ。だから今日は、組み立てに来られなくなったって」
もちろん、嘘ではない。
さすがはボクの不運だ。こういう時に限って、まるでボクの企みを後押しするかのように、実に都合よく働いてくれる。
「だからさ、いつまでもキミの部屋をこんな大荷物で圧迫しておくわけにもいかないだろう? ボクが責任を持って組み立てるよ。もちろん――指一本触れないっていうキミとの約束は、きちんと守るから。ね?」
そう言いながら、ボクはほんの一歩だけ、日向クンとの距離を詰めた。
牙を隠し、いかにも従順で無害な犬を装った微笑を浮かべながら、その強張った顔を覗き込む。
日向クンは、まとわりつくようなボクの視線から逃れるように顔を背けた。
それでも、一度だけ浅く息を呑んだことも、そのあとに続く呼吸がわずかに乱れたことも、今のボクには手に取るように分かってしまう。
無機質に冷えた寮の廊下で、互いの吐息だけがひどく熱を帯び、触れ合う寸前の距離で、じわじわと混ざり始めていた。
「……あの、搬入を続けてもよろしいでしょうか?」
遠慮がちな声が横から割り込み、二人きりになりかけていた世界をあっけなく引き裂いた。
日向クンは弾かれたようにボクから離れると、赤く染まった顔を誤魔化すように咳払いをした。
「……すみません。お願いします」
ボクは何事もなかったかのように微笑み、素直に一歩退いて配送員たちへ道を譲った。
今、焦る必要なんてない。
待ち焦がれていた新しい寝床は、これからキミの部屋へ運び込まれるのだから。
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