su7ga0
2026-07-12 12:04:45
13488文字
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秘密の花園 前編

個人サイトと支部に掲載しているkrsb夢のその後の話です。
本編は下記のリンクからお読み頂けます。

「私の愛したスリジエ」https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=28086535

ご感想など頂けたら嬉しいです
https://wavebox.me/wave/1ohgjecrn08esqhc/

秘密の花園 前編




 ミアレの夏の輝かしさに僅かでも儚さを覚えたら、それはあなたがミアレへ根を下ろしている証だ。……との言葉を残したのは、はたして誰だったか。
 学生の頃に、テキストで読んだ一文が頭に残っているのかもしれないし、何かの本の言葉が記憶に刻まれているのかもしれない。ただ、この言葉の起源が古かったことだけは覚えている。
 この言葉には、ミアレの暗くて長い冬を体験していれば、自ずと夏が短いことに名残惜しさを覚えるだろう、との意味が秘められている。だけど、近年、夏のミアレは熱波に襲われることも多く、太陽に対して恨めしさや嫌気がさすことも少なくない。
 ……そして、カラスバさんは、ミアレの夏に対して儚さを感じることなんてないのだろう。

「この時期になるとな、みんなお日様に惹かれて海やらなんやらへ行ってまうやろ、街から人がいなくなるねん。それで、代わりに観光客がようさん来て揉め事を起こしよる。ミアレの夏の風物詩や。毎日大変やで」
「揉め事の仲裁をサビ組でしてるの?」
「せやで。バカンスの季節に揉め事の仲裁なんて、嫌がって誰もしぃひんやろ? でも、人の嫌がることをやって得を取るんは、ミアレの為にも、オレらの為にもなるからな。……それに、人の嫌がることっちゅうのは儲かるんやで」
「そうなんだ……勉強になる」
……いや、オマエはこないなこと勉強せんでええ……

 心底呆れた様子のカラスバさんの声が、エアコンの微かな運転音に乗って響いた。
 時刻は二十二時過ぎだ。
 ついさっき帰ってきたカラスバさんは、ソファーに深く背中を預けて、くたびれた顔をしている。疲れが度を超しているのか、涼しげな目付きは荒んでいて、瞳の焦点もどこかおぼろげだった。
 今年もミアレにバカンスの季節がやってきた。カロスの夏は輝かしくて短い。この街に生きる人たちは、短い夏を思い切り楽しむことを生き甲斐にしているけれど、カラスバさんの話振りを聞くに、どうやらサビ組は「バカンス」という言葉とはあまり縁がないようだ。
 よき休暇を、と、職場の同僚たちと挨拶を交わしてから数日が経つ。
 去年の休暇は、カラスバさんとの予定を入れていない時間を、友人の家へ遊びに行ったり映画をハシゴしたりと好きに過ごしていた。
 今年は、休暇に入る前日の夜から、このペントハウスを避暑地にして過ごしている。
 春の終わりに、初めてカラスバさんの家へ招かれてから今まで、一緒に住んでいることとほとんど変わらない状態で彼と過ごしてきた。折角の休暇なのに、普段と変わらずに過ごしている……といえば正しくそうで、バカンス期間なのに忙しいカラスバさんも、そこを負目に感じている素ぶりをしていた。
 けれど、彼の留守を預かるという役目は初めて担う。住まいを整えながらカラスバさんの帰りを待って、帰宅を出迎えるのは新鮮に感じた。
 それに、もし、「バカンスは旅行に行きたい」と言ったとしたら、カラスバさんはどうにか予定を擦り合わせてくれたはずだ。無理をしていても、澄まして平然とした顔をするのが得意な人だから、私の希望へ快く了承の返事をした裏で、きっと途方もない労力を費やして時間を作ってくれただろう。……そんなことが目に見えて分かってしまう。
 だから、休暇を迎えた最初の夜、カラスバさんが「どこにも連れてってあげられへんでごめんな」と呟いた時、その言葉が、心苦しさと罪悪感で満ちていると、手に取るように分かってしまった。
 私は、苦しかった冬の出来事を振り返る。
 カラスバさんとの蟠りが解けて、傍にいることが叶った喜びに身を浸している今の幸せを思えば、今年のバカンスは、私にとって二週間ほどの間だけの蜜月の真似事だ。

「おらん間、変わったことはなかったか?」
「うん。大丈夫。何もなかったよ」
「そうか。オマエも変わりないか?」
「もちろん」
「ならええ」

 暑さと疲労で荒んだ色をしていたカラスバさん金色の瞳が、ほどけるようにゆるんだ。
 カラスバさんは、休暇中にどこへも行けないことを悔やみながらも、仕事で留守にしている間、私が家にいることが嬉しいらしく、ヴィンテージワインだったり、有名ホテルのチョコレートだったり、気合の入ったお土産を携えて帰ってくる。
 ただ、今日の暑さには、流石に打ち勝てなかったようだった。手ぶらで帰ってきて、ぐったりとした様子でソファーへ沈んで、今までこんな調子だ。
 確かに今日は殊更に暑かった。このペントハウスも、エアコンを入れていなければサウナのような暑さだったはずだ。
 疲弊したカラスバさんの様子を見ていると、どうしても心配する気持ちが湧く。彼は、どんなに暑くても絶対に長袖のシャツを着て、袖を捲ることをしない。肌に刻まれている刺青を他人の目から隠して、無用な威圧を与えるのを避けているから、真夏でも我慢比べのように長袖の服を身に付けている。
 その分、帰ってきた時には、煩わしさを隠そうともしない。出迎えた途端に胸元へ手を掛けたかと思うと、シャツのボタンを全て全て開け、高そうなドレスシャツが皺になることも気にせず腕を捲る。あまりに暑い時には、ふと目を離して視線を戻した時には上半身を晒していた……なんてこともあった。
 氷の入ったグラスに炭酸水を注いで渡すと、カラスバさんは、グラスの中身を一気に飲み干してから、小さく「ありがとな」と呟き、空になったグラスを渡してきた。

「お腹減ってる? 何か用意しようか?」
「いや、ええわ……

 何だか消え入りそうな声に、私はひっそりと眉をしかめた。背丈の割によく食べる人が、食事を遠慮するなんて大変由々しきことだ。
 カラスバさんは前髪へ手櫛を通すと、そのまま、固めていた髪をぐしゃぐしゃと崩した。

「風呂入って寝る……明日は休みやさかい、目ぇ溶けるまで寝たる……
「うん、ゆっくりしてきてね」
「オマエも一緒に入るか?」
「ううん。私はもう先にシャワー浴びちゃったから……

 途端に、カラスバさんはソファーから腰を上げて私の目の前に立ちはだかった。
 何だろうと思う間もなく、カラスバさんの両腕の中に閉じ込められ、きつく抱きしめられる。
 朝より柔らかくなった香水の香りに混じって、男の人の汗の匂いがした。暑い中、頑張って働いていたことを労おうと、広い背中へ手を回す。
 すると、カラスバさんは私の首筋に頬擦りをして、そのままぬるりと自分の首を擦り付けてきた。

「あーあ、オマエも汗まみれやん。こらぁ風呂入らんと」
「え?」
「ほら行くで。背中流してや」
「えぇ……?」

 私の腰を抱きながら笑うカラスバさんの瞳は、先ほどのまでの疲れた様子など消え失せて、きらりと意地悪そうな目付きになっていた。

 ***

 ……カラスバさんの家の庭園にいる夢を見ていた。
 夢だとすぐに気が付いたのは、彼のペントハウスのバルコニーでずっと育てていた若木が、大木の姿で目の前にそびえていたからだ。
 普段なら、夢を夢だと気が付かないままでいる。だけど、この時は何故か違った。昨日まで私の背丈までも無かったはずの木が、見上げるほどの大きさに成長している様に、これは夢だとはっきり感じた。
 しかも、目の前の木は、大きく伸ばした枝に満開の花を咲かせている。
 薄青の澄んだ空と、ほとんど白に近いほのかな桃色の花弁のコントラストは、雲の上にいるような景色だった。
 夢のような景色を目の当たりにして、いいや、これは間違いなく夢だったと思いいたり、ふと、大樹が根を伸ばした先のことが気にかかった。根が伸びているのは階下のフロアだから、もしかしたら、根っこが天井や壁を突き抜けてしまっているかもしれない、どうしよう……と心配になって、目が覚めた。
 目を開けて飛び込んできた景色は、光に溢れて真っ白で、何度か目を擦って瞬きをすると、像を成してカラスバさんの家の寝室に変わった。
 半分だけ開けられたカーテンはひらひらと揺れて、昨日の暑さが嘘のように思えるほどの、乾いて涼やかな風を運んでいる。
 ベッドの上から身を起こして壁の時計を確かめると、時刻はもう昼に近かった。

「おはようさん、調子はどうや?」

 声の方を振り返れば、カラスバさんがいた。少し寝ぼけたまま、おはよう、と返そうとしたのだけど、うまく声が出ない。
 寝起きで掠れたにしては、声の調子がおかしいことを不思議に思っていると、カラスバさんは苦く笑いながら、私の近くのベッドの縁へ腰を下ろした。

「ゆっくり休んどき。痛いところはあらへんか?」

 カラスバさんは、柔らかく笑って私へ尋ねた。
 痛いところとは? と怪訝に思い、眠る前のことを思い起こす。
 ——昨日の夜は、遅くに帰ってきたカラスバさんに連れられて、一緒にお風呂に入ることになった。
 着替えを用意して髪をまとめ、二度目の入浴の支度をしてバスルームへ向かうと、今にも舌舐めずりをしそうな顔をして、カラスバさんは私を待っていた。
 そうして、案の定というか、そのままバスルームで事に及ぶ羽目になってしまったのだ。カラスバさんが、溜まった鬱憤を晴らすようにいつまでも離してくれなかったのと、熱くてのぼせそうだったのとで、途中から記憶がない。
 そういうことか……と、一人で納得してカラスバさんを見つめる。

「ご飯持ってきたるから、ゆっくり食べや」

 声が出ないので、カラスバさんの目を見て頷いた。
 甘えさせてもらえるのなら、ここは素直にお願いしようと思った。痛むところはないけれど、体が怠くてまだ動きたくなかった。それに、多分甘えた方が、カラスバさんの機嫌が上向くはずだ。
 ちょっとだけ照れながら笑ってみせると、カラスバさんは、予想した通りに嬉しそうな顔をして、少し身を乗り出して私の髪を撫でた。
 その時に、窓からの風に乗って、心地よい香りが空を舞った。
 薔薇か百合のような濃密な甘さの中に、ほんのりとシナモンに似たエキゾチックな香りが漂う。カラスバさんが香水を変えたのだろうかと思う前に、バスルームでの昨夜の記憶が蘇った。
 ……カラスバさんは、暑いと言いながら帰ってきたのに、わざわざ浴槽にお湯を張って私を待っていた。
 そうして、探していたいい物が見つかったから試してみるか、と言って、香水を湯船に振ったのだ。
 蒸気に乗って爽やかな甘い香りが立ち上り、心地よさにうっとりとした。身を包む馥郁とした香りに、一瞬だけカラスバさんが危うい目をしていたことを忘れてしまって、その隙に、後ろから抱き竦められて頸を喰まれた。
 ……いま漂ったのはその時の香りだ。「何の香水か当ててみぃ」と耳に吹き込まれた囁き声まで蘇って、思わず体の芯に熱が灯ってしまう。
 カラスバさんに気付かれずにやり過ごさなければ、また大変な目に遭うとよぎって、平静を装った。だけど、私の目を覗き込んで微笑む金色の眼差しは、段々愉しそうに、意地悪く細くなっていく。

……どしたん?」

 声が出ないのを利用することにして、私は唇を噤んで固まった。
 視線を静かに窓の外へ逸らし、体の中を好き勝手にかき回されて悦んでいた昨日の夜のことを必死に遠ざける。

「なあ。耳、赤なってるけど、何考えてるん? ……それとも、何か思い出したんか」

 私の髪を撫でていたカラスバさんの手は、いつのまにか腰に回っていた。余所見なんて許さないと言わんばかりに、大きな手が私の腰を簡単に抱き寄せる。
 腰を引き寄せられて、姿勢を崩して見上げたカラスバさんの目は、私の考えたことなんて見透かしているのだとはっきり分かった。
 面白そうに、可哀想なものを憐れむように、金色の目は笑んでいる。
 腰を掴んでいた手に力が込められると、否応にも、私の体の一番奥まで先端を埋め込む動きが思い起こされた。もうこれ以上、深くへは彼を招くことができないことに切なくなって、涙をこぼした昨夜の情事が鮮明に浮かぶ。
 首を横に振りつつ、声にならない声を搾って、抵抗の意を示そうとしたけれど、余計にカラスバさんの嗜虐心を煽るだけのような気がした。
 段々とこちらに身を乗り上げてくるカラスバさんの肩へ手を掛け、形だけの抵抗を取ると、バスルームで包まれていたあの香りが濃く漂った。カラスバさんにも、私にも、どこか清々しくて甘い花の香りが染み付いている。
 ——その時、私は唐突に、あの香水の香りの正体に気が付いた。

「あ」
……あ?」

 私の上げた、掠れて間の抜けた声に、カラスバさんもつられて拍子抜けした声を漏らした。
 夢に出てきた大木の咲かせていた花が、幻のように頭の中へ描かれる。
 あの香水の香りは、私がここへ来た時から、カラスバさんと一緒に育てている木が咲かすのであろう花の香りだ。

 ***

 カラスバさんが持ってきてくれたブリオッシュとカフェオレをゆっくり味わって、どうにか声は出せるようになった。でも、思わぬところで掠れてしまうので、喋ると何だか調子の悪いラジオみたいになってしまう。
 食事を取り終えたあと、私はのんびりと着替えて庭へ出た。
 日差しは強いけれど、吹く風が爽やかで心地よい。気温が高く熱風が吹いていた昨日とは違って、日陰に入れば過ごしやすかった。
 私はカラスバさんのロズレイドに手伝ってもらいながら、そろそろ花の時期が終わりへ差し掛かる梔子くちなしの花殻を摘んでいた。
 鉢植えの、小さな花を咲かせる品種の梔子は、母に教えてもらった花だ。
 小さく育って大きくなりにくいから、鉢植えで育てるのに丁度良いのよ、と言っていた母へ、この梔子をどこで育てたかを伝える日はいつ訪れるだろうか。幸せの象徴のような梔子の優しい香りを楽しみながら、花殻をまとめて仕事を終えた。
 ロズレイドへお礼を言うと、ロズレイドはウインクを残して、カラスバさんの元へ向かっていった。
 ロズレイドが向かった先、四阿あずまやの方には、日陰でとぐろを巻いているギャラドスがいる。
 ギャラドスの近くではアーボックが寝そべっていて、カラスバさんがホースで水をかけてあげている。ロズレイドも加わりたいようだ。
 ペンドラーの姿が見えなかったので、どこにいるのだろうと庭園を見回すと、隅の方で、いじけた目をしてこちらを見ていた。……最近のペンドラーは、私がペンドラー以外のカラスバさんの手持ちの子と接すると、恨めしそうな顔をする。
 今も、花殻摘みをする様子に気が付いて、スマートに手伝い始めたロズレイドを受け入れた私へ、拗ねたような目線を送っている。
 最初に仲良くしてやったのは自分なのに、その恩を忘れたのか、とでも言わんばかりのペンドラーの黄色い目は、主人であるカラスバさんにそっくりだと思う。

「ペンドラー、葉っぱ、食べる?」

 庭園の隅でいじけていたペンドラーは、そんなご機嫌取りなんて要らない、と言うかのようなつんとした態度で、私の方でも、カラスバさんの方でもない芝生の広がったスペースへ、のしのしと歩いていった。
 拓けた場所まで歩みを進めたペンドラーは、不貞腐れているのが易々と分かるほど、もぎゅ、と微かな不満の声をこぼして芝生へ寝転んだ。
 ……あとでこっそり、ペンドラーにだけ何か好きな物をあげよう。トレーナーに似て、特別扱いが一際好きな子だ。
 取り付く島なんか無いんだからね、といった表情で目を閉じるペンドラーに苦笑しながら、冷蔵庫に何が残っていたかを考えた時、突風が髪をさらっていった。ミアレを見下ろすこのペントハウスには、時折強い風が吹き付けることがある。
 私は髪を抑えて、砂埃が目に入らないよう、きつく瞼を閉じた。
 風が去って、少し目を開けると、芝生に寝転んでいた筈のペンドラーは、四肢を張って立ち、瞳を見開いていた。
 気が付けば、ペンドラー以外の他のポケモンも皆一様に同じ方向を向き、何かを探るような態度を取っていた。
 ——私には、ただ強い風が吹いたとしか思えなかった。
 だけど、その一陣の風が、ポケモンにしか分からない何かの気配を連れてきたことは明らかだった。
 ぴんと張り詰めた空気に狼狽え、どうしたら良いのか分からず戸惑っているうちに、ペンドラーは眠たげに瞼を半分閉じた。脱力し、四肢を曲げて体の下へ折り畳み、安息の姿勢を取ったことに、何かへの警戒は解かれたのだと思いいたる。

……たまにあんねん。風に乗って、強そうな奴の匂いでもしたんやろな」

 戸惑っていた私に気が付いたのか、カラスバさんが近くへ来ていた。ホースは、水を止めてタイルの上へ放られている。

「なあ。そろそろ真剣に考えた方がええんちゃう? なんかあった時のこと考えると、オレ、心配やわ」
……何のこと?」
「ポケモン。ここが幾らセキュリティ対策しとっても、オマエが自分ちに帰れば……まあ、丸腰みたいなもんやし。考えてみる気あらへんか」

 カラスバさんは、勧めにさり気なさを感じさせつつも、瞳は真剣だった。昨日今日で考え付いたことではないのだと、金色の眼差しは私へ伝えてくる。
 ……確かに、カラスバさんの言う通りだと思った。
 私が手持ちのポケモンを持っていないことは、私にとっても、カラスバさんにとっても弱点になる。いくらカラスバさんが手を回してくれていても、どうにもできないことはある。以前から懸念していたことを、カラスバさんがはっきりと言葉にした意味を考えて、私は悩んだ。
 ポケモンを持った方が良いのは理解している。
 以前、カラスバさんが怪我を負った時のような諍いに私が巻き込まれる可能性も、ないとは言えない。むしろ、私はカラスバさんの隣へ添っているのだから、悪意を持った者に襲われる確率は高い。
 カラスバさんのポケモンたちと触れ合うようになって、以前よりも格段に恐怖心は薄れた。今なら、恐怖で足が竦むことも、そうそう無いだろうと思う。
 ……だけど、自分が、街中で見るトレーナーのような振る舞いができるとは、どうしても思えないのだ。
 小さな頃からポケモンと触れ合って育ってきた者と、恐怖心からポケモンを避け続けてきた私とでは、目に見えない経験の差があるだろう。
 その差を埋められず、有事の際にポケモン諸共斃れてしまう羽目になれば、私の手持ちに選ばれた子が可哀想だとも思った。
 返事を決めかねて言い淀む私の様子に、カラスバさんは、ふ、と柔らかく声をこぼした。

……心配せんでも、オレがおるやろ。分からんことがあったら教えたる」
「うん……
「無理にとは言わへんけど……どんな奴が好き、とかある? こないだ、一生懸命ネイチャーチャンネル見よったやんか。ドオーは条約に引っかかるから、こっちカロスには連れて来られへんけど、あんな感じのが好きなん?」

 カラスバさんの言葉に、少し前に動画で見ていたドオーのことを思い出しつつ、はたして私はそんなにドオーを熱心に見ていただろうか……と少々考え込んだ。
 もしかしたら、私の視線の先を追っていたカラスバさんの方が、余程熱心だったかもしれない。そういえば、ドオーは、縄張り争いに敗れて慣れない場所に棲むうち、毒性を得たポケモンだ。
 私のことを心配しているカラスバさんの瞳には、好きなものを分かち合いたい気持ちがひっそりと隠れている。
 それが微笑ましくなって、私は笑った。

「そうだね……少し、考えてみる」

 そう言った途端、カラスバさんの金色の瞳が一層輝いた気がした。
 私の元へ来てくれた子を悲しい目に遭わせないよう、固い絆で結ばれたトレーナーとポケモンを目指して、まずは私が心を強く持つべきだろう。
 カラスバさんが手を貸してくれるのだから、きっとできる。
 ペンドラーが、薄目を開けてこちらの様子を窺っていた。
 強い風がまた吹いたけれど、今度は、誰も気にすることはなかった。

 ***

 庭の手入れを一通り終えると、既に昼とは言えない時間に差し掛かっていた。
 予定を立てずに過ごした休日は、溶けるように時間が過ぎてゆく。
 せっかくカラスバさんが休みの日だったのに寝坊をしてしまい、特に何もせず一日の大半が終わってしまった。
 それが何だか申し訳なくて、その気持ちをぽつりと口にすれば、「前の日に無理させたのはオレやさかい……気にせんといて」と、労わるような苦笑が返ってきた。
 確かに、声が出なくなるほどに鳴かされたのは初めてだったし、思い起こしてみれば、バスルームから出てきた時の記憶は少し曖昧だ。

「昨日、帰ってきた時のカラスバさんは、すごく疲れていたのにな……不思議」
「なにが」
「ううん。何でもない」
……そりゃあな。家に帰って、可愛い恋人が出迎えてくれたら、どんだけ疲れとっても嬉しい方が勝るやんか。目一杯愛したらなあかんわ」

 腰を抱き寄せられて、楽しそうな声で囁かれ、私は思わず頬を赤くしてしまった。私の照れる様子が、カラスバさんはとても嬉しかったようだ。私へ向けられた金色の瞳は、眩しいものを見るように細められていた。

 私が朝寝をしていたからか、もしくは、バカンス期間中も働き詰めだったためか、カラスバさんは、今日一日を、外出せずに家で過ごすことに決めていたようだった。
 バルコニーで、手持ちのポケモンたちの体表や鱗を丁寧に拭き、磨いてやり、トリーツを与えてのびのびと寛いでいた。何もしないことの贅沢さをポケモンたちと味わって、心身を休めていた。
 ギャラドスの髭を拭いていたカラスバさんは、ペンドラーから不意打ちのように甘えられ、姿勢を崩してふらつきながらも、笑って楽しそうにしている。金色の瞳は、太陽の光を受けて輝いていた。
 私は、ポケモンたちへ向けられているカラスバさんの眼差しを見つめた。
 ひとたび外へ出れば、あの柔らかな眼差しが鋭く一変することを知っているから、こうして穏やかなひと時を一緒に過ごせることは、何にも変え難い幸福のように感じる。
 安らいだ時が流れていく中、私はふと、自分の心の内で、独りよがりな願望がひっそりと鎌首をもたげていることに気が付いた。
 彼の、苛烈な印象の裏に隠れた優しさを知る人間はどれほどいるのだろう。
 愛を語る金色の眼差しを向けられた人は、今までどれだけいるのだろう。
 きっと私は、心の奥底では、カラスバさんを独り占めしたいと思っているのだと、そんなことをぼんやり考えながら穏やかな休日のテラスの光景を眺めた。
 彼が甘い瞳を向けてくれると、喜びで胸が一杯になる。
 私を真っ直ぐに見つめてくれる眼差しは、確かな熱を持っている。そのことが途方もなく嬉しい。
 だけど、峻烈で刃物のように鋭い眼差しが、私を見留めた途端に愛おしさを灯し、蕩けて変容する様は、正しく毒だと思うのだ。
 黄金の瞳に見つめられ、腕の中で睦言を囁かれる時。私は、歓びで満ちる胸の奥底で、もう彼から逃げられないのだと微かな諦念を抱くことがある。
 カラスバさんから離れたいなんて気持ちがあるわけではない。でも、もしも私が彼から離れる選択をしたとしても、あの、静かに輝く金色の眼差しが頭をよぎれば、全てを振り払って彼の元へ戻るのだろう。
 私を逃してなんてくれない、優しいばかりの恐ろしい瞳。
 その眼差しで、ずっと私だけを見ていてほしいと願ってしまうなんて、随分と大それた願望を抱くようになったものだ。

 ──ほんのりと苦笑しながら、私はテラスにカラスバさん達を残して、部屋の中に入った。
 少し早いけれど夕食の支度へ取り掛かることにした。もう、メニューは大体決まっている。
 夏野菜を小さく切ってベーコンと煮込んだスープと、オリーブとアンチョビの乗ったサラダ。メインは厚めの肉を焼いて、ポテトを添えようと頭の中で段取りを組む。
 ついでに、酸味が強くて二人ともグラスの進まなかった赤ワインも残っているから、それで脛肉を煮込んで、そっちは明日か明後日のメインにしようと決めた。時間はたっぷりあるから、手のかかる物を作ることができるのは良い。
 バルコニーにカラスバさんとペンドラーたちを残し、キッチンへ向かった。
 冷蔵庫から食材を取り出して準備をし、ついでに、飲み残したワインも出しておこうと冷蔵庫の中を探したけれど見当たらなかった。もしかしたら、カラスバさんがワインセラーへ入れてくれたのかもしれない。
 私がここへ訪うようになって割りとすぐの頃、あった方が何かと便利だからと言って、カラスバさんはワインセラーを設置した。
 そこまでしなくても良かったのに、と思ったけれど、カラスバさんは「静かなとこに置いとくと美味しなるんやって」というようなことを言いながら、二人で飲むワインをセラーへ仕舞い、にまりと笑っていた。
 もしかしたら、彼は、私が来たことによって自分の家に物を増やさなければいけない、という状況が嬉しかったのかもしれない。
 私も、前のアパルトマンに住んでいた時、同じような気持ちを抱いたことがある。
 カラスバさんの使う物が自分の家にあることが嬉しかったし、一人用の小さな料理道具では二人分を賄えなくなって、ひと回り大きな鍋やフライパンを買った時は、何だかくすぐったい気持ちだった。
 カラスバさんも同じだったら良いな、と、口の端にほんのり笑みが浮かぶ。
 セラーを置いているのは寝室だ。寝室へ向かってセラーを覗くと、思ったとおりに、中身が半分ほどのワインが入っていた。
 ワインボトルは、丁寧にコルクを締め直されている。一度抜いたコルクをもう一度締め直すのが、カラスバさんはとても上手い。
 何度かコツを教えてもらったけれど、私にはどうしても出来なくて、結局お願いすることにしている。それに、絶対に口にはできないけれど、しゃあないな、と言って得意そうにしているカラスバさんは、ちょっと可愛いのだ。

……?」

 キッチンに戻り、並べた食材を眺めていると、違和感を覚えた。
 冷蔵庫から出して準備していた野菜が少し減っているような気がする。
 それに、出したはずのニンジンが見当たらない。

「あれ……もしかして、出してなかったのかな……

 まさか、そんなわけはない。確かに出したはずだけど……。自分の行動を振り返ってみたり、キッチンの近辺に落ちていないかと探し回ったものの、ニンジンの行方は分からなかった。
 冷蔵庫の中にまだストックがあったので、それを使うことにし、仕方なくそのまま調理を始める。
 肉にスパイスと塩を振って馴染ませておこうとパックを開けようとしたところ、いつのまにか部屋の中へ戻ってきていたペンドラーが姿を見せた。
 ペンドラーは、私が料理を始めると、『何か頂戴』と言わんばかりに覗いてくることがある。
 サラダに使った野菜の端や、ゆで卵を一欠片だけ、なんて、ちょこちょことおやつをあげるので、ペンドラーはキッチンを覗くのがすっかり習慣になってしまった。
 以前、じとっとした目付きをするカラスバさんから、「アイツだけエコ贔屓すんのはあかん」と言われたことがある。
 その時は、心を鬼にし、キッチンを覗いてくるペンドラーに謝りつつ、何かしらを与えるのは止めていたのだけど、ペンドラーにおやつをあげなくなった途端、今度はカラスバさんがよくつまみ食いをしに来るようになった。
 まさか、「エコ贔屓はあかん」の中に、カラスバさんが含まれているとは思わなかった。なので、カラスバさんの目を掻い潜ってペンドラーがやって来る時は、こっそりおやつを与えることにしている。

「ペンドラー、待っててね。すぐあげるから」

 声をかけたけれど、なぜかペンドラーは私へぐいぐいと近寄ってきた。いつもなら、声をかければその場で大人しく待っているのに……と、不思議に思っていると、ペンドラーが何かを咥えていることに気が付いた。
 ペンドラーが咥えているのは、先の方が少しだけ齧られたニンジンだった。

「あっ……ニンジン。ペンドラー、もしかして、食べたくて持って行っちゃったの?」

 私が戻ってきたことで、慌ててニンジンを返しに来たのだろうか。ペンドラーは、受け取れと言わんばかりにニンジンを私に押し付けてくる。

「分かった分かった、切ってあげるから」

 ニンジンを受け取って、どんな風にスライスしてあげようかと考える私へ、ペンドラーは小さく鳴き声を上げた。
 批難するような、不服そうにも聞こえる声だった。
 そこまでしてニンジンを食べたかったのかと思ったけれど、見上げてみた黄色く光る目は、そういう単純な我儘を言っているようには見えなかった。
 ペンドラーを見つめる。
 何か伝えたいことがあるのだろうかと、黄色い瞳の中心、黒い瞳孔の奥を、探るように覗く。

「やっぱここにおったんか」

 テラスの方から声がした。
 はっとして振り向くと、機嫌の良さそうな表情のカラスバさんがこちらを見ている。
 テラス窓から部屋の中へ戻ってきたカラスバさんは、私とペンドラーのいるキッチンへ向かいながら、カウンターに並べられた食材へ目を走らせた。

「もうメシの支度しよんの?」
……うん。赤ワイン煮込みのお肉を作ろうと思ったから、ちょっと早いけど準備してるの」
「ホンマ? 嬉しいわ。あれめっちゃ美味いから楽しみやわ」
「煮込むだけだから。カラスバさんにもきっとできるよ」
「えぇ? ……あのな、オレはオマエの作ったやつがええって何遍も言うとるやろ……。あ、そうや。あの肉食うなら、こないだ奮発した、ちょっとええワイン開けよ」

 ちょっとええワイン、という言葉に直感が走った。……さっきワインセラーを覗いた時、新しいワインが増えていた。それを思い出したのだ。

……待って。それってもしかして、ワインセラーの一番奥にあったやつ……?」
「なんや、知っとったんか」
……ねえ。カラスバさん。あのワイン、イッシュ地方の近くの都市で、すごい高値で落札されたのと同じ銘柄だったような……?」

 段々と小さくなる声でおどおどと尋ねた私に、カラスバさんは人相の悪い笑みを向けてきた。
 彼は、笑みを浮かべるばかりで私の言葉を否定しなかった。その様子に、体の末端から段々と血の気が引いていく感覚を覚える。
 先ほどセラーを開けた時、見覚えのなかったそのワインのラベルを、何となくざっと確認したのだ。
 以前、イッシュ近郊の都市のオークションで、とんでもない高値を叩き出した銘柄に似てるな、とは思っていたが、そんなワインが、私の近くに存在しているとは想像できるはずもなかった。……まさか予想が当たるとは。そして、そんなワインを、まさかカラスバさんが購入していたとは——
 ……そのワインを飲んでみても、緊張で舌が麻痺して味など分からないかもしれない。それに、私なんかの作る料理に合わせるのは気が引ける……

……まあ、あれと全くおんなじ物っちゅうわけやないけど、どんな味するんやろな。楽しみやね」

 く。と、詰まるように、カラスバさんは含んだ笑みを浮かべた。
 金をかけた物だとは言わず、これ見よがしにもせず。しかし、ただ風味へ期待を寄せるにしては、カラスバさんの笑みは意味深だった。
 あとから秘密を明かして私の反応を楽しもうとしたのか、それとも、一人で悦に浸ろうとしたのかは分からない。
 でも、間違いなく、明らかに、カラスバさんは愉楽に浸った目をしていた。

「あっ、そうだ、お肉は今日は出来ないからね。煮込む時間が要るから、完成するのは明日だよ」
「はあ? うわ、もう煮込み肉の口になっとったのに。……しゃあないな」

 はっとして伝えた途端、カラスバさんの、悪どくも思える笑みは崩壊した。舌打ちしそうに口元を歪めて、本当に残念そうに顔を顰めている。
 差し当たっての危機は回避されたが、明日にはまた同じ危機が襲来する。むしろ、明日こそが本番だ。それまでに、持ち得る全ての力を注いで、完璧な料理を作らなければならない。
 ……さて、散々寄り道をしたけれど、私は何をしようとしていたんだっけ。
 料理の支度を再開しようとした時、カラスバさんが、サラダに入れるベビーリーフの中から、ルッコラをひょいと摘んで口に運んだ。澄まし顔でルッコラを食んでいる。

「ほんで、料理長シェフ副料理長スーシェフにも仕事が欲しいんやけど?」

 カラスバさんはほんのりと笑みを浮かべながら、調子良く眉を上げてみせた。思わず、つられて笑ってしまう。

「ありがとう。じゃあ、サラダのドレッシングを作ってもらおうかな」

 了解の返事の代わりに、こめかみへ唇を寄せられて、キスが落ちてきた。
 面映さと嬉しさを心で噛み締めて、私はカラスバさんの瞳を見つめる。
 キッチンから少し離れたところで、ペンドラーが、微かな鳴き声をこぼすのが聞こえた。